リィはミルテシアの王都・マートルの城門を出て、振り返る。遠く、城の尖塔に濃い黄色の地に三本の銀梅花を配した王家の旗が風に翻る。
 彼の手には数冊の書物があった。いずれもマートルの貴族の家から持ち出したものだった。無論、それなりの対価は支払っている。
 不老不死の神人たちは人間にその文化の精髄たる魔法を教えようとはしなかった。かといって隠しているわけでもない。
 丁寧に調べていけば意外と何某の書物は見つかったりもするものだった。
 リィが魔法を学ぼう、と決めたきっかけは、ある場所でそのような書物の一冊を目にしたことかもしれない。
 神人たちは人間からは神聖言語、と呼ばれる言葉を使って話している。もっとも人間相手のときには人の言葉を使うらしいが。リィは神人と会話をしたことなどいまだないのでそのあたりのことはよく知らない。
 魔法を志そうと思ったのはリィが初めての人間と言うわけではなかった。すでにリィ以前に魔法を使える人間と言うのがいないわけでもない。
 彼らの魔法は一様に不安定で神人からすれば子供の遊びのようなものだっただろう。あるいはそれにすら値しない、と思っているかもしれない。
 だが彼らの残した書物はリィの役に立った。リィだとてはじめから何もかもがわかったわけではない。言葉ひとつとってもまるきりわからなかったのだ。
 魔法使いたちが残した書物は言ってみればリィにとっては辞書だった。人間の言葉と神聖言語をつき合わせて逐語訳する。これが意外と魔法の解明に役立った。神聖言語を学ぶことで、結局リィは人間としては最も早く真言葉に辿り着いたのだから。
 そのような書物は意味もわからず貴重で、だからよく貴族の館に保存されているのだ。リィが手にしているのもそれだった。
「少しぼられたかな」
 館があると思しきほうにリィは苦笑する。サイファが聞けば驚くことだろう。本一冊と魔法をこめた宝飾品を数点引き換えたのだ、と知れば。
 リィ自身の手になるアーティファクトである。それもあえて貴族好みの宝石をふんだんに使ったものだ。石の価値だけで相当なものになる。
「でもなぁ」
 ちらりと本に目を落とし、リィはやはり手に入れてよかったと思っていた。これから先、塔を持つつもりならばどうしても魔法空間の構築法は確立させておかなければならない。
「サイファ」
 視線を下げた拍子に手首に結んだ髪紐が目に入る。艶やかでぽってりと重たい感触すら蘇るようなそれは、無論サイファの髪だ。
「寂しがってるだろうなぁ」
 歩を進めつつリィは呟く。一月、と言ったはずだがだいぶ伸びてしまっている。それもこれも強欲な貴族が悪い、とリィは舌打ちでもしたい気分だ。
「一度――」
 帰るか。思ったものの、帰ったら最後、再び外出する気になれるとは当分思えない。サイファもそれは望まないだろう。
「ちゃんと食ってるのかね、あいつは」
 苦笑してきっちりと剃り上げた顎先に手をあてた。サイファの好む無精ひげ姿ではない。さすがに礼儀と言うものもあるからそうしているのだが、リィにはそれが何よりサイファと引き離されている、と言う思いを強く感じさせた。
 貴重な本の割にリィの持ち方は無造作だ。とても大金を費やしたものだとは思えない。おかげで物取りにもあわないのだからありがたい。
「よし」
 にんまりとしてリィは辺りを見回した。王都からさほど離れていないにもかかわらず、さほど人影はない。少し木立の中に入ってしまえばまるで人目につかないだろう。
 一つうなずきリィは木立に入り、そして何事かを呟くと共に姿がかき消える。それを見たものはリィの目論見どおり誰もいなかった。
 リィが出現点に選んだのは、塔を建設しようと考えている場所だった。風光明媚で、何より人が少ない。
「サイファが気に入るといいがなぁ」
 リィは陽射しに目を細め景色を見渡す。明るい太陽が燦々と輝いている。高い雲が遠く流れた。
 きっと気に入るだろう、と思う。神人の子は家の中にいるより外にいることを好む。それも出来得る限り自然物の多い場所を。
 だからここはサイファにとっては理想的な場所のはずだった。
「うん、悪くない」
 リィはこの場を獲得するために費やした時間を思う。貴族相手に浪費した時間など、それを思えばたいしたことがないように思えるほど、とてつもない苦労の連続だった。
「あいつには関係ないけどな」
 サイファが気に入ればいい。ただそれだけのことなのだから、リィはそこに至るまでの苦労話など彼にするつもりは毛頭ない。
 それでも一人になれば溜息の一つも出ようというもの。無性に苛々として髪をかきむしる。とてもサイファに見せられた姿ではなかった。
 それを思ってリィは苦く笑う。一つ大きく伸びをして気持ちのいい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。小屋のある森とはまるで違った匂い。サイファは好むだろうか。
「面白がるだろうな」
 サイファが覚えていないといった景色。気のなさそうな素振りの中、わずかな期待が顔を覗かせていた。リィはその仕種に応えるためだけに、ここを選んだのだ。
 元々この地はリィにとって馴染みが深い。何度となく足を運んだ地だった。それも魔法を志す以前のことではあるが。
「嫌なこと思い出しちまった」
 吐き出すよう呟いてリィは強く首を振る。それでも思いはそれてはいかなかった。この地は、リィの過去に近すぎる。
 ほっと息をついて見回した。当時の面影があるわけではない。あれからずいぶん時間が経っている。
 あのころは高位の王族の領地だった。現在ではその王族の娘の領地になっている。もっとも、極めて高位を有する王族の領地なので、ほとんど王家の直轄地と言ったほうが正しい。
 そのようなところに魔術師が塔を建てようと考えているのだ。後々問題にならないとも限らない。いや、必ずなる。
 そして問題になってからでは遅いのだ。リィは縁故をたどって何とか王家の領地にそのようなものを建設する、と言うことを相手に飲み込ませなくてはならなかった。
「悪い話じゃないんだがなぁ」
 力ある魔術師がひとりミルテシア領内に住まいする。決して王家にとっても悪い話ではない。そのはずだ。
 神人たちは人間がなにをしようと無関心である以上、人間から魔術師が出たとしても気にするとは思えない。現に今のところ神人からの妨害は一切ない。
 だからミルテシア王国にとっても、人外の力を自由に操ることができる存在は、手にしておけば有効なはず。逆にラクルーサ、あるいはシャルマークの王家に取り込まれでもすれば厄介なのだ。
 結局のところ、そのあたりで話は落ち着いたのだが、リィが考えた以上に時間がかかった。一度ならず本気でシャルマークにでも行ってやろうかと思ったほどに。
「でもミルテシアの海は捨てがたいからなぁ」
 優しく穏やかなミルテシアの海。ラクルーサの海岸線は美しくはあるが荒涼だ。シャルマークの北岸は、いくらなんでも寒すぎる。
「可愛いサイファにはここが一番似合うからな」
 くっと笑えば瞼の裏にサイファの面影。彼が喜ぶ顔が見たかった。サイファの歓声一つで、苦労など吹き飛ぶだろう。
 いつの間にか足は小高い丘に向かっていた。ゆっくりと海岸を見下ろす。光る波が殊の外に美しかった。
「見せたいな……」
 今すぐ、今この波を。サイファに。リィは軽く手首を握った。サイファの髪。
「痛て」
 馬鹿かと思う。自分で音を上げるほど強く掴んでしまったとは。仄かに苦い笑みを浮かべ、リィは手首を上げる。そっと髪紐にくちづけた。
「サイファ」
 呼び声はいつになく切なく響く。彼のいない今だからこそ、隠れもない真情があらわになる。今すぐにでも帰りたくなってしまった。今はとても、帰れなかった。このような顔、間違ってもサイファに見せられるはずもない。
 彼がなににも気づかないことはわかっていた。わかっていてなお見せたくないと思うのだから、これはリィの見栄だった。
 海を見下ろしリィは手近な岩に腰掛けた。陽射しに温まった岩が心地良い。これで花でも咲いていればサイファが喜ぶ場所の一つになるだろう。生憎と季節ではないのかどのような花も咲いてはいなかった。
 リィは書物を開く。特別、難解なことが書いてあるわけではない。この程度ならば他の本がなくとも充分だ。一刻も早く、書物の中に入り込んでしまいたかった。少なくとも考え事をしている間はサイファの面影を忘れていられる。
「無理、か……」
 忘れることはできなかった。それでも薄れさせることはできる。かろうじて、と言うところだが。
 本に没頭するリィの側、いつの間にか小さな明りが浮かんだ。彼の手になる魔法の明かりだろう。いつしか陽射しは翳り程なく日は沈む。本を読みつつリィは時折、干し肉などを齧っていた。夜だということには、気づいていない。
「サイファ?」
 はっと顔を上げた。彼の笑い声が聞こえた気がした。まさかと思う。そしてやはり彼はいなかった。
「可愛いサイファ、寂しくなっちゃったか?」
 寂しいのは自分だと知っていた。サイファは神人の子。時の流れが人とは違う。約束の一月を大幅に過ぎてしまったけれど、どれほど過ぎているのかわかっているのかも怪しい。
 だから寂しさを感じてなどいないかもれない。そう思いたいのだと、リィにはわかっている。たまらなく寂しいのが自分だとも知っている。
「サイファ……」
 天を仰げば明るい陽射し。いつしかまた新しい夜明け。今日も雲は遠く流れていた。驚いてリィは目を瞬く。
 一晩、座り続けたおかげで凝り固まってしまった体を伸ばそうと大きく腕を上げた。みしみしと音がするような気がするのにリィは苦笑し首を回す。こちらもやはり痛かった。
 どこか木陰に入るのも面倒で、リィはそのまま横になる。冷たい草が心地良い。目一杯に体を伸ばして、そしてリィは目を閉じた。
「なんだ……?」
 夢を見たような気がする。サイファと笑いさざめくある日の情景。寂しい、と甘くなじられた声まで覚えている。
 どこか遠い目をしてリィは体を起こす。と、その目にありえないものが映った。
「夢、か……?」
 リィの体の周りには、薄青い花が散らばっていた。あたかも夢の中でサイファが作り上げた花冠から零れ落ちたような、花だった。



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