久しぶりにウルフを殴ろうかと思った。なんとか思いとどまって、けれどまじまじと差し出されたものをサイファは見つめる。額の辺りが自分でも険しくなっているのがわかった。
「……これは、なんだ?」
 絞りだしたかの低い声に、ぎょっとしたようウルフが下がる。それを許さずサイファはその手を掴んだ。
「サイファ! 痛いって!」
 掴んだはずが握り締めていた。それこそ、握り潰さんばかりに。
「若造。これはなんだ、と聞いている。頭が悪いのは先刻承知だが耳まで悪くなったか?」
「そりゃないよ、サイファ」
「ならば答えろ」
「え? 見ればわかるじゃん。目隠し?」
 それはわかっている。ウルフが自分に差し出したものが目隠しの布だと言うことくらい、言われなくても、それこそ見ればわかる。
「その意図を聞いているんだ、愚か者!」
 ついに怒鳴って、怒鳴ったと思ったときには殴りつけていた。こちらの世界にきてからは絶えてない――と本人が思ってるだけで実はさほどでもない――と言うのに。
 なぜか妙にうらぶれた気持ちになってサイファは自らの拳を見つめる。平手ではなく、きっちり拳で殴りつけられたウルフは、しかしこたえた風もなくへらりと笑っていた。
「目隠しの使用方法なんか、そんなの一つでしょ。目隠しで手を縛ったら変じゃんか」
「できなくはないがな」
「そう言う問題?」
「お前がややこしくしているんだ! もう一度聞く。意図は?」
「だから、あんたに目隠しして欲しいの。他に何かある?」
 あるのならば自分こそ聞きたいとでも言うような不満そうなウルフの声にサイファは折れた。これ以上、不毛な議論をしていたら、世を儚んでしまいそうだった。
 思い切り長い溜息をつき、なぜとなく小屋を振り返る。半分に欠けるほどをウルフが作り、自分が仕上げた異世界の小屋。二人で住むようになって、どれほど経つのだろう。瞬きの間に時が過ぎた気もすれば、まるで動いていない気もする。
「サイファ」
 促され、素直に目隠し布を頭の後ろで縛ってから気づく。もう一言くらい文句を言ってやればよかったと。けれどすでに時遅く、視界は遮られた。
「見えない?」
 実に楽しそうなウルフの声だった。わけもなく、それならばいいかとも思ってしまう。ウルフが楽しんでいるらしいことを邪魔するのは本意ではない。できればもう少し他の方法で楽しんでいただきたかったが。
「目隠しをしている。見えたらおかしい」
「ま、それもそうだよね。じゃ、サイファ」
「なんだ」
「動かないでね?」
「お前がおかしなことをしようとしなければ、動かん」
「だから、なにがあっても動かないでって言ってるの。危ないことはしないから。保証する」
「信用できんな」
 言い放ち、それでもウルフはサイファの言葉の裏側にあるものを信じたのだろう。言い返さずにただ笑った。
 もう一言、何かをサイファは言おうとし、そのとき揺らぎを感じる。唇の端で小さく笑った。
「サイファ」
 楽しげな、ほころぶようなウルフの声。背後にまわり、背中から抱きしめてくる腕。こういうことを人間は淫靡だとは言わないのだろうか。言うのだとすれば、ウルフはどこか間違っている、とサイファは思う。
「なんだ?」
 遮られた視界のまま、サイファは背中を支える体に寄り添う。胸にまわされた腕が力強くサイファを抱きしめた。
「サイファさ」
「だから、なんだ? 聞きたいことがあればまとめてしろ。面倒な」
「いっつも質問はひとつずつって言うくせに」
 拗ねた笑い声がして、サイファもまた喉の奥で笑って抱きしめてくる体に頬を寄せる。温かい体に気持ちが安らぐ。
「それで?」
 問えばささやかなウルフのうなり声。サイファは気にも留めず温かい胸の鼓動を聞いていた。ゆっくりと髪を撫で下ろす感触も心地良く、目隠しの中で目を閉じる。
「ちょっと時々聞きたくなるんだけどさ。サイファって俺のこと、好き?」
「そんなこと言わねばわからんような愚か者に人生を賭けた覚えはない」
「人生って、サイファ人間じゃないくせに」
「だからなんだ? 殺されなければ死なん我々の長い人生だ。愚か者に捧げるにはずいぶん長いぞ?」
 くつくつと笑うサイファをどう思うのか、ウルフは答えずただうなる。髪を撫でる手に抗って、サイファは温かい体を抱き返す。きつく抱きしめれば、何度となくウルフのうなり声。
「だいたいな、ウルフ」
 もう少しからかってやろうと思っていたはずが、意に反して声はでてしまった。あのようなうなり声を聞いていては哀れになるというもの。
「お前はまだ私がどういう種族なのか、理解していない」
「そんなことないって!」
「ある、と私が言っている」
「だって――」
「お前、私が見えないと思っているだろう?」
 思い切り茶化すようにサイファは言った。抱きしめてくる腕にいっそう寄り添って、引き裂かれようものならば直ちに死んでやるといわんばかり。
「え?」
「まぁ、実際のところ見えはしないがな」
「どういうこと?」
「見えないけれど、感覚に捉えてはいる。人間でも感覚の鋭いものは見えなくともある程度のことがわかるだろう?」
 ずいぶん以前、仲間たちと旅したシャルマークでの出来事をウルフは覚えているだろうか。それを指して言っているとウルフはわかるだろうか。
「あぁ……そういうことか。でも、ぼんやりとだよ?」
 どうやらわかったらしい。サイファはうなずいて、褒美だとでも言うよう伸び上がって頬に軽くくちづけた。
「サイファ……」
 途端に情けない声。笑い出しそうになってサイファは胸の中に顔を埋める。たしなめるよう、背を抱く腕にそっと叩かれた。
「人間にはぼんやりとわかることだろうが、私はかなりはっきりわかっている」
 どういうことかわかるか、とウルフの理解を促す時間をサイファは取った。その合間に、と言うわけでもなかろうが、サイファは再び伸び上がり頬に頬を寄せた。
「……あのね、サイファ。そういうことされると考えられなくなるでしょ」
「自業自得と言う言葉をお前は知らないのか?」
「まぁ、知ってるけど。理解してるとは自分でも思えないね」
 開き直りも甚だしい言葉にサイファは答えず、彼の唇を軽くついばむ。ぎょっとしたような気配がした。
「わかっているだろうな? 私を欺こうとするからこういう羽目になる」
 自分を抱く腕が強張っている。長い溜息をついてサイファは目隠しに手をかける。外す前にサイファは顔を上げて言った。
「それで。リィ? あなたがこの馬鹿に加担してるのは、どうして?」
「お前なぁ」
「なに?」
 無造作に目隠しを外せば、まぎれもなく自分を抱いているのはリィ・ウォーロック。にこりと笑って、けれどサイファの目は笑みからは程遠かった。
「サイファ。いつからわかってたの?」
「だから最初からだと言っている! 見えなくとも、感覚が捉える。それにな、ウルフ。お前は忘れている。私は長くリィと共にあった。抱きしめられてわからないほど短い時間ではなかったぞ」
 リィの後ろで声を担当していたウルフが情けない顔をして笑う。手を伸ばし、引き寄せればすぐに歓喜の表情に変わった。それが癪で、頬にくちづけようと思っていたはずが、平手に代わる。
「いったいなぁ、もう」
「なぜお前はそう叩かれるようなことばかりをする」
「いまのは……俺ちょっと可哀想だと思うがな、可愛いサイファ?」
「ねぇ、リィ。まだ私はあなたの理由を聞いてない。ウルフを可哀想に思う前に、自分を可哀想に思うようにならないといいと思うんだけど?」
「師匠を脅すな!」
「脅される師匠が悪い!」
 リィの声に被せるようなサイファの言葉に、ついにウルフが吹き出した。どうにも状況がわかっていないとしか思えない。サイファはリィの腕の中からまじまじとウルフを見た。
「お師匠様はね、サイファ。俺に協力してくれただけ」
 伸びてきた手をサイファは拒まない。髪を撫でられて、内心でこっそり思う。この手だけでも区別は充分につく、と。
「俺、計算は下手だからさ、あってるかどうか自信ないんだけど。たぶん今日だと思うんだよね」
「だから、なにがだ!」
「俺たちがこっちにきた日」
「――なに?」
 アルハイド大陸から、こちらに来てまた一年が過ぎた。ウルフはそう言っているらしい。思い起こそうとしてサイファはやめた。ウルフがそう言うのならば、それでいい。
「若造。腹立たしいことにお前はサイファにずいぶん愛されているらしい」
 いまだサイファを腕に抱いたままのリィが言う。だからその言葉は途方もなく嘘くさくウルフには聞こえるのだろう。そっぽを向いて答えなかった。
「……だからさ、ちょっとサイファに楽しんで欲しいなって言うかさ。俺一人じゃあんたを楽しませる自信ないから、お師匠様を巻き込もうかなって、さ」
「……巻き込み方が悪い」
「まぁ、そう言うな、可愛い俺のサイファ」
「それ俺の前ではやめてって言ったじゃん。っていうか、サイファ。わかってたんだよな、あんた?」
「悪いか」
「……悪いって言ったら怒るくせに」
「怒られるようなことをするお前が悪い!」
 ウルフとしてはちょっとした悪戯とお祝いがしたかった、と言うところだろう。リィだけはその意図がよくよくわかっている。悪乗りをしたのは自分であってサイファではないはずなのだが。とはいえ、怒鳴りあいに発展した痴話喧嘩に介入するのも馬鹿らしい。
「サイファ、俺のこと好き? 向こうでは一番じゃなくてもいいって言った。でも――」
「うるさい、黙れ!」
「いいよ、だったら黙るから。俺、邪魔だよな。いいよ、どっか行く――」
 はっしと掴まれた手に、ウルフが驚いた。ウルフ以上にサイファが驚いた。
「なにしてるの」
「お前らの喧嘩に口出すのは馬鹿馬鹿しくって嫌なんだがな、可愛いサイファ。後悔するのはお前だぞ?」
 ウルフの腕を掴んだままリィはサイファに向けて微笑みかける。途端にしゅんとしたサイファにウルフはまた腹の中が熱くなるのを覚えた。
「若造。サイファを楽しませたかったら自助努力をしろ。俺を巻き込むとお前が気分悪くなるだけだぞ」
「え? じじょ……? お師匠様、それなに?」
「――サイファ、お前はすごいな」
「ウルフにわかるような言葉で言ってやって」
 師弟が溜息をつき合うのに、ウルフは今度こそリィの腕を振りほどこうとして果たせない。まったく、こんな頑丈な魔術師がいるなど想像したこともなかったものを。
「要するに、だ。若造。いちゃつきたかったら、俺を巻き込むな!」
 今度こそ理解したウルフだが、それでも言葉を返せない。ごそごそと服の裾を掴んで何事かを言いかけてはやめていた。
「ウルフ。言いたいことがあれば言え。察するのも面倒だ」
「……一緒にさ」
「なに?」
「お師匠様と一緒がいいなって。俺一人でもサイファは楽しんでくれると思うけど、でもお師匠様が一緒だともっと楽しいでしょ、サイファ。だから」
 結局のところそこに到達するのか、ウルフは。そう思ったら急にサイファの口許には笑みが浮かぶ。いまだ掴んだままのリィに、ウルフの腕を放させて、代わりにその手を取った。
「間違ってはいない」
「でしょ?」
「だがな、ウルフ」
 リィの腕の中から伸び上がるよう、サイファはウルフに腕を伸ばす。言葉にしない仕種を感じ取り、しかしためらうウルフを再度無言で促した。
「お前の機嫌が悪くなっては、同じだろう?」
 滅多に許さないことをサイファはした。ウルフの機嫌を損ねることの一つ。リィには容易く抱き上げさせるくせに、ウルフには抗うサイファ。いまは易々は抱き上げさせた。
「お前は問うたな。私の心がどこにあるか? 本当に、聞かねばわからないような問いか、それは?」
「……まぁ、わかるんだけど。それでもたまには言って欲しいなって思うのも人間の性ってやつ?」
「聞いた、リィ? あなたはこんなこと私に求めないのに、この馬鹿、どうしたらいい?」
 軽々と抱き上げられ、その腕の中から馬鹿らしそうに草地に寝転んだリィにサイファは笑いかける。
「そりゃ、お前は俺には素直に言うからな。俺のこと好きだろ?」
「もちろん。愛しい私のリィ」
「ほらな?」
 にっと笑ってリィがウルフを見やれば、処置なしとばかりウルフは空を仰いでいた。
「若造。私を小屋につけていけ」
「はいはい」
「返事は――」
「一回だけだよね、俺が悪うございましたー」
「なんだその態度は! リィ、一緒においでよ」
 よもやこの上まだ誘われるとは思ってもいなかったリィは一瞬その言葉の意味を汲み取り損ねた。まだ、遊び足りないだけとすぐに知る。笑って立ち上がればウルフの不満そうな顔。
「この自称、育ち盛りはいつでもお腹すかしてるからね。何か作ってあげる。あなたも食べていけば?」
 きっとウルフは今日の予定をいろいろ考えていたに違いない。リィは知っていたが知らないふりをしとおすことに決めた。
「ま、諦めるんだな、若造。俺を巻き込んだ時点で全ての計画は無駄ってことだ」
 サイファを抱き上げたままうなるウルフの背中をリィは力いっぱい殴りつけた。
「……お師匠様、痛いでしょ」
「軟弱なやつだな。そんなやつに可愛いサイファを預けておけるか。こっちこい。サイファ」
 腕を伸ばせば、よけるウルフ。その腕の中に収まってサイファは笑い続けた。リィには腕を伸ばさず。ウルフの肩に頭を預けたまま、笑い続けていた。




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