それはフェリクスが探索の旅に出されるしばらく前のこと――。

 星花宮はいつもどおりだった。魔術師たちがあるいはあわただしく、あるいは密やかに廊下を行き来する。
 フェリクスもまた研究に勤しんでいた。魔術師など、研究好きでなければとても勤まらないものではあるが、その中でも特にフェリクスは研究を好む。
「理解できないことがあるのって悔しいんだよね」
 魔道書に向けて呟くというよりは挑むよう。睨んだそれはカロルの手になる炎の魔術を記した本。
「適性だって、わかってはいるんだけど、それがまず納得できないよね」
 フェリクスが最も得意とするのは氷の魔術。水系統が得手、なのではなく氷が得意、と言う辺りに自らの性格が反映されている気がして、そこに納得できてしまうのがもう、納得が行かない。
 得意とするのが氷のせいか、どうにもカロルのように巧く炎を操れない。もっとも、カロルのほうはフェリクスほど氷を上手に操れないのだからおあいこ――とは思わないのがフェリクスだった。
「これが人間の限界ってやつなのかな? メロール師は違うよね。なんでも普通にできるし、普通以上に巧いし」
 半エルフと人間の差。このときのフェリクスはまだ自分を人間の範疇に数えていた。歴然と違う。けれど異種族と言うほど違いはしない、と。
「問題は、汎用性を持たせるか、それとも特化する方向に行くかだよね。どう考えても、特化したほうが扱いやすいのはわかってるけど」
 それでもフェリクスは憧れる。カロルのあの鮮やかな炎に。自分のできないことを師があれほどまでに巧みにしてのける。羨むより、そこに近づきたいと思うのがフェリクスだった。
「なんとか、ならないかな……」
 カロルの手になる本を読んでいても解決策など思いつかない。自分で考えるより他にないとわかっていても、どうにもならない。
「認めるしか、ないのかな」
 自分にはあれほど見事な炎は造れないと。模倣することはできる。カロルの贋物くらいの炎ならば、自分にも作ることができる。
「でも、やっぱり贋物だよね、あんなの」
 不満そうに呟くフェリクスをもしも目にするものがいたならば、可愛いと思うかもしれない。普段の彼からは考えられないほど、悔しさを滲ませた顔は幼げだった。
「なにが贋物なんです?」
 誰もいないはずだった。が、いつの間にかそこにリオンが立っていた。にんまりとした顔を見れば、どうやら独り言まで聞かれたらしいことがフェリクスにはわかる。即座に獰猛な表情になって、リオンを睨んだ。
「ちょっと、何してるの。一応、言っておくと、ここって僕の部屋なんだけど? あなたには人の私的な空間を重んじるって感覚がないの? そんな配慮を求めるだけ無駄ってことだよね、ボケ神官だし」
「ですからね、私をそう呼んでいいのはカロルだけですって」
「それで、僕の安らぎを崩壊させてまであなたがそこにいる理由はなに。用がないならとっとと出てって。と言うより。入ってこないで。むしろ目障り。早く僕の前から消えてよ」
「まったく罵倒表現の豊かさは誰に似たんですかね。もちろん! 私の愛しいカロルに決まっていますけど。でもカロルの罵倒はもっと愛が――」
「リオン。用はなに」
 きっぱりと名を呼んで、これ以上の戯言を聞く気はない、フェリクスは言外に告げる。同時に用事を早く言えとも。
「はいはい。せっかちさんなところもあの人そっくり――ってわかりましたから! 人に向かって武器を向けるのはよくないことですよ、フェリクス」
 わずかに首を傾けてフェリクスの氷の剣をかわし、リオンは笑った。あまりにも無造作なよけ方に技量の差を感じ、フェリクスはわずかに唇を噛む。
「用件ですが、単純です。カロルが呼んでますよ」
「ちょっと! なんでそんなことであなたがくるわけ? 意味わからない! 普通に呼べばいいじゃない。あなたの顔なんか見たくないんだけど」
 通常、カロルは精神に軽く触れて呼び出しを告げる。王城の範囲内程度ならば、どこにいてもすぐにわかる。ましてここは星花宮。カロルの呼び出しに気づかない距離ではない。
「カロル、どこかにいってるの。呼び出せないほど遠くってこと?」
 フェリクスに触れられず、リオンに触れられるほどの距離、と言うものを考えるといささか忌々しくなる。リオンならば愛は距離も時間も越える、などとほざくだろう。
「違いますよ、ここにいますって。少なくともさっきまではいましたよ」
 星花宮にいる、と言う言葉にフェリクスはリオンの表情を見落とした。風変わりな神官は、かすかに痛ましげな目をしていたのだが。
「だったらなんであなたがくるの! もう、ほんとになんの嫌がらせなの? 絶対カロル遊んでる!」
「……違いますよ」
「だって、どこが違うって言うの! 僕があなたのこと大っ嫌いで、あなただって僕のこと嫌いじゃない。それなのにあなたが使いにくる理由ってなに? あなたで気晴らししていいよって言う師匠の温情なわけ?」
「……違いますよ」
 同じ言葉の繰り返し。不意にフェリクスは言葉を切る。訝しげにリオンを窺った。取り繕うように、笑っていなかっただろうか、この神官は。
「――用件を聞く。はっきり正確に、予測して」
 カロルの言葉ではなく、自分の推測を述べろ、とフェリクスは兄弟子の声で言う。毅然とした声の中にあるのは氷の響き。
「できますが、私が言うことではない気がします。自分で見てください」
 けれどリオンはそう言って、首を振った。わずかに伏せた視線は、まるで表情を隠すかのよう。
「リオン」
「師匠のお呼びですよ、兄弟子様」
 にっと笑ってフェリクスの追及をかわす。自ら率先して背を向けた。ついてこいと言うのか、それとも同行するというのか、フェリクスにはわからない。
「……だから、あなたなんか嫌いなんだ」
 背中に向かって呟く。聞こえよがしのそれにも彼の背は揺るがない。端然としたと言うには柔らかな、飄々としたと言うには厳しい背中だった。
「どこ、いくの」
 リオンの歩みは速くも遅くもない。フェリクスの歩きやすい速さだった。あわせられている、と気づいて腹が立つ。
「王宮ですよ」
「王宮?」
 思わずの鸚鵡返しの愚かさに、また苛立った。先ほどカロルは星花宮にいる、と言った。いまリオンは王宮に行くという。ならばカロルもまた、王宮に向かっているのだろうか。
 何度も問えばそれだけ自分の愚かさが際立つ気がして、フェリクスは無言で歩く。いずれにせよ、結果はすぐに出るだろう。
 リオンは王宮の裏手へ、地下へと歩いていった。それでフェリクスにも国王の用事でないことが理解できる。
 もうそこは王宮とは名ばかりの、薄暗い場所だった。各種召使が居住し、華やかな場所をよりいっそう飾るための仕事をする、貴顕淑女の目には決して映らない場所。
 フェリクスも、さほど馴染みがあるわけではない場所だった。敬遠しているのではなく、用事がない。
「ここですよ」
 リオンが一枚の扉の前で足を止めた。召使の居住区は、床も壁も素のままの石組みだった。扉も単純にして飾りのない木製。
 リオンは控えめに扉を叩き、答えを待つことなく入っていく。続いたフェリクスは息を飲んだ。
「……陛下。なぜこんなところにいるんです?」
 召使の部屋に、国王がいた。ありえないものに眩暈がして、王の横にいるカロルに目を向ける気にもならない。
 互いに友情を結んだ当初は若い王だったが、すでに壮年となったノキアスは、フェリクスを見つめて目許だけで微笑んだ。すぐに厳しい表情に戻る。
「フェリクスがきたならば、私は戻ることにしよう。最期を見舞うほどの功はない」
 王の言葉に、はっとしてフェリクスは寝台に視線を向ける。そこには老人が横たわっていた。浅い息、閉じた瞼。今にも召されようとしている老人。
「アデル・ダムド――!」
 何年たっても忘れなかった。忘れるはずがなかった。忘れるとは、許すと同義。フェリクスは、きつく拳を握り締め死に瀕した老人を見やる。
「……この男は、あれ以来ずっと王宮に仕えてきた。テメェも知ってるな? 貴族の身分を剥奪されて、召使として、奉仕してきた」
「奉仕と言うことのことはされていない気がするね」
「陛下の仰せもわかりますがね。まぁ、取り合えずってやつですよ」
 苦笑しながらカロルが言う。視線は、ダムドに向けたままだった。そこに憎しみがないことにこそ、フェリクスは驚く。
「カロル」
「あん?」
「……憎く、ないの」
「テメェは?」
 問われてフェリクスは自らの心を探す。あれほどの憎しみ、殺してやりたいほどの憎悪。殺すよりも的確に相手の心を貫けると信じたからこその、身分の剥奪。それでも機会があれば、殺してやりたかった。
 ――そのはずなのに。今ここに死に逝く老人がいる。こちらの声など、もう聞こえていないのだろう。ただ、横たわっている。
「……おかしいね」
 ぽつり、とフェリクスが呟いた。その肩を励ますよう叩き、王が部屋から出て行った。残ったのは、三人の魔術師と、一人の老人。
「変だよね、カロル。どうしてだろう」
 フェリクスはだらりと両手をたらしたまま、無表情にダムドを見ていた。この男からされた仕打ちの数々を思い出す。
 娼家に飼われていたころのこと。どれほど痛めつけられただろう。人として扱われなかっただろう。
 星花宮にきてからのこと。逃れたはずの過去に捕まって、絶望したあのころ。
「死ねばいいって思ってた」
「どっちがだ?」
「……僕じゃない、こいつ。僕は、こんなやつのためになんか、死にたくない。色々あるけど、僕が死にたくなるとしたって、絶対こいつのためなんかじゃない」
 それをよしとするよう、カロルがうなずいた。それから無言で続きを促す。
「死ねばいいってね、思ってたのに。死にそうなこいつ見てると、生きればいいって思う」
 それは慈悲ではなかった。死に逝く人を惜しむがための言葉ではなかった。カロルが同意してうなずき、リオンが痛ましげに目を伏せる。
「なんでこんなに安らかに死んでこうとしてるの。僕らをこれだけ苦しめて、僕らだけじゃない、もっとたくさん同じことされた人たちがいて、そんな人たちの復讐だなんて、そんなたいそうなこと、言わないけど。でも、あれだけのことしたやつが、どうしてこんなに当たり前に死んでくの」
 淡々としているがゆえに望みの失せた声。フェリクスとカロルにとっての大悪人が、ごく当たり前に死んでいくことが耐えられない。これではあまりにもただの人ではないかと嘆く声。
「あなたのためじゃないです。これは、カロルのためですからね、フェリクス?」
 リオンに何を言われたのか、わからなかった。いまここで何をわかりにくいことを言うのか、と神官を見やったその目が、一瞬にして老人に据えられる。
 半ば死の腕に捉えられていたはずの老人が、のたうっていた。寝台の上、死に切れず苦しんでいた。喉が鳴り、動きにくい腕が救いを求める。
「ダムド」
 呼び声になど、反応しない。ただひたすらに苦痛を呻く。フェリクスはその手をとった。物凄い力で縋りついてきたダムドの手を。
 ――払い落とした。
 一瞬の希望。それがあったからこその絶望。フェリクスは知っていた。過去に経験したから。カロルも知っていた。同じ過去を持つから。
 ダムドの目がかっと見開かれ、天井を睨む。みるみるうちに涙があふれ、そしてダムドは死んだ。三人の魔術師は、無言で遺骸を見ていた。
「それで、どうよ?」
 首を振り、口を開いたのは、カロル。深呼吸したくとも、死したりとはいえダムドと同じ部屋の空気は吸いたくない、と言うよう顔を顰めた。
「どう……って」
「これ、どうしたい、テメェは」
「これって死体? 死体に興味を持つほど変態じゃない」
 いつもならば叩きつけるようなフェリクスの声に力がなかった。
「ちったァ気が晴れたか」
 このダムドの死に様に。ある意味で果たされた復讐に。二度とこの男に害されることはない安堵があってもよかった。それなのに。
「……全然」
「そんなもんだろうな」
「どうして!」
「テメェで理解してることを師匠に問うな。横着すんじゃねェよ」
「……復讐は無意味ってこと? そんなことしても、気分なんかよくないってこと?」
「あのなァ、無意味だなんつーのはとっくにわかってたことだろうがよ。テメェがいま何も感じねェってんなら、答えは一つだろうが」
 意味がわからず、フェリクスはカロルを見つめる。カロルを守るよう、慎ましげにリオンが立っているのもいまは癇に障らなかった。
「テメェは少なくともダムドの痛手からは立ち直ってるってことだろ。違うか、フェリクス?」
「……わからない」
「テメェはダムドの死に、喜びも憎しみもしなかった。俺はそういうことだと思うがな。ま、テメェのことだ。テメェで考えて、決めな」
 ひらりと片手を振ってカロルは何事もなかったかのよう、部屋を出ようとする。当たり前にリオンが続いた。
「待って!」
 ダムドなんかと、たとえ死んでいてもダムドなんかと同じ部屋にいるのは、耐えがたかった。あまりの慌てぶりにカロルが内心で顔を顰め、リオンは小さく笑いを漏らす。
「ちょっと、なに笑ってるの!」
「いえいえ、なんでもないですよ?」
 言いつつ笑っているリオンの背中を思い切りフェリクスは殴りつけた。そんなもので痛がる神官ではなかったから。
「……一応、礼は言っとくよ」
「やだな、カロルのためだって言ったじゃないですか。あなたに礼を言われる覚えはありませんね」
 嘯く神官の背をもう一度殴りつけ、フェリクスは足早に召使の居住区から離れていく。
 ダムドの亡霊が自分を見ているなど、思ったわけではない。亡霊に追われているから逃れたかったわけではない。
「決着なんて、こんなものだね。終わっちゃえば、あっけないね」
 一人呟き、フェリクスは足を速める。言われるまでもない。復讐の無意味さなど、もうわかっていた。ここから先は、純粋に自分の未来だ、そんな気がして小さく首を振る。
「僕は、僕だ。十年前の僕も、今日の僕も、十年後の僕も、僕だよね」
 過去は過去。終わってしまったことに囚われすぎず、認められる日が来るのだろうか。すぐそこに来ている、そんな気がした。
 背後を歩くフェリクスの独り言に、カロルはわずかに厳しい表情をし、唇を噛む。リオンが覗き込んで笑った。
 リオンは思う。いまのはあふれ出る喜びを必死で隠そうとしそこなった表情だ、と。ほころびそうな唇をあえてきつく引き結び、謹厳な顔を取り繕った。
 ――これはフェリクスの最終試験も近いですね。
 そのとおりになった。




トップへ