ミルテシアの南部に、とても風光明媚な海岸の村がある。遥かな過去には偉大な魔術師の塔があった、と昔話は語るけれど、いまはもう塔の土台すらも見つけられない。 「魔術師は去って行った、遠い北の森の中――」 タイラントが竪琴を奏でながら歌う。ミルテシアでは魔術師の歌は好まれないのだけれど、なぜとなく今日はそんな気分だった。 ちらりと背後を窺えば、仕方ないな、とでも言いたげな顔をしてシェイティが座っている。不機嫌そうで、しかしそうではないのをタイラントだけが知っていた。 タイラントの声が余韻をもって響く。竪琴の最後の音が潮風に溶け込むよう消えていく。村人たちがやんやとはやし立てた。 「じゃあ、今度はもうちょっと明るいのがいいかな」 顔色を窺う、と言うわけではなかったけれど、やはり演奏には喜んでもらいたい。魔術師の歌も気にしてはいないらしいけれど、普通の歌のほうがもっといいだろう。 タイラントが竪琴を構えなおしたときだった。彼らを囲んでいる人垣が割れる。小さく、けれど鋭くタイラントが息を吸ったのにシェイティ一人が気づいた。 「久しぶりだなぁ」 年老いた男が一人。それから壮年の男と女が一人ずつ。にんまり笑った老人の唇から、欠けた前歯が覗いた。 「……お父さん」 タイラントの呆然とした声。あまりのことに唖然としてシェイティは乗り出して彼の表情を窺う。 「ちょっと」 どういうことなのか説明しろ、と言うつもりで、彼の一言がすべてを語っているのに気づく。軽い舌打ちをなんとかこらえてシェイティはタイラントの隣に体を移した。 「立派になったもんだ、色違い」 「――やめてください」 「うん、何がだ?」 「色違いって呼ぶの。俺にはちゃんとした名前があるんです。――いまは」 タイラントの苦い声にシェイティは拳を握り締めた。なんという呼び名だろう。自分の親に彼は何という呼ばれ方をしていたのだろう。 「あんた、世界の歌い手の親御さんかね?」 村人が興味津々といった様子で尋ねるのに、老人は愛想よくうなずいている。タイラントの視線が伏せられた。 「タイラント」 「ん」 「話せ」 それが話せることならば。シェイティの無言のうちの声を聞き取ってタイラントは微笑む。青ざめた笑みだった。 思えばいまだかつて互いの氏素性を語ったことがない。タイラントは知っている。シェイティが男娼をしていたことだけは、知っている。だがそれ以前のことを語った覚えがない。 同時にタイラントのそれを聞いた覚えもなかった。ただ、話すようなことがないだけだと思っていた。自分が話さないのだから、気を使ってくれているのかもしれないとも思っていた。 シェイティは自分の馬鹿さ加減に愛想が尽きそうになる。タイラントの目だ。彼の左右色違いの目。彼が世界の歌い手となる以前、それは邪眼と忌まれていた色合い。 長閑で当たり前の子供時代を送っていたはずはない。意識的に尋ねないのならばいい。けれど自分がしたことはなんだ。まるで、気に留めていなかっただけ。 「タイラント」 いまさらながら、自分のしでかしたこと、否、してこなかったことに思い至ったシェイティの後悔よりなお強い感情にタイラントは気づく。もう一度強張った笑みを浮かべ、彼のせいではない伝えたくてそっと手を握った。 「あれが、俺の父親。それと妹と弟、たぶんね」 「なにそれ。たぶんってどういうこと?」 「だって、俺さ、可愛がられてなかったし。俺の目ってこれだろ? だから兄弟と過ごしたこともあんまりなくってさ。兄と姉も何人かいるけど、いまさら区別、つかないや」 魔術師として過ごした年月が、タイラントから時間を奪っていた。シェイティは弟妹とやらを見やる。確かにタイラントより今は年嵩に見えるのだ、弟妹が兄姉であったとしてもわからないかもしれない。 シェイティ自身、幸福な子供時代など送ってはいない。兄弟も、いない。少なくとも自分の知る限りは。だから血の繋がった兄弟と言う存在は、親と言う存在より理解しがたい。それでも彼らのあの、目。黙ってタイラントを見ているあの、目。 「……どこでどうやって過ごしてたわけ?」 「主に納屋で一人で」 短い答えに理性の箍が外れそうだった。咄嗟に気づいたタイラントが強く手を握ってこなければ、何をしでかしていたか自信がない。 なぜだというのか。たかが目の色。異種族でもなんでもないタイラントが、どうしてそんな目にあってきたのか。 自分は人間の中で一人、闇エルフの子だった。タイラントは同族の中で、同族から忌まれていた。だから人間は嫌い。心に呟いた声が聞こえたかのよう、タイラントが小さくうなずいた。 「な、色違い。お前、金持ってるんだろ。えらく立派になったってのに親の面倒見ないなんて、いったいなんて親不孝なんだ、え?」 「立派な子供が、そこに二人もいるでしょう。俺はあなたの子供なんですか。親でもなければ子でもないって真冬に放り出されたのって、いつでしたっけね」 「まぁ、そう言うなよ、なぁ?」 ひどく下劣な顔つきと声だった。シェイティですら顔を顰めているのだ、タイラントの耳にはどれほどの声音に聞こえたことだろう。 「あなたは子供だった俺を邪眼の持ち主だって言って捨てたんだ。お母さんはどうしました。あの人がここにいたら、俺からの施しなんて死んでも受け取らないって言うでしょうね」 「言うから置いてきたのさ」 さらりと言って肩をすくめた。タイラントは目をそらしたくなる。 子供時代の思い出が、浮かんでは消えていく。どれも幸福とは言いがたかった。寒さと飢えと傷の痛み。子供時代の思い出は、いずれかと必ず結びついている。 「ねぇ、わざわざこの男を捜し歩くほど暇で金があるの、あなた」 シェイティの単調な声だった。タイラントはそれが何を表現しているのか知っているけれど、他のものは誰も知らない。村人たちもいささか悪趣味な娯楽として、この状況を楽しんでいるようだった。 シェイティはそれを心の片隅に留め置く。所詮、そんなものなのだ、人間は。世界の歌い手とはいえ、赤の他人の醜聞や悶着なら歓迎だろう。面白いこともない日々の暮らしの話題に、こんないいものはない。 不意に星花宮の暮らしがどれほど貴重なものか身にしみる。あそこの人間は、こんなことはない。少なくとも、タイラントの痛みを思いやる程度の心配りはしてくれる。 思えば思うだけ、シェイティの声は冷えていった。タイラントがすぐそばにいるというのに、まるでかつて彼を探して一人で放浪していたころの気分だった。 「なんだ、小僧? お前なんざ用はねぇんだよ。それともあれか、小僧。色違いのこれか?」 言って老人はシェイティに向けて小指を立てて見せた。卑猥で下卑た仕種にシェイティは小揺るぎもしない。 「だとしてもあなたには関係がない。それで、僕の質問に答える気があるの、ないの」 「暇は有り余ってても金はないと思うよ、シェイティ」 「ちょっと、なんであなたが答えるわけ?」 「いや……その、ちょっと気圧されたっていうか、怖かったって言うか!」 シェイティ本人は間違いなく悲しんでいる。それはそれで事実だ。が、本人もまだ気づいていないことがある。彼は怒っている。それはそれは怒っている。常に彼の怒りにさらされているタイラントだからこそ、気づいた、情けないことに。 ようやくタイラントは悟る。ここは自分が不愉快になったり怒りを爆発させたりするべき場面ではない。何より喫緊の課題はシェイティの怒りをなだめることだ。 「俺の生まれた村って言うのは! ここからかなり北にあって、でも王都よりは南! 生きてくだけならなんとかなるかなってくらいの貧しいところだった。当然、自分ちの畑なんかないから雇われてなかったら暇なの!」 「ふうん。じゃあ、失業中って言っていいのかな。それで自分が虐待した息子がどうやら金になりそうだって捜し歩いてたわけだ。ほんと暇。暇って言って悪かったら馬鹿?」 「いや、そっちのほうが悪いと思う……」 「どっちもどっちだって言ってるんじゃない、馬鹿!」 タイラントの口許がほころびそうになった。同じ言葉。変わりのない馬鹿と言う言葉の中にこめられた思いにあった隔絶した感情。改めて自分へのそれは罵り言葉ではなく愛情なのだとよくわかる。 「はい――」 しゅんとうなだれて見せれば、ところかまわずはじまった痴話喧嘩だとでも思われたのだろう、村人がくすくすと笑い出す。 「おい小僧――」 笑わなかったのは老人とその連れだけ。真っ赤になってシェイティに掴みかかりかけるその一瞬前。 彼はすらりと立ち上がる。そしてタイラントの前に立ちはだかる。 「シェイティ!」 止めようと伸ばした手が遅かった。けれどタイラントは思う。本当に止めたかったのかどうか、自分でもわからなくなっていた。彼のためには止めるべきだった。 けれどもしもシェイティが、父を殴ってくれたらどれほど嬉しいだろう。生まれてきてはいけない子ではなかったと、子供の自分に言ってもらえているような、そんな気がするかもしれない。そんなことを思う。 「僕がこの男のなんだって言ってたっけ? 真実を教えてあげよう。僕はタイラント・カルミナムンディの――」 ちらりと視界の端にタイラントを捉える。いまだぺたりと座り込んだままの情けなさそうな顔。それでも色違いの美しい目だけが、救いを求めていた。 「護衛だよ」 にやりと笑う。シェイティのその言葉を信じたものはいなかった。証拠に、まずは村人がけらけらと笑い出す。それから老人たちが笑い出した。 「あぁ……信じられないのも無理はないね。だったら僕も名乗ろうか」 まるで純真無垢な幼子のように可憐な笑顔だった。うっかり見てしまったタイラント一人が体を震わせる。やはり止めるのだったと後悔してももう遅い。 「ラクルーサ宮廷魔導師団の魔術師、カロリナ・フェリクス、それが僕の名前だ」 笑い声が一瞬で静まる。それからひりひりと肌に感じられるほどの緊張。一気に決壊した。 「どうして! 氷帝が!」 「ラクルーサの魔術師!?」 「氷帝が護衛!? そんな馬鹿な!」 「ふうん、僕の悪評はこんなところまで鳴り響いてるってわけだ。なんて好都合なんだろうね、タイラント?」 「ってあの! やっと気づいたんですけど!」 「なに?」 「君が俺の護衛ってどういうことさ!?」 「簡単なことでしょ? あなたがちょっと歌の旅に出たいって言った」 「言ったけど、でもどうしてそんな話になるんだよ!」 「わかってる、タイラント? あなたは、ラクルーサ王宮の客人でもある。国王陛下が滞在を許した吟遊詩人でもあるんだって、忘れたの?」 ここではとても言えなかった。忘れたというか、そんな話がいまだに残っていたとはまったく思っていなかった。確かにそのような名目で宮廷に招かれた覚えはある。 だがいまだに有効だとは思っていなかった。タイラントは自分をすでに魔術師だと認識している。いまだ未熟ではあるけれど、星花宮の一員なのだと。 「いや、だけど! 君ひとりで護衛って言うのは!」 「どこかおかしい? 僕がいれば近衛騎士団丸ごとつけるより、あなたは安全だと思うけど? だいたいミルテシアに入国するとき、僕の身分証にはちゃんとあなたの護衛って書いてあったけど?」 「それは、その――! わかるような、わかりたくないような!?」 シェイティの言葉は村人にも老人にも通じない。けれど遺憾ながらタイラントには嫌と言うほど通じてしまった。あの言葉は、単なる事実だ。 「ねぇ、ちょっと。その顔なんとかしなよ、ただでさえ馬鹿なんだから、よけいに馬鹿に見える。口閉じて、言いたいことがあるならちゃんとまとめてから言って」 ぱくぱくと口を開け閉めしていたタイラントにさも嫌そうにシェイティは言う。その声音に響くのがタイラントへの嫌悪ではないと聞き取ることができない彼ではなかった。 「タイラント・カルミナムンディは、我が君の客人だ。たとえ誰であろうとも、彼を侮辱することは我が君を侮辱すること。わかっただろうね、あなたがた。たとえここがミルテシアであろうとも」 老人たちに向けシェイティは言う。タイラントは気づいた。彼が一度として老人をタイラントの父とは呼んでいないことに。 「国王の吟遊詩人だって言うなら――」 「金はあるよ、有り余るほどね。諸事情あって僕はタイラントの財布がどうなってるか知ってるから。でもタイラント?」 「俺がその人たちの面倒を見なきゃならない理由はないと思うよ」 「だよね。と言うことでお引取りを? 僕はたかが一般人に、武器も持ってない魔力もない人間に暴力を振るう趣味はない」 あまりといえばあまりな言葉だった。侮辱と言うならこの上ない侮辱だった。 「小僧――!」 老人が腰の短剣抜き放つ。鈍い光は血を吸った後にまともな手入れを怠ったせいか。 「シェイティ!」 タイラントが引き戻す隙もなかった。シェイティの手に光。氷の輝きが目を焼いて、そして短剣が弾き飛ばされているのを知る。飛んできた短剣に、村人が小さく悲鳴を上げた。 「シェイティ、そこまでだ」 息を整え、振り返ることのないシェイティに向けて立ち上がる。彼はずっと老人を見据えていた。タイラントにも彼がよく見える。産みの親であるはずの人になんの感慨も持てない自分がそこにいた。 「君は言った、武力を持たない人に暴力を振るうのは趣味じゃないって、言ったね。だったらそこまでだ」 ゆっくりと背後から抱きしめる。すがり付いているのは自分かもしれなかった。 「ほれ小僧。お優しい色違いが止めてくれてる間に出すもの出せよ。持ってんだろ、金」 タイラントの無言の弟妹から、老人は短剣を奪う。ひらひらと目の前で振って見せるそのおぞましさ。 「まだ、わかってないみたいだね――」 シェイティの剣はすでに消えていた。タイラントは腕の中の彼が震えているのを感じている。強い、それは強すぎるほどに強い怒りだった。 「シェイティ」 「止めるな、タイラント。あなたを守るのはこの僕だ。僕の義務であり、何よりも権利だ。手を出すな、タイラント」 「悪いけど、止めるよ」 ぎゅっと抱きしめる。振りほどこうとするならば、簡単に抜け出されてしまうだろう。しかしシェイティは決してそうはしない。わかっていて抱きしめるのは、嫌な気分だった。 「タイラント、僕は」 「君は俺がこの人たちの命乞いをすると本気で思ってるんじゃないだろうな」 さも呆れたように言って見せた。耳許での声は真実らしく聞こえただろうか。 「あなたの親兄弟だけど?」 「だから? この人たちは俺が有名な吟遊詩人になったって聞いたから、言葉は悪いけどさ、たかりに来たわけじゃないか。それだけだ。正直、今でも俺を嫌い抜いてる母親のほうがまだましって感じ。だろ? だからさ、シェイティ。俺が止めるのはこの人たちのためじゃない。君の手が汚れるのがいやだ。それだけなんだ」 言い切って、強く彼を抱きしめた。それだけは、真実だった。真実と言うよりも、むしろ事実かもしれないと内心で小さく笑う。 「ねぇ、タイラント。僕が本気でこの人たちを殺そうとすると思ってるわけ」 ようやくシェイティが振り返り、タイラントの顔を振り仰ぐ。ほんの少しだけ、シェイティが息を止めた気がした。タイラントは気づかない。 「ううん、思ってない。でも殺したほうがましかもな」 シェイティが何よりきれいだと思っている色違いの二つの目から、一筋だけ涙がこぼれた。腕の中、もがいて抜け出し涙を拭う。 瞬いてタイラントは自分の涙に気づいたのだろう。照れくさそうに笑みを浮かべる。それが本物ではないとシェイティは気づいたけれど、今は何も言わなかった。 「ちょっと!」 「だってさ、そうだろ。君が手加減をする。その気持ちは尊いよ。でも、君の憎さや悲しさだって、本物だ。それはどうなるの。殺さなかったことで生まれる淀みはどうなるの。君の心に溜まるんだ」 「そこまで……軟弱じゃないよ」 いまここで、産みの親の助命を嘆願するタイラントは、ではどうなるのか。自分の言っていることが、わかっているのだろうか。シェイティはじっと彼を見つめ続けた。 「そうかな? さっき君は言ったじゃないか。君は俺を守りたいって。俺も同じだよ。そうじゃいけないの。俺だって君を守りたい。それってだめなのかな、シェイティ」 「――なに馬鹿なこと言ってるわけ。ほんと馬鹿。馬鹿はいつまで経っても馬鹿なわけ? もうちょっとでいいから賢くなって欲しいって言うのはほんと無謀な願いだと思うようになってきたよ、僕は」 「って、待てよ。ちょっとひどくないか!?」 「どこが? 僕より弱いくせに僕を守るとか、どれだけ大言壮語なわけ。もうちょっと修行しなよ、馬鹿」 言って振り返り様に痺れを切らしたのだろう、短剣で切りかかってきた老人を蹴りつける。 「お見事」 「この程度だったら見なくても感じるしね」 「うん、そう思って言わなかった。俺が下手なこと言ったら気が散ると思って」 「……まぁね」 少しは賢い振る舞いもするようになった、とは思ってもシェイティは言わなかった。もう一度タイラントの頬を指先で拭い、彼から離れる。 「タイラント・カルミナムンディ、聞きたいことがある」 老人と、その子供たちを見据えたままだった。弟妹は、タイラントと口を利くのも嫌なのか、それとも氷帝を恐れているのか、固まって老人の背中に隠れていた。 「なに?」 「あなたの家族のことだ」 「これを君に言う日が来るとはね。君って馬鹿? って、ちょっと待て! この場面で俺を攻撃するか!?」 「攻撃ってほどちゃんとしてない。ちょっとした冗談程度だけど?」 「痛いのは俺なんですけど。……ってわかった、わかったから! 俺の家族? そんなもの、聞かなきゃわからないわけ。俺に血縁の家族なんかいない。俺の家族は星花宮にいる」 朗らかに、きっぱりと言い切った。そのはずだった。それなのになぜ、声も震えず涙が出るのだろう。 「結構。いい返事だね」 シェイティはタイラントを振り返らなかった。涙に気づいた素振りも見せなかった。どれほどありがたいことか、彼はきっと知っている。タイラントは一歩、前に進み出る。 「だったら、こいつらをどうしようと僕の勝手だよね」 シェイティの口許が、見えもしないのに笑みを刻んだのがはっきりとタイラントにはわかった。背筋に震えが走る。今は子供時代の思い出がどうのとか、ここにいる父親のおぞましさとか、そんなものにかまっている暇はない。 「シェイティ!」 またも遅かった。瞬時に現した剣でシェイティは自らの指を傷つけている。流れる血を老人になすりつける一瞬前、やっとタイラントの手が届いた。 「タイラント、止めないでくれるよね?」 「いや、さすがに止める。一般人を呪っちゃだめでしょうが」 「別に呪いじゃないけど? ちょっと僕の意に反したことをしたら死ぬだけだけど?」 「それ、普通は呪いって言うんだけど」 「うん、知ってる」 「シェイティ! もう、君ってやつは! あの、この辺で魔物が出て困ってるとかってないですか!? なに、ゴブリン? へぇ、群れがいるんだ。なんてちょうどいいんだ! シェイティ、退治に行こう!」 「ねぇ、僕のちっちゃな可愛いタイラント? そんなことで僕の気が晴れるなんて、よもや思ってはいないだろうね?」 「思ってない思ってない。でも、ど素人呪うよりは気が晴れるんじゃない?」 まるで何事もなかったかのような晴れ晴れとした笑顔。改めて自分の目で見た実の親のおぞましさにタイラントが何も感じなかったはずはない。それでも彼は笑う。 「まぁね、俺は泣くだけ泣いたらすっきりしたよ。ほら、それに俺の家族が星花宮にいるってのはほんとだしさ。雷親父と物凄く怖いお母さんって感じ?」 「ふうん、怖いお母さん、ね。ちっちゃな僕のタイラント。それ、カロルに報告してあげるね」 「シェイティ――!」 それは大いなる勘違いだった。タイラントとしてはカロルを雷にたとえたつもりだった。言うまでもなく、物凄く怖いお母さん、はシェイティだ。が、誤解を解けばそれはそれで面倒なことになるだろう。タイラントは悲鳴を更に高めて誤魔化すことに専念する。 吟遊詩人の絶叫にシェイティは顔を顰める。何か隠し事をされた気がしなくもないが、そのせいか不思議なほどに、老人たちをどうこうする気がなくなってしまった。 「タイラント、僕に目隠しをして?」 訝しそうに、けれどタイラントは黙ってシェイティの目を自分の手で覆った。次の瞬間、老人たちの周囲に氷の矢が降り注ぐ。それからタイラントに手を外させた。 「見てのとおり、僕にはこの程度のこと造作もない。あなたがたを呪ったほうが早いし手軽なんだけど、それはタイラントが嫌がるからね、控えてあげる」 ゆらりとシェイティが進み出た。いつの間に自分がへたり込んだのか、老人にはわからなかった。背中で息子と娘が泣いているのが聞こえていた。 「ただし、僕は人格者でもなければ鷹揚な性格でもない。見逃すのは、だから一度だけ。今後二度と再びタイラントの前に現れてごらん。生きているのを後悔する程度の目にはあわせるからね」 「君が言うと冗談に聞こえないんですけど」 「誰が冗談なんか言ってるの。僕はこの上なく本気だ」 「わかった、わかったから! ほら、暴れに行こう、シェイティ! 一般人の皆さん方にご迷惑をかけちゃだめだろ!?」 まだ血の流れる彼の手を取り、顔を顰める。小声で歌いかければ、傷は塞がる。それでもしばらくは残るだろう、彼の心の傷は。 「お父さん。俺は何十年前か忘れましたけど、あなたにこんな化け物俺の子じゃないって言われたの、今でも覚えてます。だから今度は俺の番ってわけでもないけど、俺はあなたがたを家族だとは思えない。だから、俺の大事な人を煩わせないでください。次はないです。次は、俺がお相手しますから」 「自分の親を殺す気か、色違いの化け物が!」 「親でもなければ子でもないって言ったの、あなたでしたよ」 タイラントは小さく笑って踵を返した。そして笑った自分に驚いて頬をさする。 「うん、まぁ、こんなもんだよな」 なにがこういうものなのかは、言わなかった。シェイティも問わなかった。シェイティが笑って村人を見回す。その目つきだけで、彼らはよけいなことを喋らないだろう。 「さぁ、暴れに行こうか、タイラント」 「うん、俺もそんな気分だよ」 互いに顔を見合わせ、密やかに笑いあう。それからシェイティはするりとタイラントの腕に自分のそれを絡めた。 タイラントは何も言わない。言えなかった、のほうが正しい。人前でこのような形で愛情をあらわにするとは、あまりにも彼らしくない。 それだけに強い慰めを感じた。嬉しいとか、ありがたいとか、そんなものではなかった。言葉になどならない。 タイラントは歌っていた。シェイティの耳だけに入る、歌詞のない歌。それは真に世界の歌い手の歌だった。 |