とても嫌な夢を見た。眠ることの少ない神人の子は、また夢も人間ほど見ない。だからサイファははじめそれが夢だとは思わなかった。 「リィ……?」 呼んでも答えがない。それでようやく彼がいないのを知る。何度か瞬きをして窓の外を見れば低い雲。雨が降りそうだった。 「夢だったの」 リィのベッドから起き上がり、サイファは両手で顔を包む。留守の間の習慣になってしまっていた、彼のベッドで眠るのは。 「なんか、嫌」 習慣になるほど留守にするリィがいまはとても嫌いだった。 サイファは再び横たわり、彼の枕を抱え込む。リィの匂いがして、まるで帰ってきたような気がする。少しもぬくもりはなかったけれど。 目を閉じてもう一度、眠りの中に入り込もうとした。夢の中へ、かもしれない。続きが見たかった。 瞼の中に浮かび上がるそれは、現実のように鮮明だ。人間と神人の子と。見る夢は違うのだろうか。一瞬だけそう思ったけれどサイファの思考はそれていった。 温かい陽射しの中、リィが草の上に座り込んでいた。むっつりと膝の上に何かを抱えて考え込んでいる。 家の中からそれを見やったサイファは口許に笑みを浮かべた。リィが考え事をしているのを見るのが好きだった。 たいていそのあとには楽しいことが待っているから。けれど今はどうやら違うらしい。 「リィ?」 戸口から顔を出したサイファにリィは答えない。顎先に手をあてて唇を引き結んでいる。 「なにしてるの、リィ」 「うん? どうした、可愛いサイファ」 「だから、なにしてるのって聞いてるの」 「あぁ、これな……うん、まぁ」 言いつつリィの視線は定まらない。今度はサイファが唇を結ぶ番だった。 「リィなんか嫌い」 「嘘つけ」 「どうしてそういうときだけ返事するの?」 「サイファが可愛いこと言うから」 「リィ!」 笑ってリィの肩に打ちかかり、サイファの機嫌は途端によくなる。ほころんだ口許を隠しもせず、サイファは彼の後ろに座り込む。 「どうした?」 「なんでもないもの」 「寂しくなっちゃったか?」 「そんなことないって言ってるの!」 きつい声を裏切ったサイファの表情を、ちらりと横目に留めたリィはそのままの姿勢で腕を伸ばした。髪に触れてくるリィの手をサイファが拒むはずはなかった。 「お師匠様はちょっとお勉強中。ごめんな」 「いいって言ってるじゃない」 「拗ねるなよ」 「そんなことしてないもの」 「ほう、そうか?」 あからさまにからかってくるリィの声にサイファは唇を尖らせて彼を窺う。サイファの好きな顔で笑っていた。 「……どれくらい?」 「もうちょっとだな」 「どんなことしてるの?」 「うーん。お前にはまだちょっと早い」 「どれくらい?」 「さてなぁ」 「リィ!」 からかわれているのだか本心なのだかサイファにはわからなくなってしまう。決して熟達した魔術師とはまだとても言えなかったけれど、なにをしているかくらいは教えて欲しかった。 「俺はお前に危ないことさせたくないんだよ、可愛いサイファ」 「でも」 「研究中の魔法なんか危なくって絶対だめ。ちゃんと成果が出たら教えてやるから」 そこに辿り着くのを手伝いたいのだ、とはまだ言えなかった。手伝えるくらいならきっとリィは言ってくれる。 だからリィがしていることはサイファの手に余るのだと、わかってはいる。わかっていても、悲しかった。 「可愛い俺のサイファ」 呼ぶだけで意味のないリィの声にも慣れてしまった。サイファは答えず彼の背中に頬を当てる。贅肉など欠片もないくせに余分な筋肉もついていないリィの背中が好きだった。 小屋には人間の戦士も時折訪れた。サイファの感覚では頻繁、なのだがリィに言わせれば時々なのだ。リィがそう言って笑うたびサイファは少し切なくなる。同じ時間の流れを感じられたらいいのに、と思う。 人間の戦士はなぜかリィを恐れた。怖がっているせいか虚勢を張ったり怯えて震えたり、人間と言うものはわけのわからない挙動をする、とサイファは思う。 そんなときに神人の子が姿を現そうものなら大変な騒ぎになるのは目に見えている――現に一度大騒ぎになってしまった――ので、サイファはこっそり自分の部屋に下がっては扉の隙間から覗いていた。 彼らは魔法が欲しいのだ、と知った。リィが作ったアーティファクトと引き換えに彼は金銭を得ているらしい。 「そんなもの、どうするの?」 金貨や銀貨は綺麗だったけれど、サイファには使い方がわからない。そもそも神人の子に貨幣経済の感覚はなかった。物々交換のほうがまだしもわかる。 「物を作るには金がいるんだよ、可愛いサイファ」 少しばかりの呆れ顔でそう言ったリィにサイファは頬を赤らめたものだった。 彼はその後、説明してくれたものの、今もってサイファは理解した、とは言いがたい。金貨や銀貨が魔法の工芸品の地金になるのだ、と一度は思い込んだほどだった。リィが「買って」きてくれた宝石を見て、やっと半ばほどは理解した、と思う。磨かれてカットされた宝石はとても綺麗だった。もっとも、それもアーティファクトになってしまうのだが。 戦士たちはそれを身につけて戦うのだ、とリィは言った。アーティファクトにこめられた魔力で自分の動きを補佐するらしい。 魔法の働きはわかっても、サイファには戦士たちがなぜあんなに無駄な筋肉をつけているのかがわからない。歩く肉の塊のような体は目に喜ばしいものとはサイファには思えなかった。 リィには剣の素養もあるらしい、といつの間にか気づいていた。魔法をこめた剣を作ったあと、彼は必ず出来を確かめるよう振っている。その動きがとても綺麗だった。戦士たちもリィから買ったあと、すぐさま同じことをするのだけれどサイファにはリィの動きのほうが無駄がないように見える。 「リィのほうが素敵だね」 こっそり戦士が帰ったあとそう言えば、リィは苦笑して目を細めて見せた。 「ありがとな、可愛いサイファ。でも言うんじゃないぞ、それ」 「どうして?」 「一生懸命練習してるんだぞ、あいつらも。可哀想だろ。それに……」 「なに」 「俺は形はいいんだけどな、ちょっと力が足らなくってな」 いかにも残念、と言いたげなリィの口調にサイファは唇を結んだ。 「どっちにしても俺は魔法のほうが楽しくって好きだがな」 途端にサイファは笑顔になる。魔法ではなく剣を使うリィなど想像したくなかった。不意に思う。もしもリィが魔法を志さなかったならば、こうして出逢うこともなかったのだ、と。 「魔法使ってるリィのほうがずっと好き」 小声で言ったサイファにリィは答えず、けれど大きな手が髪を撫でてくれた。ほっと安心する、サイファの好きなやり方で。 今また同じ感触を覚え、サイファは目を瞬く。リィの瑠璃色の目に覗き込まれていた。 「リィ?」 「ぼんやりしてたから気になっただけだ」 「うん」 笑みを浮かべてサイファは再び彼の背中にもたれた。リィもまた書物へと戻っていく。明るい空にゆっくりと高い雲が流れていった。 サイファは手近な花を摘みはじめた。薄青い花を両手一杯に集めては丁寧に編んでいく。編むのは魔法で、だった。 殊更に練習だ、と思っているわけではなかった。この程度のことはできるようになっている。もっとも、集中する必要はあったけれど。リィのように無造作にはできなかった。それが悔しくて嬉しい。 編みあがった花冠を手に掲げ、サイファは会心の笑みを浮かべた。いつになく良い出来だった。花がいいのかもしれない。 「リィ」 ぽん、と彼の頭に放り上げた。薄い青の花はリィの銀髪によく似合う。 「こういう可愛いもんはお前のほうが似合うだろ、可愛いサイファ」 「とってもよくお似合い。素敵だもの、リィだって」 「そりゃありがたいね」 花冠に手を触れて苦笑するリィを残しサイファは立ち上がる。思い切り伸びをすれば大気が爽やかだった。 「お茶にする、リィ?」 答えを待たずサイファは小屋へと戻っていく。追いかけるようリィの声が聞こえた。 「可愛い俺のサイファ、ミルクはたっぷりでな」 背中越しに片手を振ってサイファは午後のお茶の支度をしにいく。まだ頬にリィの温もりがある。それが嬉しくて思わず手をやった。 触れたのは、ただの自分の頬だった。なにも変わってなどいないはずなのに、なぜか冷たいような気がした。 「リィ……」 結局、夢の続きは見られなかった。繰り返し同じ情景を見ただけ。ふと首を傾げてサイファはリィの枕に顔を埋めた。 「本当に、夢?」 夢では、なかったのかもしれない。ずいぶん前、彼と過ごした思い出だったのかもしれない。けれどサイファは強く首を振る。 リィと過ごした時間の一つ一つを決してサイファは忘れていなかった。彼が忘れてしまったようなことでもサイファは覚えていた。リィの小さな仕種、他愛ない言葉、彼の癖。 思い出せば出すだけ、いまここにリィがいないのを思い知る。夢の中でもいい、会いたかった。一人で留守番をするのは、嫌だった。何度も何度も慣れてしまうほど留守番をした。 「なんか、嫌」 習慣になるほど留守にするリィがいまはとても嫌いだった。 目を閉じる前に考えていたのと同じだと、サイファは気づかない。唇を噛みしめてリィの枕に顔を押しつける。 「リィなんて、大嫌い」 ぽつり呟き唇を噛む。心の中で囁く。嘘、大好き、と。きゅっと抱きしめた枕は、彼のように温かくはない。何度、溜息をつたのだろう。溜息をつくことなど、いつ覚えてしまったのだろう。 長い留守のあと、リィの頭に花冠を乗せるまでサイファの心は晴れなかった。 |