夢を見ていた。 熱に浮かされた、これはきっと夢だ。 「あぁ……」 歌声が聞こえた。寝台に横たわったままの熱く重い自分の体に、まるで涼しい夜風のような子守唄。 「誰」 窓辺に人影。誰かがいるのはわかっていた。けれどそれが誰なのか判然としない。とても大事で、温かい人だという気だけがする。 窓辺の人が、繰り返し歌う。幼いころに誰もが聞いたはずの子守唄。何度も、何度も。それだけしか歌を知らないとでも言うように。 「気持ちいい――」 温もりにくるまれた気分だった。歌声が、タイラントの熱を冷まし、眠りに誘う。歌声に漂うのはただひたすらに、心地良かった。 夜の窓辺。月影だけ。定かではない人影。その人の歌。甘く、懐かしく、蕩けるような、夢を見た。 翌朝になって、タイラントの熱はすっかり下がっていた。熱を測りにきたシェイティが、呆れたような顔をしてうなずく。 「体力だけはあるんだね」 「だけってなんだよ!」 「別に他意はないけど? だいたいね、タイラント。さすがだよね、あなた」 「なにがだよ」 「だってよくこんな時期に風邪、ひけるよね。こんな夏場に風邪ひくなんてさすが馬鹿」 「ちょっとそれって酷くないか!?」 「どこが? 夏風邪は馬鹿がひくものって相場が決まってる」 冷たく言い、シェイティは持ってきた器をタイラントに押し付けるよう渡した。何かと見ればれっきとした病人食。メグ辺りに頼んだのだろう。心配をかけてしまったのだと不意に気づく。 「シェイティ」 「なに」 「その、ごめん。心配、させたよね。気をつけるから」 「別に心配なんてしてない。食べたらまた寝れば?」 「平気だよ! もう治ったから!」 「いいから寝る。心配かけたって思うくらいだったら完璧に治して」 「あ! ほら! 心配してくれてる。やっぱ嬉しいもんだよな」 寝台の上でにまにまと締まらない顔をして笑み崩れるタイラントをシェイティは冷ややかに一瞥する。それから溜息まじり、器を取り上げた。 「だから、心配なんかしてないって言ってるじゃない。看病するのが面倒だって言ってるの。やらなかったらそれはそれでカロルがうるさいし、リオンになに言われるかわかったもんじゃないし。だから、あなたはさっさと治す。もちろん、全快のあかつきには二人に僕のおかげで早く治ったんだって言ってくれるよね、僕のちっちゃなタイラント?」 そしてシェイティは反論は許さないとばかり、器に匙を突っ込み、そのまま熱い粥を満たしたそれをタイラントの口に突き込んだ。 声もない悲鳴が上がる。それはそれは熱かっただろう、とシェイティも思う。わかっていてやっただけに罪悪感は薄い。そもそも、この自分が彼に怪我をさせるはずはない。熱くはあっただろうが、悲鳴を上げるほど熱くはなかったはずだ。 「吟遊詩人。大袈裟だよ。僕にわからないとでも?」 もう一度、匙を突っ込む。またもタイラントは何も言えずに粥を飲み込む羽目になる。熱い粥は、けれどそれなりに旨かった。何より乱暴この上ないやり方ではあるものの、シェイティが看病してくれている。それがタイラントの病を癒していく。 「にやにやしてないでさっさと食べる!」 苛々と声を荒らげるシェイティを眺めながらタイラントは粥を食べさせてもらった、最後まで。その間、何度となく頭を小突かれはしたが。 今日の修行は当然だが休んでいい、と言いおいてシェイティは部屋を後にした。途端にがらんとした広い部屋。心細くなってしまうほどだった。 「ここくるまで、こんな広い部屋、使ったことないもんなぁ」 吟遊詩人は王侯貴族の屋敷に出入り自由、とはいえ所詮は流れ者の芸人。立派な部屋、というものにも限界がある。 確かに星花宮のシェイティの部屋は――いまは自分の部屋でもあるが――豪華でこそない。金箔が張り巡らしてあるわけでなし、宝石を彫り込んだ家具があるわけでもない。 ただ、趣味のいい家具と設えだとタイラントは思う。これはシェイティの趣味なのだろうか。それとも彼自身は何も手を入れていない、当初のままの室内なのだろうか。 「最初っからこれってほうに金貨一枚」 独り言にタイラントはにやりと笑う。その拍子にけほけほと咳が出た。それにはさすがにタイラントも青ざめる。 いまは星花宮の魔術師のひとり、と言うよりまだ弟子ではあるが、この星花宮の住人であることに違いはない。だが、意識の上ではまだ自分は吟遊詩人だという思いのほうが強かった。 「参ったなぁ……」 部屋を見回してもなにがあるわけでもない。むしろ、よけいなものが何もない。だからこそ、いっそう部屋が広く見えてしまう。 よくよく見れば家具なども手間も暇もかかっている。つまり、金が相当かかっている。だから悪いものであるはずがない。ならばやはり。 「最初っから、そのまま使ってるんだろうな、君は」 きちんと整えておくことはする人だ、シェイティは。そうでなくては魔術師は物に埋もれて死ぬ、と彼は言った。あながち嘘ではなさそうだ、と言うのがここに住み暮らすタイラントの実感にもなりつつある。けれどあの気性だった。室内装飾に気を配るとも思えない。 「そもそも、そんな君はちょっと気持ち悪いよな」 酷いことをこっそり言ってタイラントはけれど笑っていた。そんなことで怒る彼ではないと、いまは知っている。彼にとって本当に酷いことをした自分だから。これでもかとばかりに傷つけあった自分たちだから。 「元気になったら、時間見つけて俺が飾るよ、シェイティ。君が気に入るような、君に似合う素敵な部屋にするよ」 殺風景なこの部屋は、あまりにもシェイティの冷たさばかりを引き立てる。本当の彼がどれほど豊かな心の持ち主がタイラントはよくわかっている。だから。 「森の月影。雨……ううん、雨みたいに降る、月の光だ。それから夜の花。甘い匂いがする。見えないけど、そこにちゃんとある。シェイティ、君だ」 呟きのような言葉の断片。まるで歌だった。そしてタイラントは世界の歌い手だった。欠片がそれでも歌になる。 「……ん?」 が、何かが引っかかった。歌。影。音。声かもしれない。何かを夢に見たようなかすかな記憶。とても美しくて、蕩けるような記憶。 思い出せないまま、タイラントは眠りに落ちた。 結局、本復を果たすのに五日ほどかかってしまった。我ながら信じがたいが、シェイティは星花宮の生活に慣れないせいで出た疲れだろう、と彼らしくなく殊勝に言った。 「あれはあれで、けっこう怖い」 ぼそりと言えば、急に陰からシェイティが飛び出してきそうな気がして背筋が冷える。が、そんなこともなかった。 シェイティは実際いま、とても忙しくしている。自分の看病に時間を取られた分、取り返したい研究なりなんなりがあるのだろう。そう思うタイラントは少しだけ寂しさを噛みしめる。 「でもまぁ、一緒にいてくれたし。心配してくれたし。あれはかなり、嬉しいよなぁ」 にんまりとしてタイラントは課題に励む。当然、失敗した。どうにも大地や植物を扱うのは苦手でならない。だったら火は得意かと聞かれても困る。水の系統はと聞かれれば無言を通す。かろうじて得意、と言えるのはやはり風を扱うことだった。 「当たり前でしょ」 それが理解できたときシェイティは一言の下にそう切り捨てたのだけれど、実は嬉しかったのではないか、とタイラントは思っている。自分が言われなくても理解したこと、学びつつあること。それが彼に喜びを与えている。タイラントにとっても、嬉しいことだった。 気持ちを切り替えて再び課題に挑戦する。巧くは行かないが失敗はしなかった。何度か繰り返すうち、少しはまともに扱えるようになる。 「やった――!」 歓声を上げた途端、あえなく魔法は崩壊した。泥だか葉っぱの破片だかわからないものにまみれ、タイラントは溜息をつく。 「この辺にしておこうかな……。また」 シェイティを失望させてしまうかもしれない。魔法を失敗したことより、その恐れのほうが強い。肩を落としてタイラントは呪文室を出て行く。 気分転換に風呂で汗を流し、身なりも整えた。とりあえず、失敗した直後の暗い気持ちは拭えている。だがまだ部屋に帰る気にはなれなかった。 いつの間にか日の暮れた星花宮の中庭を散策する。振り返れば窓に明かりが灯っている。星花宮の夜は長い。まだ大勢が研究と練習に励んでいるのだろう。 「なにやってんだかなぁ、俺」 休憩などしている場合ではない。わかってはいる。練習して練習して、立派な魔術師になれば、シェイティが喜んでくれる。 「そのために」 頑張らなくては。思うけれど、疲れていた。体ではなく、心が。胸いっぱいに夜の空気を吸う。甘く涼しい匂いがした。 不意に。タイラントは導かれるよう足を出す。甘さ、涼しさ、この匂い。 「これ、知ってる」 糸で引かれるよう、タイラントは歩いていく。そして木の下影に誰かの姿。咄嗟にタイラントは姿を隠す。別の木の後ろに回りこむ。 「これ……」 陰に座り込んだ誰か。小さく聞こえる何か。ひどく懐かしくて、そのくせいま生まれたかのように新鮮な。 「耳に残る――」 歌だった。夢だった。あの時の、子守唄。タイラントは耳を澄ます。聞こえなくても聞こえていた。あの日から、夢の中からずっと聞こえていた。 「君の、歌声」 なんという甘美だろう。ありえないほどの陶酔。現実になった記憶、あるいは具現した夢。タイラントはただ耳を傾ける。 「……隠れてないで出てきなよ、あなたがいるって、わかってる」 シェイティだった。歌をやめた彼が、暗がりからタイラントを呼んでいた。一言も発することなく、タイラントは彼の元へと辿り着く。つまずきも、惑いもしなかった。 「シェイティ……」 「よく覚えてたね。気がついたんだ?」 「君の、歌だったんだ。いま、わかった。俺、わかってなかった。誰かが歌ってくれてる夢だって、思ってた」 「夢ね。いいんじゃない?」 昏黒の闇に、シェイティの表情は見えない。それでも彼が微笑んでいるのがタイラントに伝わる。 「君が、歌ってくれてたんだ、あのとき」 「まぁね。本職の前で歌うなんて、僕もいい度胸だよ、ほんと」 「そんなことない! 歌は心だ。君の思いが、歌になる。その前で吟遊詩人かどうかなんて、たいしたことじゃない!」 あれほど心に響く歌は聞いたことがあっただろうか。自分はあのような歌が歌えるだろうか。羨むのではなく、ただひたすらにタイラントは心を揺り動かされていた。 「シェイティ。あれは、子守唄だったね」 彼にも子守唄が歌えた。それがタイラントにとって涙が出るほどの喜びを与えていた。けれどシェイティの気配が首を振る。 「違うよ、タイラント。僕に子守唄を歌ってくれた母親はいない。カロルだよ」 「……え?」 「前にね、ちょっと死にかけてたとき。カロルが歌ってくれた子守唄。僕に歌える歌なんて、それくらいしかないからね」 言葉を失くしたタイラントは黙って腕を伸ばす。言わなくても通じてしまった。シェイティが覚えた子守唄は、自分がきっかけだった。タイラントには、それがわかった。 「あなたが気に入ってくれたなら、覚えてた甲斐がある、かな」 悪戯げに言い、忘れたくても忘れられないんだけど。シェイティはそう付け加える。それがどういう意味かは、タイラントには問えなかった。いつか尋ねられる日がくるだろう。自分が一人前の魔術師になった日か。彼の隣に立つに相応しくなったその日に、問うだろう。タイラントはそう思う。 いまはただ、闇の中で見つけたシェイティの手を握り締め、引き寄せて抱きしめた。 |