二人はリィ・サイファの塔に移動していた。長い喧嘩だったとシェイティは思う。顔も見たくない、言葉を交わすなど論外と思い定めてから四年は経っている。
 結果がこれだ、と思えば力なく笑うしかない。カロルに知られれば間違いなく罵倒される。リオンに言えば痴話喧嘩だと笑われる。
「だから、もうちょっとだけ、ね」
 中々星花宮に帰ることができない。タイラントに言えば彼はそれでいいとやはり笑った。
「ねぇ、なにがおかしいの」
「別に笑ってないってば!」
「どこが?」
 思いきり笑っていたと目つきで言えばタイラントは目をそらす。自覚はあったらしい。
「いや、そのさー。だってさぁ、俺だってやっぱり帰りにくいって言うか」
「ねぇ、あなた。まどろこしいのは今に始まったことじゃないけど。でもはっきり言ってよ、面倒くさいなぁ、もう」
 言いつつシェイティはタイラントの包帯を換えていた。彼の傷は塞がってはいる。ほとんど完治しているし、残っている傷跡はタイラントが戒めとして残すと言ったものだけだ。
 それでもシェイティは必要のない手当てをする。そうしたかったからだし、何よりそれが謝罪だとタイラントならばわかってくれる、そんな気がした。
「あのさ、シェイティ」
「だから、なに!」
「俺、カロル様に怒られた」
「だろうね」
「リオン様との約束も破った」
「知ってるよ。それで?」
「……君を見つけて、許してもらって、こうやってそばにいることも許してくれてさ。それでも」
「あぁ……わかった。カロルの顔を見るのが怖いってことね」
「はっきり言うなよ!」
 悲鳴じみた声にシェイティは顔を顰める。吟遊詩人のそれなど、本気にしてはならない。半分以上が演技だとわかっていた。
「ねぇ、一つ聞くけど」
「うん。なに?」
 タイラントの目がきらきらとしていた。左右色違いの彼の目に思わず見惚れそうになったシェイティはばつが悪そうに目をそらす。それから言葉を続けた。
「あなた、自分で魔法、使えるようになったよね。楽器なのか歌なのかわかんないけど、でもそれって魔法だよね。わかってる?」
「わかってるよ」
 思いがけない真摯な声。それにシェイティもタイラントの決意を悟る。危険で大きな力。どれほど有意義な、人のためになる使い方をしようとも、魔法そのものが危険であることに違いはない。それをタイラントは理解している。
「わかってるからさ、だから、君からちゃんと習いたいんだ」
 タイラントの言葉に、声が詰まった。シェイティは無言で彼を見つめる。それを問おうとしていた。それこそを問いたかった。
 忘れてしまった約束。ないことになってしまった約束。あの時の約束を、今からもう一度果たしたい、タイラントはそう言う。
「俺の魔法はたぶん、俺の独自のものっていうか、別にそれが誇らしいって言うんじゃなくって、なんて言ったらいいのかな……」
「系統だってない?」
「そう、それ! だからなんとなくできてるだけなんだよね。これってすごい危ないよな」
「わかってるじゃない」
「色々、勉強したからね、俺も」
 わずかばかり苦い声。シェイティを傷つけ、自らを苦痛の沼に叩き落してでなければ学ぶことのなかった自分をタイラントは悔いていた。
「どんな形であれ、理解することって大事だと思うよ。まぁ、いずれ話すけど、僕にも苦い経験ってやつはあるからね」
「いいよ、話さなくって」
 にこり、タイラントが笑った。昔だったらそれを気遣いと解釈しただろう。今は。
 タイラントの本心だと知る。今ここに自分がいる、それでいいとタイラントは言葉の外側で言う。それを信じることのできる自分が少し、シェイティは嬉しかった。
「他人から伝聞の形で聞かされるより本人に聞かされたほうがましだと思うけど?」
「……ちょっと怖いんですけど」
「ねぇ、あなた。よもやと思うけど、僕が温和な人格者だなんて思ってないよね?」
 ふっとシェイティの口許がほころんだ。笑って言うことかとタイラントは思うけれど、真顔で言われれば層倍して恐ろしいだろう。
「そう言う答えに困るようなこと言うなってば!」
「思ってないならそれでいいの。でも、たぶん。あなたが思ってるより僕は残酷なことをした。後悔もした。償って、進みたいと思って進めなくなってずいぶん経ってる。あれから……二十五年くらい経ってるのかな。長いよね」
 ぽつりと呟いたシェイティに、タイラントはぴんときた。ラクルーサの塔の迷宮。以前、シェイティは仄めかしたことがあった。ではあれは事実だったのか、とタイラントは思う。
 思った上で、さらに酷いことだったのだと悟る。シェイティが言葉を濁すほど。他人から聞かされてはより恐ろしいだろうと言うほど。
 それでも目の前にいる小柄な魔術師に寄せる思いは少しも、変わらなかった。
「君は、すごいよな」
「どこが? なにが? 後悔ばっかで、自分でもいやになるんだけど?」
「だって、それでも君は進もうとしてる。諦めない。それって、すごいと俺は思う。やっぱさ、人間っていうか、君も含めてだからな! 人ってさ、どうしょうもなくなっちゃうと、止まっちゃうじゃないか。もういいやって、どっかで思っちゃうじゃないか。でも、止まったらそこでおしまいなんだよな」
 タイラントはシェイティを追い続けた旅の途中を思い返すよう、遠い目をした。懐かしむような、苦しむような目。
「言うのは簡単だと俺も思うよ。諦めない止まらないって、言葉にすれば簡単だよな。でも、実践するのは難しい。すごく難しい。君は、それをやったんだよな。心から尊敬する。君は、すごいよ、シェイティ」
「……僕を尊敬するって、頭がどうかしたんじゃないの、やめてよ。もう」
「あ、照れてる? うん。いいな、そういう君も、すごく好きだ」
「うるさいよ!」
 幸せそのものといった顔をするタイラントを見ていられなくてシェイティは目をそらした。幸せと言うことがどういうことなのか、あまりにも知らなかった自分を思う。
 不幸だとは思わない。下を見ればきりはないけれど、上を見てもきりはない。自分は自分でそれなりに満ち足りている、そう思っていた。
 まるで、間違っていた。タイラントを得て、はじめて生きている、そう言えるようになった自分がここにいる。
 少しだけ、カロルを思った。大嫌いなリオンではあったけれど、カロルは彼を得て、どれほど心が満ちたのだろう。
「ちょっとだけ、リオンに悪いかもって思った」
「なにが、シェイティ?」
「リオン、大嫌いなの。あの男、ほんとに嫌い。カロルの趣味の悪さは最低だと思う。それでも、ちょっとだけ、悪いことしたかなって。僕は大嫌いだけど、カロルは幸せなのかなって」
「なぁ、シェイティ」
「なに?」
「それって、惚気?」
「本人に向かって惚気てどうするの!」
 にんまりとしたタイラントにつられるように怒鳴ってしまってから、うっかり乗せられたのだとシェイティは気づいた。自分の呆けぶりが信じがたい。少し、楽しい。気づけは声を上げて笑っていた。
「もう、話があっちこっちじゃない」
 タイラントの肩を叩く手に戯れを見た。自分がこんなことをするようになったのが、やはり信じられなくて、カロルもきっとあの頃は同じ気分でいたのだと思えばおかしい。
「それであなた、魔法、習う気でいるの」
「いるよ、もちろん! 君が、教えてくれるなら」
「僕が? どうしようかな、カロルに預けようかと思ってたんだけど」
 心にもないことを言えば、心のこもらない悲鳴が聞こえた。互いに目を見合わせ、くすりと笑う。
「いいよ、教えてあげる。僕でいいならね」
「君がいい」
 短い言葉。師弟の誓いではない、むしろそれは。心に言葉が浮かんだ途端、シェイティは自分の頬に血が上るのを隠したくてうつむいた。
「シェイティ」
「うるさいな、ちょっと黙っててよ」
「だったら一言だけ。君が好きだよ」
「二言じゃない、それって」
「いいから!」
「ほら、黙らないし」
「もう、シェイティー。勘弁してよー」
 人間の姿。それでも仲のよかった頃の小さな真珠色の竜を思わせる言葉遣い。シェイティは呆れてタイラントの髪を指にとる。
「ちょっと千切れちゃったけど、でも綺麗だよね。ほんとあなたって黙ってれば絶世の美男で通るのに、どうして喋るとそれかな」
「どういう意味だよ、それ」
「そのまんまだけど? もう喋った途端に目もあてられないほど馬鹿? 間抜け? 頭振ったらからから音がしそう?」
「そこまで言うか、君ってやつは!」
「いいじゃない、それくらい」
「あぁ、いいさ。いいよー、だ。どうせ君はそんな俺だって好きなんだから」
 言葉に詰まったシェイティをタイラントは面白そうに見ていた。言い返せない分、シェイティの本気が透ける。
「あぁ、もう! だから話がずれまくってるって言ってるじゃない! 魔法の話、してるんでしょ、違うの!」
「えー、ずらしたの、君だと思うけどなぁ」
「ふうん、僕のせいに、するの、そう?」
「しないしないしない! って痛いから! 髪の毛引っ張るなって!」
「だったらおとなしく聞いて。大事なことなんだから」
「はいはい」
「返事は一度。いい子だよね、タイラント?」
「……はい」
「よろしい」
 言った途端に二人揃って吹き出した。何事かを言いかけるタイラントの口をシェイティは塞いだ。彼に発言を許しては、また話がずれる。唇で塞がれた自分の口を、タイラントはうっとりと指先でなぞっていた。
「ちゃんと聞いてよ、ぼんやりしない。ねぇ、あなた。その名前は、本名なの?」
「あれ、言ってなかったっけ? 言ったような気がするけどなぁ……って怒るな! いいよ、忘れててもいいから! 歌の師匠について少ししてからつけられた渾名だってば」
「あぁ、なんか言ってたような気がしなくもないかな」
 どことなく聞いた覚えがあるようなしたけれど、あまりよく覚えていなかった。名前に関する話題が出たことがあったのは覚えているのだが。シェイティは曖昧に笑ってタイラントの髪を指で弄んだ。
「真の名じゃないなら、いいの。万が一真の名だったりしたら、別の呼び名、考えなきゃいけないし」
「なんで?」
「危ないから」
 タイラントは厳密には土と共に生きる庶民ではない。が、一般人と言う意味では同じだった。まして魔法に馴染みのないミルテシア人。真の名の重要性など理解していないだろう。
「とにかく、危ないんだよ。だから、通称ならそれでいいの。それが、聞きたかったの」
「まぁ、長いこと使ってて本名みたいな気がしてるけど、でも通称だよ。真の名かぁ、うん。あんまり思い出すこともないけど、俺の真の名、アルビレオっていうよ」
 聞かされた瞬間だった、シェイティがタイラントを思い切り殴ったのは。
「ちょっと待て! 痛いだろ、シェイティ!」
「あなた、迂闊にもほどがある。僕にそんなもの教えてどうする気。危ないって言ったばっかでそれって、どういう了見なの」
「あのな、シェイティ。俺はどういう危険があるのかは、わかってないと思うよ。でも、この名前を告げる意味くらいは、わかってる」
「どこが! 僕は不本意にもあなたの真の名を知っちゃったじゃない。今後、僕はあなたを意のままにすることも、生死を操ることさえ可能だ」
「うん。それでいい」
 この上なく、タイラントが笑った。さらに怒鳴ろうとしていたシェイティは毒気を抜かれたよう、彼を見る。本当に、わかっているのだろうかといぶかしみつつ、タイラントの喉をなぞった。
 じっと、していた、タイラントは。その仕種に、いやでもシェイティは悟らざるを得ない。タイラントは、理解している。
「……俺の喉。俺の指。俺の命。もしもそんなものがあるなら、俺の運命。すべて君のものだ、シェイティ」
 聞きたくなくて、もしかしたら一番聞きたかった言葉かもしれない。シェイティは目を閉じて彼の肩先に額を寄せる。温かくて、不安だった。頼ってしまいたい、それが不安なのかもしれない。
「……そんなに簡単に真の名を教えたりするものじゃ、ないでしょ」
「どこが簡単? 俺は四年間、悩み続けたけどな。別に真の名を教えようって悩んだんじゃなくって、君に会えたら――」
「もう、いいよ。いい、わかった。でもね、タイラント。僕には言うべきことがあるっていうか、言えないことがあるっていうか」
 自分で言っていてまどろこしい、そうシェイティは溜息をつく。それが彼のためらいの所作だと気づかないタイラントではなかったけれど、黙って背を抱くにとどめた。
「僕の正しい通称は、フェリクスだ。知ってるよね。あなただけは、シェイティって呼んでいい。真の名は……知らない」
 腕の中、シェイティが体を強張らせたのにタイラントは気づく。知らないふりをし続けて、彼の背を撫でていた。
「物心ついたころには売られてたしね。母親のこともあんまり覚えてない。呼び名もなんだったのかな、呼ばれた記憶がない。真の名なんか、もっとない。つけられたのかどうかすら怪しいね」
 淡々とシェイティは言う。つらくないはずがなかった。タイラントは言葉もなく無言で抱きしめる。
「別に、いいんだよ、そんなの。むしろ、幸運だよね。魔術師にとって真の名を敵に掴まれるのは命を握られるも同然。僕自身が知らなきゃ、誰も知りようがない。幸運でしょ?」
 シェイティは本心からそう思っていた、今日このときまで。気づけばタイラントの背中を掴んでいた。なだめるよう撫でる彼の手を自分の背中に感じながらシェイティは思う。
 告げられる名がなかった。タイラントはこの手に命を預けてくれたのに、彼自身のすべてをくれたのに。
 小さく、歌声が響いてきた。歌詞のないタイラントの歌。慈しみと慰めに満ちたそれを聞きながらシェイティはゆっくりと肩から力を抜く。それでも心の片隅に一つだけ、言葉が浮かぶ。
 ――返すものが、何もなかった。




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