とろとろと、眠るリィを見ていた。うららかな春の陽射しに、少しだけ眩しそうな顔をしたまま彼は草地に転がって眠っている。
「疲れちゃったの、リィ?」
 聞こえないようそっとサイファは呟いた。彼の眠りを覚ましたくはない。いまは、まだ。そうっとそばに寄って座り込めば背中に暖かな日の光。
 どこか遠くで野生馬の嘶く声。頭上からは小鳥のさえずり。長閑で、当たり前の日々だった。それがこんなにも心を騒がせる。
「どうして?」
 何があったわけでもない。昨日と変わらない今日だった。朝、目覚めて共に食事をし、魔法の練習をし、のんびりと茶を楽しんだ。
「だから、違うよね」
 リィが疲れているはずはない。そのようなこと、何もなかったはずだ。
 サイファは思う。人の子の脆さを。いまだ知りはしない。が、知識としては知っている。いつか人間は死の手に召されるのだと言うことを。
 そこまで思ってサイファは強く首を振った。その拍子に長い黒髪が揺らいで艶めく。闇がもし光を放つものなら、そんな色をした髪だった。
「サイファ? どうした」
 不意にリィが目を開く。そこに映ったのは不安そうな目をした神人の子だった。
「別に。どうもしないもの」
「うん? お師匠様に嘘つくような子だったかな。可愛いサイファ?」
 いまだ半分ほどは眠りの内にいながらリィはにっと笑った。ゆっくりとした腕が伸びてくるのを、サイファは抗わない。
「嘘なんか……。ついてないもの」
 あからさまな嘘をつきながらサイファは目をそらす。いま考えていたことを口にすれば、本当になってしまいそうで嫌だった。
「どこがだ? とっても嘘だと思うけどなぁ」
 サイファの腕を引けば素直にもたれかかってくる。体の上に乗せてしまえば、心地良い重み。いまだ幼い神人の子は、この姿勢に淫靡なものを感じはしないだろう。
 案の定サイファはリィの胸に安らっただけだった。長い吐息を吐き出す音にサイファの強い不安を感じる。
 それが何にきざすものかはわからない。今のサイファが言うとも思えない。それならばそれでリィはよかった。言う気になったとき、そこにいられればそれでいいとばかりに。
「可愛い俺のサイファ」
 ぎゅっと抱きしめれば、上がるはずの嬌声。いまはなかった。ただいやいやをするようにしてすがり付いてくる。
 リィは視線を空へと投げた。呆れと、諦めが半分ずつの色。いとけない神人の子の仕種が、いまにはじまったことでもないのにたまらない。
「ごめんな、可愛いサイファ」
 だから、悪戯をする。嫌がるのはわかっていて、それをする。今度は悲鳴が上がった。妙になまめいたそれに、リィは失敗を悟る。
「それ、いやだって言ってるじゃない!」
 伸びかけの無精ひげで頬ずりをすれば、サイファの抗議。わかっていてしたことだから、リィは気にも留めなかった。
 むしろ、その声が聞きたかった。沈んでいるサイファを見ているのは、つらい。彼の力になれないのかもしれないことよりも、彼が大人になってしまうかもしれないことを知ることが、つらい。
 サイファが、この幼い神人の子が大人になったとき。そのとき傍らにいるのは自分だろうか。そうリィは思う。いるはずがないとも思う。
 成長の遅い神人の子。サイファが大人になったとき、自分はこの世を去っているだろう。だからこそ、早く大人になってほしい、とはリィは思わなかった。
 もしかしたら大人のサイファの横にいるのは自分かもしれない。が、違うかもしれない。それならば、今のまま。このぬるま湯につかっていたい。
 己のことばかりを考える自分を最低だと思いつつ、リィは何事もなかったかのよう笑って見せる。それしか、できなかった。
「可愛いサイファがぎゅってしても返事しないからだろ」
「したじゃない」
「したか? お師匠様、聞こえなかったなー」
「耳が――」
 遠くなったのではないか。いつものサイファならばそう言った。いまは言いよどみ、どこでもない場所に視線を投げる。
「サイファ。こっち向きな」
「いや」
「いいから、こっち向けって」
 無理やり嫌がって逃げ出す体を抱きすくめれば、長い溜息。嫌悪でも、抵抗でもない。完全にすべてを委ねられた甘い痛みにリィは内心で苦笑する。
「俺はまだまだ元気だからな」
「なに言ってるの」
「ちょっと心配になっちゃったか、可愛いサイファ。こんなに元気いっぱいなんだけどな?」
 悪戯をするよう、リィは言う。すぐそばで、瑠璃色の目が笑っている。サイファにとって、リィはすべてだった。彼が、真実だった。だから、信じた。
「そんなことないもの!」
 勢いよく言い放ち、サイファは自らリィの頬に頬寄せた。ちくちくとした無精ひげの感触。痛くて、嫌いだった。
「おい」
「痛いから、嫌なんだって、言ってるじゃない。どうして綺麗にしてくれないの。できるくせに」
「そりゃあ、なぁ?」
 ありありと濁した言葉の内容がわかる気がしてサイファは唇を尖らせる。それでも目は笑っていた。
「ほら、こんなに伸びてる」
 半端に伸びたひげに指を伸ばせばリィの目が細められた。困ったような、戸惑ったような顔。それを見るのが好きだった。
「リィ」
「うん?」
「重くない?」
「全然」
 細身でも強靭なリィの体。上に覆いかぶさったサイファはその力と温もりを全身で感じていた。ただ、それだけだった。
「ちょっとくらい重たいって言ってほしいのに」
「なんでだ?」
「ちょっと、大人になったかなって、思うじゃない」
「馬鹿だな」
「なにが。どうして、リィ?」
 拗ねたサイファが横を向くのに、リィは彼の顎先に指を添えるだけ。それだけでサイファは視線を戻す。
「そんなにあっという間に大人になっちゃったら、俺がつまんないだろ。そのまんまでいいよ、可愛い俺のサイファ」
 本心とはかけ離れたこと。あるいは、それこそがリィの本心。いずれにせよリィが心の奥底で考えていることをサイファは一切感じ取りはしなかった。
「ずるい」
「どうしてだよ」
「だって、リィは大人じゃない。私よりずっと年下なのに!」
 朗らかな笑い声がした。一度、戯れのようリィの頬を叩いてサイファは体を起こす。その腕を掴んで引き倒す。体勢を入れ替えて組み敷きたい欲望を心の深くに押し込めて、リィはサイファを抱きしめた。
「リィ!」
「お師匠様に手を上げるような子はお仕置きだぞ」
「どんな?」
 期待にあふれたサイファの表情。リィが自分を酷い目にあわせることはないと信じきった顔。かえって何か楽しいことが待ち受けていると信じる顔。
「そんな顔すると――」
 思わず本音が漏れそうになり、リィは彼に見えないところで拳を握る。サイファは気づかず首をかしげただけで、ほっとしたリィは微笑んで先を続けた。
「寝ちゃおうかなー」
 途端に鋭い声が上がった。腕の中、サイファが暴れている。寝かすまいとして。遊びはまだ続くのだと言って。
「決めた。寝る。こんないい天気だ。昼寝もいいもんだぞ」
「ちょっと、リィ!」
「聞こえないな。あぁ、眠いー」
「嘘。わかってるんだから!」
 声を荒らげるサイファを気にした素振りも見せず、リィはサイファを抱いたまま目を閉じる。押しつぶされた草の匂いとサイファの髪の香り。
 ひどく、ひどく幸せな気がした。いつまでもこの時間が続けばいい、心からリィはそう思う。腕の中の神人の子が、甘い声でなじっていた。
「ねぇ、リィ」
 閉ざされた瞼に、瑠璃色が隠れてしまった。それがいまは奇妙なほど残念で仕方ない。目を開けさせたくて、薄い瞼に触れてみる。
「ほら、起きてるじゃない。ねぇ」
 ひくりと動いた瞼にサイファはもう一度触れる。柔らかくて薄くて、壊してしまいそうで怖い。人の子の脆さそのものだった。
「リィ」
 寝たふりをし続けるリィの心に精神の指先を滑り込ませる。瞼のように脆く儚く壊れやすい人間の精神に、サイファはいつも怯える。
「おいで」
 伸ばしてきたリィの指先にすがったのも、だからだった。
「やっぱり」
「うん?」
「起きてるじゃない。ここだったら、嘘つけないんだから」
 心と心が交わすもの。嘘などつきようがない。人間とは比べようもない強靭さを持ったサイファにして、見ることができないものがリィの中にあったとしても。隠されているだけで、嘘ではなかった。
「お仕置きって言っただろ」
「言ったけど?」
「俺が寝ちゃったらつまんないんだろ。だから、お仕置き」
 心の中に響くリィの明るい笑い声。それを聞くのがサイファは好きだった。何よりも安堵する。誰が何を言うより、リィの笑い声一つが。
「意地悪」
「だからお仕置きだって言ってるだろ」
「ねぇ、リィ」
「うん?」
「ほんとに寝ちゃうの。寝ちゃうんだったら、悪戯するから」
 まるでときめきを覚えてでもいるかのようなサイファの声。リィはこれこそがお仕置きだ、とでも言わんばかりにそっと心からサイファを追い出す。動揺のあまり、隠していたものが現れるその前に。
「ほんとに悪戯するから」
 それをサイファは気にしなかったようだった。そのことにほっとして、リィは次いでわずかにうめいた。
「痛いって!」
 心ではなく、喉で声を出して言えば、よけいに痛い気がした。サイファが伸びかけの無精ひげを摘んでいる。
「よせってサイファ。悪戯するからって、もうしてるだろうが。可愛いサイファ、いい子だから!」
 伸び上がって、今度は頬を摘んできた。かと思えば髪を引っ張る。子供のような悪戯、と思ったことでリィは苦笑する。正に、子供だった。今この腕の中にいる神人の子は。
「よせって。ほら。お師匠様はほんとに眠いの。一緒にお昼寝だ」
「一緒?」
 ぴたりと指が止まった。見れば唇をほころばせ、嬉しそうに微笑むサイファがいた。馬鹿馬鹿しいほど単純なことだった。世界が、時間が、こうやって過ぎていけばいいのに。そう願わずにいられないほど、簡単なことだった。自分より早く腕の中で寝息を立てはじめた神人の子を抱きながら、リィは春の空を見上げていた。




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