冴え冴えと明るい月がタイラントの髪を照らしていた。真珠色に輝くそれを払い、彼は天を仰ぐ。
「またやっちゃった……」
 星花宮から最も近い城壁の上にいた。すぐそばの物見の塔から、若い近衛兵がこちらを窺っているのが感じられる。
 が、タイラントは気にも留めていなかった。辺りに誰がいようと、いまこの瞬間城壁が崩れようと彼にはどうでもいいことだった。
 喧嘩をした。いつものこと、と言ってしまえばそれまでだったが、今日もまた喧嘩をした。あれほど切望した彼なのに、タイラントは絶えずシェイティを怒らせてばかりいる。
「問題は原因がわかんないことなんだよな」
 呟いて携えてきた竪琴に指を滑らせた。シェイティがかつて贈ってくれたものではない。あの壊れ果てて残骸となった竪琴はいまも自分の部屋にある。
 決して彼を苦しめない、傷つけはしないと誓った自分への戒めのために。
「それなのになぁ」
 こうして何度となく怒らせてばかりいる。そしてタイラントにはその理由がわからなかった。
「それが一番まずいんだよな」
 シェイティが何に怒りを感じたのか。それさえわかれば対処のしようもある。と言うより自分を改めることができる。
 それなのにまるきり見当もつかなかった。態度が悪かったのか、言葉の選択を誤ったのか。それとも。
「俺が、嫌いになった?」
 指先が弦に触れた。はらり、と音が漏れる。タイラントは意識せず竪琴を奏でた。
「苦い音だよなぁ」
 自分でわかってしまう、それが。彼を追いかけるうち、自分は世界の歌い手と呼ばれるようになった。それを苦々しくも思った。いまは、認めている。誇りからではなく、事実として。
「それなのに――」
 シェイティを苦しめてばかりいる。たった一人、大切な人に音が届かない。届かないのではない、とタイラントは首を振った。
「届いて欲しい。そう、思ってるよ。でも……。なんでだろう。こんなに君のことばっか、考えてるのに」
 届け方がわからなくなってしまった。それでもシェイティがどこかで聞いている気がする。願うのかもしれない。
 タイラントはそっと振り返ることなく星花宮へと意識を伸ばす。彼から魔法を習うようになって以来、そんなことができるようになっている自分を嗤いながら。
 世にも不思議な力を扱えたからと言って、なんになるのだろう。たった一人、彼に心が届かない。いまもそうだった。
 伸ばした意識の先に見つけたもの。空虚。シェイティがいないのではなかった。彼は確実にどこかにいる。
 それなのにタイラントには見つけられない。完全に隠れる気になっている彼を見つける術がない。だからこれも確実なことだった。
「君は今、俺に見つけられたくない?」
 そうでなければ、彼が星花宮にはいない、と言う事実を自分は知ることができる。いもせず、空虚だけがあるということは、だからそういうことだった。
 空を仰げば大きな月。城壁を照らし、タイラントを照らし。星花宮で隠れているはずのシェイティをも照らしているかもしれない。
「君は、好きかな」
 この月の光が。柔らかで、冷たくて、とても優しい。シェイティのようだ、と思いタイラントは密やかに笑う。
 決して優しくはない彼。笑顔よりもむっつりしていることのほうがずっと多い彼。そんなシェイティの唇がほころぶ瞬間を見るのが好きだった。
「きっと、好きだよな」
 明るく輝く太陽よりも、シェイティには月光が似合う。そう言えばまた怒らせそうな気がした。そんなつもりではないけれど、彼が闇エルフの血を引くから夜が相応しい、そう言っているように聞こえてしまうかもしれない。
「君が君だってだけで、俺は好きなんだ。なのになんでだろう。ほんと、なんでこんなに怒らせてばっかりいるんだろうな」
 ゆっくりと指先が竪琴を爪弾く。どこかで聞いているかもしれない彼のために歌う。それしかできない。
 それでいい、とは思わなかった。けれど他に方法がないならば、自分にできることをするまで。タイラントの喉が音を奏でる。
 歌詞のない歌。世の人が知る、世界の歌い手の歌。シェイティのタイラントの歌ではない。人の耳のあるところで、その歌を歌う気にはならない。
「俺の歌は、君のもの」
 そっと呟き、風にまとわりついた髪を払った。あたかも月光が宿ったかのような真珠色。シェイティはこれを好んでいた。あの小さな竜の翼の色、と言って。
「逆だと思うんだけどなー」
 自分の髪の色が、あの竜の体表の色だった。タイラントは苦笑してまた別の音を奏でる。小さな声で歌いだす。
 思う気持ちが同じでないとしても。君はいまこの月を仰いでいるのだろうか。きっと見ている、そんな確信がある。ならば、いま君と自分は同じことをしている。
 そう歌ってタイラントは再び月を見上げる。いつ見ても同じ月。どこで見ても同じ星。それなのに、彼がここにいないだけで、空さえ暗くなる気がした。
「なぁ、シェイティ」
 いない彼に向かって囁く。あのころにしていたように。互いに離れて過ごした時間、彼を追いかけながら何度となく語りかけたように。
「俺のことあんまり好きじゃなくってもさ。この月を今、君も見てるだろ」
 指が触れもしないのに竪琴が震えた。タイラントはわずかに苦笑して力を制御する。慣れない魔法の力は、こうして動揺するだけで他愛なく制御を失う。
「どこで見てるのかな。どっかで、見てるよな。絶対見てると、思うんだ。思う、じゃないよな。知ってるんだ、君が見てるってこと。どうしてだろうな。でも、知ってる」
 意識的に魔法を操り、竪琴を鳴らした。それから今度は指で弾いた。同じ竪琴の発する音なのに、決定的に違う音。タイラントの耳にだけ差がわかるのかもしれない。あるいは、シェイティにも。
「こうやってさ、俺が月を見るだろ」
 言ってタイラントは月を見つめる。まるでその中に彼の姿を見出そうとでも言うように。
「そうしたらさ、君と俺とはおんなじことしてるんだなって。それがなんだかちょっと、嬉しいなってさ」
 歌のように囁くように。タイラントの言葉が竪琴に乗る。遠い溜息は近衛兵のものだろう。彼らには間違いなく素晴らしい音楽に聞こえている。タイラント自身の苦さになど、気づきもしないまま。
 気づかせるつもりもない、知って欲しいのはシェイティただ一人であるタイラントは無言になって竪琴を奏で続けた。
「ごめん」
 月の位置すら変わるほどの時を経て、タイラントは呟く。近衛兵はもう交代してしまっただろう。別の人間の気配があった。
「君が俺のこと好きじゃなくても――」
 それでも自分は。呟きを重ねようとしたとき、指先が凍りつく。
「ねぇ。それって嫌味なの。わざとらしいにもほどがある」
「シェイティ!」
「僕が何? どうしてそうあてつけがましいの。あなた、僕が言ったこと覚えてるの」
「だから!」
「僕は言ったよね。何度でも許すって。確かに僕は怒りっぽいかもしれないけど、どうしてそういう話になるわけ? 一々落ち込まれたら怒れないじゃない」
 不機嫌も露なシェイティが、腕を組んで城壁の上に立っていた。すぐそばに。現れる瞬間まで、もしかしたら現れたあとも彼がその気になるまで、タイラントには一切の気配を掴ませず。
「だから、俺は。その、さ! 悪いと思ってるんだよ、ほんとに!」
「なにを?」
 冷たく言ったシェイティに、タイラントは返す言葉がなかった。おろおろと竪琴をいじっている様など、とても世界の歌い手の称号に相応しいとは思えない。
「ねぇ、あなた馬鹿? 僕が怒ってるか、もう許したかの区別もつかないわけ?」
「だからさ、俺はさ、君を怒らせたくないわけで」
「無駄な努力だね」
 一刀両断に切り捨てられてさすがにタイラントはうなだれた。その仕種があまりにもあの小さな真珠色の竜を思い出させて、不覚にもシェイティの唇がほころんだ。
「だからね、聞いてる。タイラント? あなたが僕を怒らせるのは当たり前なの。一々気にしないで。改める努力くらいはして欲しいと思うけど、僕も期待はしていない」
「だからさー。俺はなんで怒られてるのか、それがわかんないんだってばー」
 ここまで来ればタイラントにもわかった。シェイティは怒っていない。少なくとも、今現在は怒っていない。呆れては、いるだろうが。
「まだわかんないの。ほんと馬鹿。いつか絶対捨ててやる」
「やめてー。捨てないでー。可哀想なちっちゃなドラゴンなんだって。君に捨てられたら生きてけない!」
「ドラゴン? どこが? あなた、頭だけじゃなくて目も悪いの。僕にはれっきとした人間に見えるけど?」
「シェイティー。もう、ごめんってば! 俺が悪かった。だから、お願い。なんで怒ってるのかだけ、教えて?」
「……強いて言えば、全部?」
「ちょっと! そりゃないだろ! 君ってさー」
「なに?」
「俺のこと、ちょっとくらい、その……」
 いじけだした吟遊詩人にシェイティは長い溜息をつく。あからさまで、やりすぎで、わざとらしい。それでもタイラントは真意の欠片くらいは気づくだろう。
 案の定、タイラントの口許が緩んだ。ほっと息をついて、それでもまだ拗ねた顔をして竪琴をいじっている。
「僕はつくづく自分が愚かだと思うよ」
 言って彼の隣に腰を下ろした。タイラントがわずかに体を揺らす。怒られる、と思ったはずはない。蔑まれていると感じたはずもない。シェイティの怒りの理由はわからなくとも、彼は吟遊詩人だった。シェイティの声音ならば、誰よりよく知っている。
「なにが? なんでそんなこと言うかな。君ってほんとにすごいと思うんだけどな」
「どうして自分があなたなんかにかかずらっているのか、しみじみ知りたいと思ってね」
「酷いよ、シェイティ!」
「どこが? もういいよ。わかったでしょ。別にもう怒ってないし、言っても無駄だと思うし。僕のほうが強いんだから庇われるのは嫌って言っても聞く気はなさそうだし」
 やっとシェイティが口にした理由にタイラントは頬を赤らめる。そんなことで怒っていたのかと言えば、今度こそ本当に怒られる。それでも咄嗟に体が動いてしまうものは仕方ない。そう、シェイティに諦めてもらうよりない。
「俺はさ、君が好きでさ。だから――」
「もういいって言ってるじゃない。できれば改めてって、言ったでしょ。もうそれでいいよ。言っても無駄だと本気で思うけど。ほら、いいから弾いてよ。お月様、綺麗じゃない?」
 はっとした。やはりタイラントが思うよう、彼もこの月を見ていたのだと気づいた。タイラントの唇が笑みを刻もうとして果たせない。
「こんなことで泣かないで。鬱陶しい」
 言い捨てて、けれどシェイティは頭を彼の肩先に預けた。タイラントは言わなかった。弾くにくいとは、決して言わなかった。
 ラクルーサの星花宮に最も近い城壁の上。今夜もまた世界の歌い手の奏でる歌が響いている。




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