二人はしばらく小屋を留守にしていた。シャルマークの草原で魔法の練習に励み、山脈に分け入っては真冬にしか採ることのできない薬草を探す。
 すっかり雪塗れになりながらもサイファは楽しそうだった。時折わざと枝を揺すってはリィの頭上に雪を落としたりしている。
「そろそろ帰るぞ」
「もう?」
「お前は平気でもお師匠様はいい加減寒いよ」
 笑ってリィはそう言った。いかに気温に左右されにくい魔術師とは言え、ずっと雪の中にいては寒くもなるというもの。
「ねぇ、リィ」
「うん?」
「これ、どうするの」
 サイファは摘んだ薬草を入れた籠を掲げて見せる。自分は薬草など必要とはしなかったし、リィも体は丈夫だ。
「神殿に、な」
 言って、リィは手の中にある薬草をサイファの籠に落とした。雪がついたままの草は緑も鮮やかで、とても綺麗だった。
「神官は忙しいからなぁ。神殿で使う薬草なんか採りにきてる暇がないらしい」
「だからあなたが?」
「俺がって言うより、採ってきたやつから買ってるんだ」
「ふうん」
 なんだかよくわからなかった。売買と言うことを知らなかったわけではないけれど、リィがそれで得た金銭を何に使っているのかがよくわからない。
 そんなサイファにリィは苦笑するだけで答えなかった。食べるものや着るものに変わっているのだといっても、サイファには少しばかり納得しがたいことだろうと思ってのことだった。
 元々、神殿に向かいつつ歩いていたせいで、それほど到着まで時間がかかりはしなかった。リィとしては熱い茶の一杯でも振舞って欲しいと思っていたが、どうやら神殿はそれどころではないようだった。
「なんだ……?」
 サイファも忙しげに辺りを巡る神官を興味深そうに見ている。普通の人間と比べて、神官たちをサイファはそれほど嫌ってはいなかった。
 もっとも、神に仕える人間だけあって極端に走ってしまうものもいる。そうなると普通の人間よりいっそう神人の子を崇め奉ってしまうから手に負えない、とも感じていたけれど。たいていの神官は、常識的な人間たちだった。
 だからサイファはリィの後ろについてここまできたのだった。それに、サール神殿は好きだった。他の神殿に比べて、建物が優雅で優しい。
「失礼。お待たせしてしまった」
 ようやくのことで神官が応対に出てくる。この寒いのに額に汗まで浮かんでいるから、よほど忙しいのだろう。
「薬草を――」
「あぁ、ありがたい。ではしばしお待ちを」
 リィの言葉を奪うようにして、神官は行ってしまった。二人、顔を見合わせて苦笑する。首をひねるリィの目がふと細められた。
「リィ?」
「そうか……」
「リィ。どうしたの」
「いや、すっかり忘れてたな」
「だから、なにが」
「うん? 今日は、降臨祭じゃねぇか。まるっきり忘れてたよ」
 どうりで神殿が騒がしいわけだ、とリィはうなずく。それにサイファが拗ねたようそっぽを向いた。
「サイファ?」
「だって、ちゃんと説明してくれないから」
「説明ってなぁ……。降臨祭は知ってるだろうが」
「知ってるけど。一人で納得してるリィはいや」
 神官の目がなければ、唇を尖らせて拗ねることだろう。それを思えば惜しくてならない。リィは目許を和ませて、人目に触れないよう気をつけつつそっとサイファの手を握る。
「怒るなって」
「怒ってないもの」
「可愛い俺のサイファ」
 耳許で囁いた。そ知らぬ顔で言ったから、きっと誰も気づかなかったはず。サイファは黙ってうつむいた。
 代金を持ってきたのだろう、先ほどの神官が駆けてくる。常ならば、神殿内を走るなど、と言って上役が怒るのだろうけれど、今日に限ってはそれもない。
「行くぞ、サイファ」
 慌しい言葉のやり取りをして、リィはサイファを促して神殿を出た。懐に収めた金をしばし思う。もう少し早く気づいていれば、サイファに贈り物のひとつでも買ってやれたのに、と。それが残念だった。
「リィ」
「うん?」
「帰るんじゃないの」
 それにしては道が違う、とサイファは訝しげな顔をしていた。それをリィはにんまり笑い、黙ってサイファの手を引く。
 いつもならば通らない道だった。小屋の裏手に出てしまう。そして裏手は小高い丘になっていた。丘につくころには、すっかり日が暮れていることだろう。
「リィ、どこ行くの」
「丘にな」
「行ってどうするの」
 どうやらサイファはまだ拗ねているらしい。手を繋いだまま歩いているのも気に入らないと言いたげだった。それでもサイファは手を自分から離そうとはしない。
「降臨祭って、言っただろ」
「だから?」
「三叉宮。丘から見えるだろ」
「あ……」
 神人の、降臨を祝う祭りだった。遥かな昔この大地に神人が降り立ったその恩寵に感謝する日。人間たちは揃って神殿で祈りを捧げ家族と共に食卓を囲む。
 付き合うつもりなのか、それとも神人に別の理由があるのかはリィも知らない。ただその日、神人たちの宮殿・三叉宮は夜を徹して明るく輝く。
「ちょうどよかったな」
 やはり、丘についたときには日は落ちていた。少しばかり木が邪魔だったけれど、三叉宮はよく見える。
「サイファ」
 そう、リィは花開く三叉宮を指差した。暗闇の中、雪化粧をした三叉宮が青白い輝きを放っている。夜空には一面の星。なにもかもがきらきらと輝いていた。
「綺麗……」
「もっと近くで見ればよかったんだけどな」
「ううん。ここがいい」
「そうか?」
「うん。ほら――」
 示された方向にリィは目を凝らす。サイファほど良く見えない目に苦笑しながら、なんとか彼が言っているものを探し当てた。
「あれは……」
「神人が、空にいる。綺麗」
「宙に――」
 浮いている、と言うよりは飛んでいた。淡く輝くその背のもの。きっと翼などではない。彼ら自身の髪が風になびいて煌いている。自ら光を放つ三叉宮の明かりを受けて。溜息も、でなかった。
「サイファ」
「寒い?」
「少し、な」
 抱き寄せたサイファが腕の中で笑っていた。背中から彼を抱き、共に雪の花たる三叉宮を見つめる。小宮殿からかかる橋が、まるで繊細なレースのようだった。
 リィはサイファの髪に顔を埋め、腕の中の神人の子のことを考えていた。降臨祭のせいではない。この神人の子がここにいる。だからリィは神人に感謝を捧げた。
「リィ」
 胸にまわした腕に、サイファが自分の手を添える。いま彼は、なにを考えているのだろう。知りたいと思ったけれどリィは心に手を伸ばすことはしなかった。
「どうした、可愛い俺のサイファ」
「あなたがどうしたんだろうと思ったの」
「なにがだ?」
 いかにも驚いた、そんな声だったけれどサイファは騙されなかった。リィのとぼけたときの声の響きはよく知っている。
 くつくつとサイファは笑った。温かいリィに包まれて、いつもよりずっと穏やかな気持ちになる。
「そろそろ帰るか」
「寒いの?」
「からかうなって」
 伸ばした指先でサイファの頬を摘んだ。小さな悲鳴が上がって、それを合図とするようリィは腕を離す。これ以上抱いていられはしなかった。
「覚えてりゃなぁ」
 丘を下りつつ、リィはそんなことを呟く。サイファが不思議そうな顔をして見上げてきた。
「降臨祭。忘れてたって言っただろ」
「うん。だから、覚えてたらなんなの」
「お前になんか買ってやれたな、とか」
「別に要らないのに。いま欲しい物はないよ?」
 そういう問題ではないのだと言っても神人の子には理解できないことだろう。できればあと数年か数十年かかけて教えたいものだリィは思う。
「ご馳走の用意ができたな、とか」
「それも人間の習慣?」
「まぁな」
 小屋の扉を開ければ案の定、冷え切っていて外と変わらないほど寒い。リィは大急ぎで暖炉に薪を放り込み大きな火を作った。
「リィ」
 サイファが乾いた布を手渡す。丘を下る途中で降り出した雪が髪に積もって凍っていた。
「ありがとな」
 言って手早く拭いてはサイファを呼び寄せる。長いサイファの黒髪にも雪は凍っていた。自分にしたよりずっと丁寧に拭うのをサイファが声を上げて笑う。
「よし。片付けておいで」
「はい、リィ」
 からかいにからかいで答えるサイファに向かい、リィは悪戯に拳を振り上げる。決して振り下ろされることがないと知っている拳に、サイファは悲鳴を上げて逃げていった。
 サイファが戻ったとき、リィは暖炉の前に陣取って暖をとっていた。そんな姿が人間だ、とサイファが笑ったのはいつのことだっただろう。最近では言わなくなっている。
「ほら」
 リィに渡された大振りのカップにサイファは首をかしげつつ隣に座り込む。寒さはそれほど感じていなかったけれど、リィの隣が自分の場所だった。
「熱い葡萄酒だ」
 鼻を近づければ、確かに葡萄酒の香りがする。それと色々な香辛料の匂い。口に含めばたっぷりの蜂蜜の甘さ。
「旨いだろ」
「うん。おいしい」
「やっぱりなぁ。あとご馳走があればよかったんだけどな」
「要らない」
「でもな、可愛いサイファ」
 視線に、リィは隣を見やった。サイファが両手でカップを包み込んで微笑んでいた。口許に浮かんだ微笑に、リィは我を失いそうになる。
「ご馳走なんて、要らないもの。あなたがいる。それが一番のご馳走だから。他には要らないの。わかってくれる?」
 ゆっくりと、リィは温めた葡萄酒を飲んだ。熱いそれが喉を焼きそうになるのも気づかなかった。
「わかるよ、可愛い俺のサイファ」
 なんでもない顔をしてサイファの髪に手を伸ばす。嬉しそうな笑みを浮かべて肩に寄り添ってきたサイファの顔を真正面から見ることができるまで、リィにはいましばしの時が必要だった。




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