タイラントが小さくなっていた。星花宮の一室、カロルの居間だった。案内してくれたリオンに言われ、硬くなってソファに座ったまではいい。
「でも、そこまで縮こまるようなこと?」
「……いっそ、ドラゴンに戻りたい。飛んで逃げたい……!」
 呆れ顔のシェイティにタイラントは小声で悲鳴じみた言葉を返した。
「この期に及んで逃げたいってどういうこと!」
 ぐずぐずと引き延ばしてきた星花宮帰還だった。シェイティもタイラントも、心配してくれた人がたくさんいるのは、わかっている。だからこそ帰ってきた。
「君からじゃない! そんなこと言わなくってもわかってよ、シェイティ!」
「わかってるよ、僕はね」
 にこりとシェイティが笑った。ものすごく、信じられない笑顔だ、とタイラントは思う。思って、言い返そうとしたその瞬間だった。覚えがある、爆発めいた音。
「テメェ、どの面下げて帰ってきやがった!」
 後ろから、リオンがカロルの襟首を掴んで引き戻し、溜息までついて見せている。怒涛のように入ってきたカロルにタイラントは体をすくませる。
「うるさいな、帰ってこいって言ったの誰? それとも自分が死ぬまで帰ってくるなって言う意味だったの、カロル」
「うっせェぞこの馬鹿弟子が!」
 てっきり怒鳴られているのは自分だと思い込んでいたタイラントはぽかんと口をあける羽目になる。師弟が、華やかに罵り合っていた。
「お帰りなさい、タイラント」
 殴り合いはしても、殺し合いにはならないと見定めたリオンはカロルを放し、タイラントに向かって微笑みかける。
「た……ただいま、戻りました……って、俺は、言ってもいいんでしょうか。リオン様」
「え? なにがです? だってあなた、帰ってきたんでしょう? だったら、ただいま、が挨拶じゃないんですか? もしかして出て行くとか」
「ないです、ないです。そんなことしたらシェイティに殺されます」
「うん。でしょうねぇ」
 にこにことした温顔の神官が少しばかり恐ろしいタイラントだ。あちらでは罵り合いが一触即発の事態にまでなりかけているというのに。
「あぁ、気にしなくっていいですよ。相変わらずの仲良しさんで、妬けちゃいます、私。ま、あの二人はほっといてお茶でもいかが、タイラント?」
 すでに熱い湯を満たしているポットを掲げてリオンは笑う。うなずくこともできず、拒むことはもっと考えられない。居竦まったタイラントを飛び上がらせるに充分な怒鳴り声がした。
「ボケたこと抜かしてんじゃねぇぞ、腐れ神官が! テメェもテメェだ。なんでこんなのつれて帰ってきやがった!」
「うるさいって言ってるじゃない。僕が誰を選ぼうが僕の勝手でしょ。僕が自分で弟子にしたい誰かを見つけてこいって言ったの、誰! あなたじゃない、カロル!」
「黙れ小僧! 確かに言ったがな、おいコラ馬鹿弟子。なんでこんなのがいい。あん? こんな外道! ド腐れ! クズ! ろくでなし!」
「ちょっと、そこまで言う?」
 さも嫌そうに顔を顰めるシェイティだったが、タイラントは反論できない。そのとおりだ、と自分で思ってしまっていた。
「ちょっとは自信を持っていいと思いますよ、私。フェリクスが選んだのはあなたなんですから」
 小声でリオンが言うのに、強張った顔をタイラントは向けた。
「……自信なんて、持てません。俺なんか、カロル様が言うとおりです」
 呟くタイラントの前、温かい茶が供される。無言で勧めてくれるリオンの心に従ってタイラントは口をつける。なぜかほっとする香りがした
「ほら見ろ、あの派手野郎も言ってるじゃねェかよ」
 勝ち誇ったよう言うカロルをシェイティは睨み据え、つかつかと近づいてきたかと思えばタイラントの顔を鷲掴みにした。
「え、ちょっ……ちょっと、シェイティ! なにするの!」
「あなた、本気で馬鹿なの。それとも僕に捨てられたいの。自虐の趣味があるの。さぁ、どれ」
「強いて言えば本気で馬鹿!」
 きりきりと痛む顎に悲鳴を上げまいとしてタイラントは叫ぶ。他の選択肢は論外として、けれど叫んだ己の言葉の馬鹿さ加減。呆れたシェイティが溜息をつく。向こうでカロルが鼻を鳴らす。こらえきれずに吹き出したのはリオンだ。
「……あなたを選んだことをちょっと後悔するのはこんなときだよね」
「シェイティー。それはないよー」
「だって、自分で本気で馬鹿なんて叫ぶ馬鹿。どこにいるの。あぁ、ここにいたか。仕方ないよね、あなただから。僕は一生そうやってしょうがないなって思いながら過ごすのかな」
 溜息まじりの笑い声。だからそれはきっとシェイティの本気だ。だからこそ、タイラントは言わずにはいられない。ここで言わなければ、本当にこれ以上ない愚か者。
「俺は君が許してくれることに甘えるつもりはないよ。たぶんきっと、ううん、間違いなく何度も失望させると思う。でも、頑張るから。君が、いつか自分の目は間違ってなかったって思えるよう、頑張るから」
 思いの外、真摯な顔と声。はじめて見るカロルとリオンは二人に悟られないよう顔を見合わせる。ほんのわずか、カロルは肩をすくめて見せた。
「努力は結果に結びつかなきゃ無駄って言うんだよ、知ってる? 努力だけは認めるなんてぬるいこと、僕は言わないからね」
「わかってる。時間はかかるけど、頑張るから」
「時間はかかるかもしれないって言わないあたりが正直者だよね」
「だって、そんなの……!」
 更に言い募ろうとするタイラントを置いてシェイティは振り返る。カロルの目をしっかりと見ていた。
「ねぇ。だから、ほっといてよ」
 何がどう繋がったのか、タイラントにはわからなかった。それでも彼らの間では通じたのだろう。リオンが微笑んでいた。
「誰がほっとくか、馬鹿弟子め」
 けれどカロルは思い切り顔を顰めそっぽを向く。カロルに認められるはずはない、タイラントはそう思う。
 二重の意味で、だ。魔術師フェリクスの弟子として、自分は相応しくない。シェイティの恋人としてはもっと相応しくない。
「まぁ、世界の歌い手ですしねぇ。もうそっちで名声は確立してますし。今更魔法の修行をするのも正気の沙汰とは思えませんしねぇ」
 カロルの声を代弁するようなリオンの言葉にタイラントは打ちのめされそうになる。うつむいてしまいそうな顔を必死で上げていた。目をそらせば、本当にカロルから軽蔑されるだろう。
「黙れ、リオン。僕はタイラントを弟子に取る。こんな危なっかしいの、ほっとけない。魔術師として。知ってるでしょ、こいつ、音楽で呪文唱えてる」
「おや、そんなことが?」
「とぼけるのも大概にしなよ、鬱陶しい。知らなかったはずないでしょ。ただ、安定してない、自分で理屈がわかってない。なにが起こるかわからない。こんなの、魔術師の誇りにかけて、放置できない。だから弟子にする」
 何度もシェイティは魔術師として、と繰り返す。自分はその価値しかない、タイラントですら一瞬の半分ほどはそう思いかねないほど。
 無論、リオンは騙されなかった。言うまでもなくカロルははじめからわかってでもいるようそっぽ向いたままだ。
「カロル、あなたは言ったよね。僕が弟子に取れる相手を見つけてこいって」
「あぁ、言ったな」
「それって、信頼できる相手ってことだよね。師匠が弟子を信頼するって言うのも、変な感じだけど、でも魔法の修行ってそういうものだしね。僕は身をもって知ってるからね、カロル」
 ゆっくりと、思い出を語るようなシェイティにカロルは背中を向けた。カロルの仕種を誤って捉えたタイラントに、リオンが片目をつぶって見せる。
「だからね、少し様子を見て。僕たちを放っておいて」
 不意に気づいた。これは、シェイティなりの嘆願だ、と。師に向かって、自分たちを許して欲しい、そう彼が願っているというのに、タイラントは何もできないでいいる。そんな自分が嫌になりそうで、けれど動けなかった。
「……誰がほっとくか、馬鹿」
「カロル!」
「馬鹿弟子が! テメェな、俺がどれだけ待ってたかわかってんのかコラ」
 勢いよく振り返ったカロルはまるで炎をまとっているようだった。リオンではないタイラントにすら、そう見えるほど。
「だからカロル――!」
「うっせェ! よく聞け馬鹿弟子!」
「もう、うるさいなぁ。なに?」
「黙れ、うっせェのはテメェだろうがよ」
「はいはい黙るから、なに。さっさと言って。話が通じなくって苛々してきた」
 今にも剣を抜きかねない様子のシェイティに、タイラントはそっと手を伸ばす。彼の袖口を捉え、小さく握り込む。シェイティは振り返らなかった。
 代わりにじろりとカロルに睨まれた。咄嗟に動いたシェイティが、自分の背中にタイラントを庇う。それを射殺そうとでもするよう、カロルの眼光が更に鋭くなった。
「早く、言えば?」
 ゆっくりと、シェイティが言葉を紡ぎだす。危険な兆候を嗅ぎ取ったリオンが静かな動きでカロルのそばについた。
「あぁ、言うぞ。よく聞け、馬鹿弟子」
 すっとカロルが息を吸う。タイラントはいっそ消えてしまいたかった。自分がいるから、シェイティはいま師に傷つけられようとしている。自分さえいなければ。
「……テメェの男の趣味の悪さは最低だな!」
 言い捨て、カロルがにっと笑った。馬鹿馬鹿しいとばかりリオンが天井を仰ぐ。そのままリオンさえ置き去りにしてカロルは出ていってしまった。
「いまの……シェイティ――!」
 どういう意味だったのか、問おうとしてタイラントはシェイティを覗き込み、言葉を失う。
「嘘……」
 呟いたシェイティは、はじめて自分で気づいたよう、目許を拭った。それでもあとからあとからあふれてくる涙。
「嘘。そんな。馬鹿じゃないの、カロル」
 戸惑いながらタイラントはシェイティを抱き寄せる。リオンの目にかまってはいられなかった。意味がわからない。わかっているのはただシェイティが泣いている。
「いいこと教えてあげましょうね、タイラント。あれね、フェリクスの口癖です。いっつもそうやってこの人は罵ってたんですよ、趣味が悪いって。わかりました?」
「わかりません……。わか……え? カロル様に向かって、シェイティが、付き合う男の趣味が悪いって言ってるってことですか」
「そうそう、わかってるじゃないですか」
 それでは、と言ってリオンはカロルを追っていってしまった。わけのわからないタイラントは腕の中のシェイティを見下ろすだけ。
「嘘みたい」
「シェイティ? あの、後ででいいから、その。説明、してくれると嬉しいかなーって」
「嘘みたいなの。カロルが、あんな風に認めてくれるなんて」
 どこがだ。とタイラントは思い切り叫びたかった。どこをどうしたら自分たちを認めた発言になるのか、あれが。
 けれどとても言えない。これが安堵なのか、それとも歓喜なのか、きっとシェイティ自身にもわかっていない。
 わからないなりに、けれどシェイティはいま泣いている。子供のように、拳で目許を拭う仕種にタイラントは胸を打たれた。
「カロルが、祝福してくれた……」
 呟くシェイティに、再度叫び出したいタイラントだった。そして今後何度となく、それこそ心の喉が嗄れ果ててしまいそうになるほど度々、タイラントは叫び出したい思いに駆られることをこのときはまだ、知らない。




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