塔に帰ってくるのは久しぶりだった。本当はもっと頻繁に帰ってきてもいいかな、とサイファも思わないでもなかったのだが、それにも問題がある。
 問題、と言うよりは心配かもしれない、とひっそりサイファは笑った。以前、二人きりで暮らした森の中を再現した部屋の中、サイファの忍び笑いが小さく響く。
「きっとまたいるよね」
 笑いを収めたサイファは不安そうだった。いつ帰ってきてもいい、そうリィは言う。そしていつもリィのそばには誰か恋人らしき人間がいた。
 リィにたずねたことはない。が、聞けば彼は答えるだろう、恋人ではない、と。神人の子のサイファは恋人としか言い様を知らなかった。人間のリィならばただの情事だと言うだろう。
 サイファはそれを見たくなかった。それを見ることが、心配だった。だからあまり度々帰ってきはしない。リィはそれをどう思っているのかも、サイファにはわからなかった。
「仕方ないね、人間だもの」
 ぽつりと呟いてサイファは部屋の扉を開けた。途端に人間の気配があふれかえる。これも自分がここにいたときにはなかったものだ、と思えばちくりと胸が痛む。
「リィ」
 小さく呼びかけた。本当は、声に出す必要などない。心の中で問いかければいい。それですぐさま答えは帰ってくる。今のように。
「そっち、ね」
 思ったとおりだ、とサイファは微笑む。この時間ならばリィは居間にいる。きっと弟子たちとお茶の時間を楽しんでいることだろう。これは自分がいたころから変わらない、とサイファは少し笑った。
 塔の中は閑静で、サイファが感じたほど人間のいる気配はない。神人の子だけがそれをうるさい、と感じる。
「どこもかしこも……」
 人間ばかり。心の中で言えばリィの苦笑の気配が伝わった。それにサイファは笑みを浮かべる。あまり好意を持つ気になれない人間の中、彼だけは違う。わざわざ心で言葉の形にする必要はなかった。リィは間違いなく、サイファの心を感じ取っているから。
「だから、時々は帰ってくるの」
 人間を嫌いきってしまう前に。まだ人間が多少はいいところもあるのだと思えるうちに。リィが人間の一員なのだから、と確かめに。
「そうなのかもしれないね」
 呟き声も心の声も、リィには届かせなかった。聞いて欲しいことではない。聞けばリィは自分を手放すまい、とするだろう。外の世界はいやなことが多いばかりだ、と言って。
 けれどそれはサイファの望みではない。もっとたくさんのことを知りたい。塔の外の世界がどうなっているか。国と国との情勢がどう動いているのか。人々は何を考えているのか。
 それを、知りたい。自分のためではない。リィのために。リィのためだけに。彼の役に立つために、大人になりたい。時間だけはどうにもできないから、知識を手に入れる。そのためにサイファは塔を旅立った。
「だから、頑張るの」
 どんなに嫌な目にあっても。呟き声は決心とは程遠い温かい響きをしていたけれど、それがサイファの本心だった。
 一度ぺしり、と両手で頬を叩いた。思い悩んだ顔をしていては、リィを不安にさせてしまう。
「大人になったね、私も」
 師を気遣うようになるとは。言葉とは裏腹の幼い顔でサイファは笑い目の前の扉を開けた。これにも、決心がいる。
「――ただいま」
 そのまま背を返して逃げようか、と思った。案の定、居間の中にはたくさんの人間がいた。見る限り数人なのだが、その視線の強さにサイファは人数以上の気配を感じる。煩わしかった。
「お帰り、――サイファ」
 いつものとおりのリィが笑っていた。わずかに言いよどんだのはきっと新しい弟子たちの前で「可愛いサイファ」と呼びかけそうになったせい。
 それがわかるからサイファはそっと笑う。そういうリィだから、帰ってこられる。ほっと息をつけば、優しい茶の匂い。
「ちょうど茶の時間だ。お前、いつもいいときに帰ってくるよなぁ」
 帰ってくるたびにしている新しい弟子たちへのサイファの紹介を終えたリィが半ば冗談めいた呆れ顔で茶を淹れていた。それを弟子が慌てて止め、自分がやると言い張るのもいつもどおり。振り切るようサイファの茶をリィが手ずから淹れるのも、いつもどおり。
「サイファ、どうした」
 黙ったままのサイファを振り返れば、困り顔をしていた。少しだけ、大人になったような気がする。サイファの帰還は頻繁ではない。以前帰ってきたのも確か、三年前だ。
 そのせいだろうか、とリィは思う。が、違うことを理性は理解していた。神人の子の成長は遅い。目で見てわかるほど大人になっているわけがない。
 彼が大人に見えるのならば、それは自分の願望以外の何物でもない、とリィはそれも知っていた。
「なんでもない」
「……って顔に見えないぞ。どうした。うん?」
「ちょっと……」
 手渡された茶に視線を落とす。塔にいるときから自分が好んでいるものだった。今でも覚えている、それが少し嬉しくて、同時に当たり前だとも思う。リィだから。嬉しく思うのはきっと、人間に疲れたせいだとも思う。
「サイファ」
 強く呼ばれて顔を上げれば、リィの表情より先に弟子たちが映った。サイファは溜息をつかなかった。それでもリィは感じた。
「おい――」
 振り返って弟子たちを呼ぼうとする。どこかへ行け、とでも言うつもりだろう。が、サイファがとめた。
「なんだかあんまりにもいつもどおりで、少し戸惑っただけ。気にしないで」
「どういうことだ?」
「いつもお茶の時間に帰ってくるってあなた、言ったじゃない。いつも弟子たちがあなたがお茶淹れるの、止めるね。それでもいつも、あなたが淹れてくれるね。だから――」
「サイファ?」
「この前帰ってきたの、いつだったかな、と思って」
「本当に?」
「あなたに嘘ついたことなんてないもの」
 珍しく人目があるのにサイファが拗ねて見せる。それにリィはようやく顔をほころばせた。もう一度お帰り、と言おうかと思った。
 言葉が、喉から出てこなかった。詰まってしまった言葉の代わりにリィは彼の髪に手を滑らせる。手に馴染んだ冷たく重い感触だった。
「リィ」
 小声で呼んだサイファの声音にリィははっとして手を離す。目の前でサイファが苦笑していた。視線がどこでもないどこかを示している。それでいて的確に、一人を。
「お前、ほんとに鋭いよな」
 耳許で囁くように言えば、背中に突き刺さる視線。リィは今の情人がなにを考えているのか手に取るよう、わかっていた。わかっていて、毛ほども気にかけなかった。
「サイファ。どこにいた?」
 何事もなかったかのよう彼のそばを離れ、茶菓子をとってやればサイファもおとなしく腰を下ろす。
「どこって言われても色々としか言いようがないんじゃない?」
「まぁ、それもそうか。一番長くいたの、どこだ?」
「ミルテシアかな」
 思いがけない言葉でも聞いたかのよう、リィは眉を上げた。サイファのほうこそ、驚いたけれど、リィにたずねることはしなかった。聞いても答えてくれないときの顔を、彼はしていた。
「どこか――」
「リィ師」
 話を続けようとしたリィを、弟子の一人が遮った。サイファがそれとなく見やれば、先ほどリィを射殺してやろうかとでも言いたげな目で見ていた青年だった。
「そろそろ休憩は――」
「終わりだな。各自、自習。ただし呪文室は使用不可。魔道書の研究がお勧めだ」
「リィ師!」
「なんだ?」
 穏やかに尋ねた顔は、笑っていた。が、目が冷たい。サイファには、決して向けたことのない目をしてリィはいまの情人に向かって笑う。怯んだ青年がちらりと神人の子を見て居間を後にするまで、リィは動かなかった。他の弟子たちはもうとっくに勉強に行ってしまっていた。
「リィ」
「うん、なんだ?」
「ちょっと、やりすぎじゃない?」
「なにがだよ」
「自分の弟子を脅してどうするの」
 呆れ声で言って、リィ手製の菓子を口に運べば彼の体から強張りが解けていくのが目に見えてわかる。
「最近図に乗っててな、ちょっとやりにくくって、それでな」
「あなたが悪いんでしょ」
「可愛いサイファ! なんてこと言うんだ」
「弟子が増長するのは、どうして。あなたがどこかに引っ張り込んでるからでしょ」
「可愛いサイファ……。どこでそんなこと覚えてきたんだ……」
「教えてくれたのはきっと、あなただと思うよ」
 にっこり笑ってサイファは嘯いた。リィの恋人はあの青年がはじめてではない。特に波風を立てる気もなかったから、どの恋人を見ても口をつぐんでいるけれど、片手では数え切れない程度には、サイファも知っている。
「まったく……」
 絶句してリィは短い銀髪を思い切り自分の両手でかき混ぜていた。うつむいてしばし。ちらり、とサイファを見上げる。
「リィ?」
 無邪気な顔をしてサイファが微笑んでいた。
「お前にゃ、敵わんよ。可愛いサイファ」
 言えばなんのこと、とでも言いたげな顔をしてサイファが微笑む。それで、よかった。サイファにはそれ以上を知ってほしくなかった。
「ねぇ、リィ」
 が、サイファのほうが知りたがった。リィには意外で、思ったよりずっと苦い。
「あなた、好みってないの」
「なんのことだよ」
「わかってるくせに。今の人の髪は亜麻色だったね。その前は……」
 首をかしげてサイファが思い出そうとしているのを、リィはわずかばかり驚いたような顔をして見ていた。
「茶色でしょ、枯れ草色。砂色に赤毛も一人いたね。蜂蜜色に金髪、それから――」
「よせって、サイファ。勘弁してくれよ」
「サリムを除けば、黒髪はいないね」
 どこまで話が遡るか察したリィが止めてもサイファは聞かなかった。にこりと笑って最後まで言い切る。愉快ではないならば、はっきりそう言えばいいのに、と思っても言えないリィだった。じわり、心のどこかが狂喜する。
「あなた、好みってないの」
 再び同じ質問だった。言い逃れることは許さない、とその目が言っているくせにサイファがどこまで理解して尋ねているのかがリィにはわからない。
「別に」
 険しい目に、言い訳ではない、と同じく視線で返した。リィには、言えなかっただけだった。
「髪の色程度のことでも、ないの」
「強いて言えば――」
「なに?」
「内緒」
 唇の前、わざとらしく指を立ててリィは言う。言ってからちらり、とサイファの髪を見やった。気がついたのかサイファもまた、己の髪に視線を移して無邪気に笑う。
「ふうん、黒髪が好きなんだ。ちょっと意外」
 だからサリムを。それなのに、サリムだけ。サイファの目の奥の遠い場所がリィに語りかけてくる。リィの、気のせいだったのかもしれない。いまだ幼いサイファがそのような問いを発するはずはないのだから。
「ねぇ、リィ。誰でもいいの」
「まぁな」
 お前じゃなければ誰でも同じだ。心の中で言いかけてリィは慌てて気を引き締めた。神人の子の強い精神力にかかっては、自分の心の障壁などないも同然だ。
「だって、リィ……」
「どうした?」
「あなた、寂しくないの。人間って、誰かと一緒がいいんでしょ。あなた、すぐに恋人と別れちゃうじゃない。それでいいの」
 帰還するたびに思っていたことだった。一度見かけた恋人を、二度見ることはなかった。
「馬鹿だな、サイファ」
 呆れているくせに優しい声にサイファはきっと眦を吊り上げる。リィは頬杖をついてサイファを見ていた。
「俺にはお前がいる。そうだろ、可愛い俺のサイファ。お師匠様、ちっとも寂しくなんかないぞ?」
 その瞬間、ぱっと笑顔が広がった。サイファの顔に浮かんだ満面の笑みが、彼が何一つ理解していないことを物語る。
 それでいい、リィは苦さを笑い飛ばしてサイファの髪に手を伸ばした。くすぐったそうに笑うあどけない神人の子の柔らかで無垢な心を守るのが自分の使命だ、とばかりに。




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