夜だった。カロルの寝室に熱が渦巻いている。熱い吐息と溜息。時折うめくような喘ぎ声。衣擦れの音を立てて絡み合う体。 「カロル」 呼べばとろりと濁った翠の目。薄暗い部屋の中、それだけが鮮烈だった。 見上げてきた目もそのままに、敷布の中に押し倒す。色白の肌が熱に上気していた。その肌に点々と散るくちづけの跡。 「うつ伏せになって」 リオンの言葉に少しだけカロルは彼を睨む。羞恥まじりのその仕種が何より愛しい。微笑んだリオンをさらにカロルは睨みつけ、それでも諾々と彼に従った。 「ん――」 神官のものとは思いがたい無骨な手がつるりと尻を撫でた。ざらついた手の感触にカロルは息を飲む。嫌いではないが、肌がざわつく。 「少し我慢してくださいね」 こんなときでも冷静さを失わない男が恨めしい。手の中で香油を温めているのだろう、仄かな香りが寝室に漂った。 「あ」 温められた香油がカロルの後ろに垂らされた。ぞくりとした。 「まだ、冷たかったですか?」 どこか笑いを含んだようなリオンの声。苛立って首を振れば、そうですかとだけ言って指が窪みをたどる。 「ふ……」 何度もそこをたどり、いじっているのに一向に進もうとしない指先に、焦れた。無意識のうち、腰を振っていた。その途端、するりと指が入り込む。まるで揺らいだ腰を狙い済ましたかのように。 「く――」 「そんなに力を入れないで、カロル」 「やめ……」 体の中でリオンの長い指が蠢いている。それを思うだけでどうにかなりそうだった。擦り寄るようリオンが肌を重ねてくる。ただそれだけ。繋がっているのは指一本。 「やめていいんですか?」 今度ははっきりとからかわれた。憎らしくて首だけ振り向ける。すぐそこで男が笑みを零していた。噛み付くようにくちづければ、酔ったような溜息。 「もう、いいから。さっさと――」 「まだだめですよ。もうちょっと。ね?」 「いいからこいって言ってんだろ!」 「焦れちゃいました? カロル」 くすりと笑ってリオンは指を引き抜いた。そのときに味わうざらついた快楽が嫌いではなかった。物足りなくなった腰が、自分の意思とは違うもののよう、動く。 「このまましていいですか、カロル?」 うつぶせたままの背に手を這わせリオンはカロルの耳許で囁いた。滑らかで、一見、傷ひとつない背中。リオンはそこに無数の古傷があるのを知っている。 「なに……?」 「後ろからしていい?」 もう一度耳の中に囁き込む。戯れだった。それなのにカロルはほんのわずかの間、体をすくませた。否、体の反応ではない。リオンがエイシャの神官でなければ気づかなかっただろう。それは彼の本質が曇った瞬間だった。 「いえ……やっぱり」 「いい。好きにしろよ」 「いいえ。あなたの顔が見たい」 言い様、腕を引き体をひっくり返した。少しだけ驚いたカロルの表情。仄かな安堵を宿した彼の目。 「力を抜いて」 わざとらしく言えば背中に爪を立てられた。喉の奥でリオンは笑い、ぬくもりの中に沈んでいく。苦痛か、それとも別のものかわからないカロルの喘ぎが耳許で聞こえた。 ――こんなこともあった。やはり夜だった。カロルの朝は早く、夜は遅い。四六時中、罵声ばかりを垂れ流しているような男だけれど、するべきことはすべてこなしている。その分、彼自身の時間と言いうるものは少なかった。 「少しいいですか?」 そう問いかけたときも彼はまだ自室の机の前で魔道書を読んでいた。ちらりと覗き込んでリオンは目を回す。まったくなにが書いてあるかわからない。文章は読める。当然だ。が、あまりにも難解だった。 「どうした?」 訝しそうに言って振り返ったカロルの眉根がさらに顰められる。 「どうしました?」 「そりゃ、俺の台詞だ。なんかあったか」 「いえ。別に」 「いーからさっさと吐け。いい加減に学べよ、どうせ吐かされんだぞ。とっとと吐いたほうが楽だぞ」 ぶっきら棒に言ってカロルはリオンの頭を引き寄せた。その唇に軽くくちづけ、目を細める。それから小首を傾げてリオンを見上げた。 「本当に特に何もないんですよ。ちょっと相手して欲しいなって。それだけです」 「相手?」 「いやだなぁ、もう。すぐさま寝室に連れ込もうとしてるわけじゃないです」 「すぐさまじゃなきゃ連れ込まれそうだと思うなァ俺の勘違いか、え?」 座ったままカロルは思い切りリオンの腹に拳を見舞う。もっとも当たるとは思っていなかった。案の定、動いたとも見えないリオンの掌に防がれている。 「ッたく。しょうがねェ野郎だな。いいよ、付き合ってやる。ほれ、さっさとこい」 「あなたねぇ。もう少し色気と言うものはないんですか」 「俺に求めんのが間違ってんだろ。んなもんは」 「実にもっともです。でも――」 「なんだよ?」 問うてから失敗だと悟ったのだろう。カロルがわずかに嫌そうな顔をする。本心ではないとわかっているからリオンもかまわない。にんまりと笑って囁いた。 「私にはあなた以上に素敵だと思える人は存在しません。とっても色っぽいです、カロル」 言葉に返ってくるのは拳だろうか魔法だろうか。カロルが返してきたのはどちらでもない。溜息一つ。実はそれが一番こたえると知っていた。 「テメェな、その華やかな言葉は説教んときにでもとっとけ。俺に言ってどうするよ」 「あなた以外に言ってどうするんです?」 心底不思議そうに言ったリオンにカロルは笑い声を上げ、先に立って寝室へと歩いていった。 目覚めたときリオンの頭は弾力のあるもので支えられていた。枕ではない。こんな心地良い枕などあるはずがない。カロルの膝に頭を委ねていた。 「カロル――?」 半身を起こしたカロルがちらりと視線を向けてくる。翠の目が困ったよう、細められていた。 「いいから寝てろ」 ぽん、と頭を押さえられた。見ればカロルは片膝を立て、その上に先ほどのものだろうか、魔道書を乗せて読んでいる。 「でも」 「いいから寝てろ。気にすんな」 「はい――」 頭の上に置かれた手が、髪を梳いていた。カロルの肌の匂いと、髪を撫でる感触が眠気を誘う。リオンは後になるまで知らなかった。そのときカロルが研究していたのが、あの塔の迷宮の跡地、暴走した魔力が荒地と化さしめたあの場所を回復させるための物だったとは。 ――また別の日のこと。リオンはラクルーサ王に王城内に祭壇を築く許しをいただいている。別の言い方をすれば街中には出てくれるな、と言うことでもあったが、リオンは女神の祭壇を築けるならばどこでもよかった。 祭壇がある、と言うことはそれがリオンの小さな神殿だった。司教の位を有する者としては信じがたいほど小さい。いっそ村の祠と言ってもいいほどだ。 それでもリオンにとってはこれが自分の神殿。かつていた大きな神殿とは比べ物にならない満足を感じている。 そこにカロルがいるから。すぐそこに彼がいる。それがリオンには何より重要だった。彼が女神の信徒でないことなどなんの問題にもならない。女神もまったく意に介しておいでではなかった。司教のリオンはそれを理解している。 そしてそこが神殿である以上、人が訪れる。単に興味を持っただけの者、数少ない女神の信徒。どちらもがぽつりぽつりと神殿を訪い、いつしか数を増していった。 その日もちょうど信徒たちが集まっている日だった。女神の祭日と言うわけではないのだが、妙に人が集まる日と言うものがある。 リオンのある意味では人徳だろうか。若い娘ばかりで集まっていても母親たちは決してリオンに苦情を言わない。むしろ彼ならば安心とばかり娘を預けていく。 「私も一応は男の部類なんですけどねぇ」 ぼやくリオンに華やかな娘たちの笑い声がかぶさった。 ただ集まっているのではなかった。これでも神殿なのだから、神官の説教を聞こうとしているのだ。が、相手がリオンであるせいかいつしかそれは日々の暮らしの愚痴だったり悩みの相談だったりになってしまう。リオンはそれを聞くのも神官の役目のひとつ、と思ってにこやかにうなずいていた。 「ちょっと――」 娘たちの笑い声が途絶えた、と思ったらそこにカロルがいた。ばつの悪そうな顔をしてリオンを見ている。 「どうしました、カロル」 「いや、いい。急用じゃねェんだ。後にする。寄れよ」 「ですが」 「いい。テメェの用事を先にしてくれてかまわねェよ」 ひらりと手を振って、行ってしまった。その態度も口調も娘たちには言語道断に乱暴なもの、と映ったらしい。口々に非難する声がかまびすしかった。リオンはわずかに唇を噛んで彼の後姿を見送るだけ。 ぼんやりと星花宮の中を歩いていた。カロルは魔道書の研究がある程度目処が立った、と言って呪文室にこもっている。フェリクスも伴って行ったからしばらくは戻らないだろう。 「リオン?」 不意にかけられた声に少しだけ驚いた。振り返ればそこにメロールがいる。 「どうしたの。ぼんやりしているようだけど」 「そう見えましたか。困りましたね」 「違ったのかな?」 「いえ。修行が足らないなぁ、と思って」 にっこり笑って言ったリオンにメロールは溜息をついて額を押さえた。 「メロール師?」 「そんな修行をする必要があるのかと思って」 「あるんじゃないかと思いますが。どうでしょう?」 どうだと言われてもメロールは困る。自分の弟子も変わり者だと思ってはいたが、この男も相当な変人だ、と改めて思う。 「まぁ仕方ないね、お前たちだから。どうだろう、お茶でも付き合わないか」 「お茶ですか。喜んで」 言いつつリオンは訝しそうな顔を隠さなかった。それにメロールは顔をほころばせる。 「愚痴の聞き役くらいだったらできるよ、と言うことなんだけれど」 控えめに言って首をかしげれば、リオンの困り顔。 「それとも……」 口を出さないほうがいいのか、と問いかければ慌ててリオンは手を振った。 「なんだか照れちゃうな、とそれだけです。ちょっとびっくりしました、私」 面と向かって言われたメロールのほうが頬を染めた。それを見られでもしたらアルディアが、誰よりカロルがなにを思うかと思えばこそリオンは慌てる。 「ではお茶にしましょう、はい」 誘ったのがどちらかわからないほど浮き足立ってリオンは先に歩く。結局自分たちの部屋に導いてしまったのだから、リオンもずいぶんと慌てていたことになる。 「いいよ、座っていなさい。私がやろう」 このまま放っておいては火傷でもしかねない。リオンにしては珍しいことに気がそぞろになっているらしい。 それもこれもおそらくは自分の弟子の引き起こしたことだと思えば話くらい聞く義務が師の自分にはある、と思うメロールだった。 「それで、リオン。なにを悩んでいるの」 香り高いお茶の湯気に鼻先をくすぐらせ、なんでもないことのように尋ねれば、一瞬リオンが硬直する。 「……やっぱりわかっちゃいましたか」 「私はあれの師匠だからね」 その一言ですべてを表しメロールは茶に口をつけた。リオンも黙って同じことをする。しばらくは無言で茶を飲んでいた。 「ただの愚痴ですよ」 「それでいいから言いなさいって言ってるんじゃないか」 「えぇ……」 湯気の向こうからリオンが苦笑を返す。あるいは表情を読まれたくなかったのかもしれない。その証拠に彼はすぐに視線を伏せた。 「カロルが……」 「あの子がどうしたの」 「もうちょっとでいいんです。もう少し――」 「おとなしくなって欲しい?」 からかうように言えば、驚いてリオンが顔を上げた。それを見れば充分わかる。リオンは微塵もそのようなことを考えてはいなかったことが。 「とんでもない」 言って少し気が楽になったのだろう。ゆっくりと息を吸って微笑んだ。 「メロール師。どうしてあの人はあんなに遠慮がちなんでしょう?」 メロールは目を瞬いた。きょとんとしてリオンを見つめる。 「遠慮がち……? あの傍若無人を絵に描いたようなカロリナが? 語彙の大半が罵詈雑言なあの子が? 会話をする、と言うことは怒鳴りつけることと同義だと思ってる子が?」 「そこまで言いますか、メロール師」 「いいんだよ、あの子は私の弟子だもの。それで、どこをどうとったらあの子に対して遠慮がちなんて言葉が出てくるの」 問われて困るリオンだった。なにをどう説明すればいいものか、迷ってしまう。 「色々ありますけどねぇ。あの人、私のことを許しちゃうんです、なんでも。嫌だったら嫌って言ってくれていいんです。自分を優先しろって言ってくれていいんです。どうして引いちゃうんでしょう。それくらいで嫌になったりしません、私」 一息に言えば言うだけ、たまっていたものがあふれ出す。そのことに誰より驚いたのはリオン本人だった。 目を丸くしているリオンにメロールはつい、吹き出してしまう。口許を覆って笑い出す半エルフをリオンは不思議そうに見ていた。 「こんなことを聞かされるとは思っていなかったな」 「すみません……」 「そうじゃないよ、リオン。半エルフが一番苦手な分野だから」 「半エルフが?」 「どこの人間が半エルフに恋愛相談をするの。愚痴を聞くとは言ったけれど、私も困る」 ようやくそれでリオンは気づいたのだろう、丸くなっていた目がさらに開かれ、ついには大らかな笑いになる。 「確かに恋愛相談でしたねぇ」 「だろう?」 「はい」 「だからね、リオン。私はとても苦手な話題ではあるんだけれど、これだけは言っておこうか」 「承ります」 なにを言おうとしているかもうリオンにはわかっていた。とてもカロルに愛されているのだということ。だからこそ彼もまたどこまで自分を主張していいか迷っている、と。 にこやかに笑みを交わしてメロールが口を開く、その瞬間だった。爆発でもするよう扉が開いたのは。 「ちょときやがれこのボケ坊主! っと。どうかしたんですか、師匠?」 「……もうちょっと穏やかに入ってこられないの、カロリナ」 「ほっといてください。俺はこのうすらボケに用事です」 「なんです、カロル」 「いいから顔貸せ。黙ってくりゃわかんだよ。一々説明させんな面倒くせェ!」 立ち上がる間も惜しいとばかりカロルはリオンの腕を引く。まるで引きずられるように立ち上がるリオンにメロールは呆れた笑みを漏らす。 「これのどこが遠慮がちなの」 「とっても遠慮してくれちゃってるじゃないですか。もっとはっきりなんでも言ってくれていいんですけどねぇ、私」 「なにわけわかんねェことごちゃごちゃ言ってやがる! くればわかるって言ってんだろうが。とっととこい!」 無理やり引きずられながらもリオンの表情は穏やかだった。なんとなく馬鹿を見たような気がしてメロールはもう一杯、茶を淹れた。 ふと思いついてそのままになっているリオンのカップの水面に片手をかざす。程なく映し出されたのは。 「まったく。本気で馬鹿を見たじゃないか」 おおかた呪文室に戻ったのだろうと思っていたが、カロルは星花宮の外へとリオンを誘っていた。息抜き、と言うことなのだろうか。木立の影にリオンを座らせ、その膝に甘えかかって目を閉じたカロル。 「言葉より態度が雄弁、そういうことか」 呟いて、馬鹿馬鹿しいとばかりメロールは水鏡を消した。部屋の住人は当面戻ってこないだろう。ゆっくりと茶をたしなむ間、アルディアでも呼ぼうかと思ってメロールは笑った。 |