「サイファ、海に出よう」 ある日のことだった。突然、リィがそう言ったのは。満面の笑みに少しばかりの企み顔。そわそわと塔の窓から外を見ている。 「海に? どうして」 サイファはゆるりと寝椅子に腰を下ろしたまま彼を見上げた。決して行きたくないわけではない。時間を引き延ばしているわけでもない。 ただ、そうやって尋ねるのが楽しかった。きっと彼は教えてなどくれないのだから。 「内緒」 案の定のリィの言葉にサイファは笑みを浮かべる。目を細めて髪をかきあげた。 「教えて」 「俺が教えると思うか?」 「思わない」 悪戯をするよう言ったリィにサイファも同じ声音で答える。そして二人忍び笑いあう。かわす視線が絡み合う。 「行くか?」 リィが尋ねたのは、だから確認のようなものだった。サイファが自分に逆らうとは思っていない。戯れのよう、嫌がることはあったとしても。 「行く」 膝の上に置いて読んでいた大きな魔道書を傍らに置き、サイファは立ち上がる。はじめて会った頃と少しも変わらないようでいて、ほんのわずか、すらりとしたよう、リィには見える。 そう、見たいだけかもしれない、とリィは思った。いずれ大人になるサイファ。だがそれにはあと数百年を要するだろう。そのときには自分はもういない。 「リィ?」 彼の声に正気づき、リィは笑みを浮かべて首を振る。視線を窓の外へと投げてそちらが気にかかるのだと取り繕った。 「行こうか、サイファ」 塔の外には誰もいなかった。サイファはかすかにリィを疑う。人間の目を厭う自分のために彼が何かをしたのではないか、と。 それにしては違和感が付きまとう。燦々とした夏の陽射しを浴びて、サイファは不安だった。太陽の恵みを全身に浴びているはずなのに、この苛立ち。 「サイファ?」 リィの問いかけに黙って首を振った。そして苛立ちとは呼べないことに気づく。背筋を逆撫でされてでもいるような、落ち着かなさ。 「リィ……」 「どうした?」 「ううん……でも、何か」 「行くの、やめるか?」 声だけは、心配そうだった。だがリィの表情は少しばかり楽しげで、かすかに寂しげだ。だからサイファは首を振る。自分がこのような状態になることを、リィは知っていたらしい。ならば、ついていきたいと心から願う。それでもリィが見せたいと思う何かのために。何よりリィのために。 「行く」 リィはそれにうなずきだけで応え、浜辺へと下りていった。そしてサイファは息を飲む。驚くべきものがそこにある。 「リィ、いつの間に」 「うん?」 「船。いつ用意したの」 浜辺には、一艘の小船が繋がれていた。波間にたゆたう船は頼りなげで、そして美しい。二人を誘うよう、揺れていた。 「内緒」 唇に指を一本あててリィが笑う。それほど前から用意していたのか、とだからサイファは驚いた。いったいリィは何を見せるつもりでいるのだろう。ただ海に出たいだけだとは、思えなかった。 「あなた、漕げるの」 「うん? まぁ、大丈夫だろうな」 「リィ!」 「いざとなったらこうやってなんとかするさ」 手を閃かせ、魔法の仕種をしてリィは笑った。ほっとサイファは息をつき、そしてどれだけ自分が過敏になっているのかを知る。 言うまでもないことだった、体の力でどうにもできないのならば、魔法を使うまで。魔術師が二人いるのだ、たいしたことではないはずなのに。それに思い至らなかった自分をサイファは恥じていた。 「お前のせいじゃないさ」 海に漕ぎ出してからだった、リィがそう言ったのは。意外と器用に櫂を操るリィを、サイファは見てもいなかった。 それどころでは、なかった。気もそぞろで、すでに苛立ちと落ち着かなさがない交ぜになったものは恐怖に近いところまできている。 「リィ?」 サイファの視線が揺れていた。空の青も海の青も見ていないのをリィは知る。 「この辺でいいか」 彼には答えずリィは呟き、そして船を止める。錨は下ろさなかった。潮のまにまに流れていくのもいいだろう。そう速い潮ではない。 ふとリィは思う。このまま二人、どこへとも知れぬ場所に流されていってしまえたら。そしてすぐさま否定した。サイファを、そのような目にあわせるわけにはいかない、たかが自分ごときのために。 「どういうこと」 知らず詰問調になる自分の声をサイファは遠く耳で聞く。きゅっと唇を噛んでリィを見つめた。どことなく浮ついているらしい彼だけれど、それでリィにはわかるはずだから。 「おいで」 柔らかく微笑んだリィが手を伸ばす。不安定に揺れる小船の上、サイファは彼に手を預けた。 と、その手が引かれる。危ない、と思ったときには倒れこんでいた。体の下、リィがくつくつと笑いながら空を見上げている。 「リィ! 危ないじゃない」 「ごめんな、サイファ。元気出せよ」 「元気だもの」 「嘘つけ」 リィの口許がつりあがる。サイファは視線をそらし、彼の胸に顔を埋める。温かくてリィの匂いがした。 「サイファ、寝るなよ。空見ろ、空」 「空? どういうこと」 「ほら――そろそろはじまる」 不満げにリィを見つめ、次いで言われたとおり空を見上げる。そしてサイファは感覚が鈍っていた原因を知る。 「太陽が……」 サイファは目を見開いた。体を硬くし、一心に空を見る。いつの間にかリィの隣に横たわって上を見上げているのにも気づかないほどに。 「サイファ?」 「これを、見せたかったの?」 「……お前、見えてんのか?」 「リィ?」 「いま、なにが見えてる、可愛いサイファ」 緩やかな手が髪を撫でていた。だから、サイファは気づいてしまう。いまはまだ、リィにはなにも見えていないことを。 「太陽がね、欠けてきてるの。とても変な感じ」 「どれくらい?」 「ほんの少し……あ、また少し」 リィは額に手をかざし空を見上げる。まるで暗くなどなっていなかったし、何より太陽は明るい。 「あなたよりね、目がいいの。私」 誇るような口調でありながら、寂しげな言葉だった。リィはそっとサイファを抱き寄せる。嫌がりはしなかった。それどころか体を自分から添わせてきた。 「ねぇ、リィ。これは何?」 「日蝕。見たことないか?」 「ない……と思うけど。よく知らない。気がつかなかっただけかもしれないし」 彼の生きてきた長い年月の間に、日蝕がはじめてであるはずはなかった。リィはそれを喜ぶ。サイファが示した不安を。 それだけ彼はいまの生活に満足している。穏やかで、幸福だと感じている。だからこそ、この瞬間に不安を感じた。それがリィにとって幸せでないはずはなかった。 「ほら――」 サイファが空を示したのは、リィの人間の目にもいささか日が翳ったように見えたころだった。気づけばわずかであっても気温も下がっているらしい。サイファを抱いた温もりが心地良かった。 「俺には道具がいるな」 サイファが示すものが、いまだリィにはよく見えない。太陽はやはり、明るかった。サイファが悲しい顔をするより先、リィは苦笑して見せ手を閃かせる。 「あ……」 リィの手には黒い何かがあった。ちょうど、硝子に煤をつけたような、そしてもっとずっと黒い何か。それをリィは目の前にかざした。 「あぁ、すごいな。だいぶ欠けきてる」 「それで、見えるの?」 恐る恐る尋ねるサイファにリィは笑みを浮かべて彼の目の前に差し出す。覗き込んだサイファは唇を尖らせていた。 「こっちだと、私はよく見えないみたい」 拗ねて見せた顔の向こう側、寂しさが浮かんだ。リィと自分と。決して同じものを見ることができない。人間と神人の子と。同じ言葉を話し、同じ時を生きていると言うのに。 「サイファ」 少しだけ強く抱きしめられた。ゆっくりと息をつき、それでも今ここにリィがいることをサイファは確かめる。 「世界が……」 「うん?」 「息を、潜めてるの」 太陽が隠れてしまうその時を、世界が感じている。サイファもまた、感じている。空を飛ぶ鳥の影すら見えない。きっと鳥たちも感じているのだろう。 サイファはそっとリィを窺う。人間は、どうなのだろうか。この苛立ちにも似た静謐を、感じ取ることができるのだろうか。 「見てご覧、可愛い俺のサイファ」 道具越しに太陽を見上げていたリィが微笑む。つられてサイファも笑みを浮かべて空を見上げ、そしてそのまま驚愕に固まった。 「綺麗……」 「だろ」 「見せたかったのは、これ? すごく、綺麗……。金剛石の指輪みたい」 呟いているつもりなどサイファはないのかもしれない。それでリィはよかった。ここ数日、サイファが落ち着きをなくしていた。彼自身も気づかない些細なものではあったけれど、リィは気づいた。 いったい何に兆すのか、はじめは気づかなかったものの、ふと天文観測の結果とつきあわせる。日蝕が迫っていた。 自然の、世界の営みにこれほど強い影響を受けるものか、とリィは唸る。人間である自分は、少しも感じなかったというのに。 だからいっそ、共に日蝕を見たかった。彼がどう反応し、何を考えるのか知りたかった。綺麗だと太陽の輪に惹きつけられるサイファがいた。それで、よかった。たとえ同じ物を見てはいないとしても。 「リィ、見える? 星が」 「あぁ、見えるよ。明星だな」 「明けの? それとも、宵? こういう時って人間はなんて言うの」 「さてなぁ。とりあえず明星とだけ言っておくか」 「なにそれ、いい加減」 くすりと笑ってサイファは体から力を抜いた。リィは彼が自ら知るより明確に知覚している。 「暗くなってきた……」 「可愛いサイファ。太陽だけじゃなくて、周りも見てご覧」 「え……? あ――」 それは夕暮れとも朝焼けともつかない、不思議な景色だった。波間に漂う一艘の小船。遠く遥かまで、さえぎるものはなにもない。 その遥か先、海と空との境目が淡く染まっていた。いつの時ともつかない、穏やかな赤い色に。サイファは息をするのも忘れて見入る。その間にも日は翳っていた。 「サイファ」 促しに、太陽を見上げれば早、指輪はない。代わりにあるのは黒い太陽。禍々しいかと思いきや、このまま呼吸を止めたくなるほど美しかった。 黒い太陽。周りには燃え上がる白い炎。ゆらゆらと揺らめいて、時を忘れそうだった。時折、白い炎の側、赤い炎がぱっと射す。ちらりとサイファは横を窺う。リィには、見えていないようだった。だから、赤い炎のことは言わない。今は共に見えているもののことしか言いたくない。 「もう一度だ、サイファ」 リィの言葉を問うことはしなかった。今のサイファは世界だった。世界の動きを感じる。そして再び宝石の指輪が現れたとき、サイファは黙って見惚れた。ゆっくりと手を天に差し伸べる。 「欲しいか、可愛いサイファ?」 からかうようなリィの声、サイファは首を振った。あまりにも煌きが強すぎて、この世のものとは思われないほど、美しすぎて。 そうするうちにも、太陽は輝きを取り戻しはじめていた。暗くなるには長い時がかかったように思えたのに、明るくなるのはほんの一瞬。 サイファは耳を澄ます。リィには聞こえない歌を、世界が歌う。ぎゅっと胸が痛くなる。だから、サイファは共に歌った、世界と。 「サイファ?」 小さな声。リィに言葉はわからない。それでも感じる強い喜び。あるいはこれが、前に彼が言っていた新しい日を寿ぐ歓喜の歌、というものかもしれない。リィはじっと耳を澄ます。それしか、できなかった。リィの耳に届くのは、サイファの歌声、それだけだった。 「見てご覧、可愛い俺のサイファ」 歌いやめてからもサイファはそのままでいた。リィにはわかった、彼がなんと話しかければいいか迷っていることが。 「どこ?」 ためらいがちにサイファは問う。あのようなことをしてよかったのだろうか。恐る恐る見たリィは、優しく、嬉しげな顔をして微笑んでいた。彼の顔を映すよう、ぱっとサイファも明るくなる。 「ほら――」 言ってリィが指した先。それは明るさを取り戻した空。 「よく晴れた夏空――。お前の色だ」 目の前でリィが笑う。だからサイファも示した。 「あなたの色だね」 深い海の青を。同じ色の目がちらりと海を見やっては苦笑する。 「空と海。遠いな……」 「どこが? ほら」 サイファの指が、船の側から離れていく。指し示す先にリィは目を奪われた。そこは遥かなる水平線。海の青も空の青も交じり合う。 「ね、リィ?」 微笑む彼の目の中、映りこむもの。海の青が空の青を映し、空がまた海を映し出す。互いの目の中、互いが映り込む。無言で笑みを交わした。それで、充分だった。 |