いつものよう、三人はリィの小屋の前でくつろいでいた。これがいつも、と言い切れてしまうところにウルフはどことないおかしみを感じている。 この世界にきたばかりのころは、決してリィの小屋に自分がくることをサイファは許さなかった。今ではこうして当たり前のよう過ごしている。 「サイファ?」 リィの隣に腰を下ろしてのんびりと本を読んでいたサイファが不意に顔を上げた。その表情にウルフは訝しさを覚える。 「どうした、可愛いサイファ?」 顔つきの鋭さにリィはもちろん気がついた。なだめるよう髪に手を滑らせれば、首を振って嫌がられた。 「可愛いサイファ。お師匠様が嫌いになったか?」 「いま、そういう冗談を聞く気分じゃないの。ねぇ、リィ。あなた、気がつかないの」 「いや、まぁ……、その。な?」 うろうろと言葉を濁してどこかを見やっては顎先をかくリィに、ウルフは呆れる。よくサイファにあのような態度が取れる、と。が、思ってみれば自分も同じようなものだからあまり笑えなかった。 「あれ――」 ふと気づけば、いつの間にか手が剣を握っている。思わず首をかしげたウルフにサイファが微笑んだ。 「それでいい」 その笑みに、ぱっとウルフの顔がほころぶ。今度呆れるのはリィの番だった。 「ちょっと待て、サイファ」 「待たない。さっさと出てきたら?」 言い放ち、サイファは森の中へと厳しい視線を飛ばした。慌ててウルフは背後を振り返る。不意に人影が現れた。 そのことにむしろウルフはほっとした。自分はこの人物の殺気に知らず反応したのだ、と思えば。それほどきつい目をして現れた人はサイファを睨んでいた。 「サイファ」 目つきを裏切る、柔らかな声だった。ウルフは目を瞬き彼を見やる。半エルフだった。それほど数多くの半エルフを知っているわけではないが、彼が異質だというのはウルフにもわかる。 彼の黒髪は、首の辺りできっぱりと断ち切られていた。細い半エルフの首が風にさらされて、いっそ痛々しいほど白い。半エルフとしては、ありえない形だった。 「もしかして……」 サイファに目をやれば、彼もまた冷たい目をしている。リィはといえば溜息をついてあらぬ方を見やったままだ。それでウルフは気づいた。 「そうだ。サリムだ」 サイファの言葉に息を飲む。わかっていても驚いた。 「若造。なんで知ってる」 リィがどこかを見たまま言う。その視線はサイファを見ようとしないのか、それともサリムから目をそらしているのかウルフにはわからない。 「んー。ちょっとね。サイファから聞いたってところかな」 他にも知っていることはあるのだが、いまのサイファからはそれを話していいものかどうかすら窺えない。おかげでまずい言葉の濁し方になる。 「若造」 隠していることがある、とあっさり見破られた。が、ウルフは肩をすくめて答えない。リィはちらりとサイファを見やり、再び溜息をついた。 「可愛いサイファ。そう喧嘩腰になるなよ」 「ならずにいられるんだったら、方法を教えて。私はあなたからそんなこと習ってない」 「まぁ……教えてはいないわなぁ」 ぽりぽりと顎をかき、リィは困り顔でサリムを見やった。その態度にサイファがかっとする。ウルフが見ても思わず逃げたくなるような怒りだった。 「サイファ。その人間は君のなに」 だがサリムはそんなサイファの態度を意に介してもいないよう、見える。それがウルフには訝しい。彼を見やれば薄く笑ってすらいた。 「これは私のもの」 答えてサイファは言葉を切る。それからわずかばかりウルフに視線を向け、サリムに向き直る。 「私の愛しい者」 そう、あえて言い直した。ふっとウルフの心が温かくなる。わかっていることでも、そうやって口にしてもらえるのは嬉しいことだった。 「そう。だったら――」 「リィは渡さない」 「なぜ」 サリムを遮ってサイファは言葉を叩きつける。厳しい声音にウルフは顔色を変えたけれど、サリムは静かに笑っているだけだった。 「リィは、渡さない。あなた、私に喧嘩売るつもりなの。そうだったら幾らでも相手するけど。どうなの、サリム」 「喧嘩? そうかもしれないね。君にはすでにリィ・ウォーロックより大切なものがある。ならば僕にくれてもいい」 「誰が?」 渡すものか、とサイファは鼻で笑う。あまりにも好戦的なサイファに、ウルフは少しだけ驚いていた。 「お前らなぁ。俺の意思はどーなるんだよ。俺は、ものか?」 「なに、あなた。サリムのものになりたかった? そうだったら言って」 「馬鹿言うなよ、可愛いサイファ」 呆れ声が瞬時に柔らかくなる。するりと髪を撫でた手つきもこの上なく優しい。ウルフは苦笑いをしただけだったけれど、サリムはさっと青ざめた。 「サリム。お前がサイファに敵対するつもりならな、覚えておけ。このリィ・ウォーロックをも敵にまわす、とな。たとえ些細な喧嘩であっても、だ」 「リィ師――」 「サイファに敵対するならば、師と呼ばれる筋合いもなくなったと思え」 きゅっとサリムが唇を噛んだ。ウルフには、彼らのやり取りがわかるようでわからない。実際彼らが共に過ごした年月を自分は知らないのだ、とふと思った。 「お師匠様、ずるいよな」 だからかもしれない、口を挟んでしまったのは。独りぼっちにされるようで、寂しかったのかもしれない。 「なにがだ?」 「師匠と弟子ってさ、言ってみれば親子みたいなもんでしょ。子供の喧嘩に親が出る、普通?」 「親?」 言ってリィが鼻で笑った。その仕種がサイファによく似ていて、ウルフはまた苦笑したくなってしまう。 「誰が親だ。出逢った瞬間から俺はサイファのもの。愛しいサイファの喧嘩なら一枚噛むのは当然だろ」 清々しいほど誇らしげに、実にとんでもないことを言う。ほっと息を抜いたサイファがリィを見やれば、悠然と微笑んでいた。 「で。お前はどうするんだ、若造?」 「なに言ってんのさ、お師匠様。俺はサイファの恋人だよ? サイファにこんなに愛されてんのに、ここで噛まなかったらいつ噛むのさ」 「ちょっとこい、若造……」 「待った、サイファ! いまは殴んないで!」 「だったら口を慎め、馬鹿!」 和やかとは言いかねる言い争いだったが、ウルフがへらへらと笑っているせいで締まらないこと甚だしい。 「人間の戦士ごときに、なにができるものか」 ぽつりとしたサリムの呟き。サイファには悔し紛れにしか聞こえなかった。 「んー、悪いんだけどさ」 ちらりとサリムを見て、ウルフは心底すまなそうに眉を下げる。それから言った。 「俺、魔法切れるんだよね」 「魔法を、切るだと?」 馬鹿馬鹿しいとばかり相手にしないサリムに代わり、尋ねたのはリィだった。ウルフが真実を言っている、とリィは知っていた。サイファの前で愚かな見栄を張るような男ではない。 「うん、切れる」 「どうやって、だ?」 「まぁ、気合と根性?」 「可愛い俺のサイファ……。説明してくれ」 ウルフとの埒のあかない会話に頭痛がしたのかリィが額を押さえる。それに唇をほころばせたサイファだった。 「どうやってるのかは私にもよくわからない。でも切れるのは本当。一度試したけど、最大火力を叩き込んでも切ったよ」 「あれはちょっと死ぬかと思ったけどね」 塔の呪文室での攻防を思い出してウルフは顔を顰める。もっともサイファが自分を殺すようなことはない、とわかってはいたが。 「だからね、サリムさん。サイファと喧嘩するならお師匠様と俺もサイファにつくよ。さすがにちょっと無理じゃない? 俺は喧嘩なんてしたくないし、できれば退いてよ」 二人してウルフがどうやって魔法を切っているのかを話し始めてしまった師弟を放っておいてウルフはサリムへと話しかける。 「気安く呼ぶな、人間」 「元人間だよ。俺はもう人間じゃないらしい。ねぇ、サイファにはお師匠様が要るんだ。サイファは絶対離さないと思うよ」 「なぜ……」 「俺がいるのに?」 「そうだ」 サリムの目に、自分たちはどう見えているのだろう、とウルフは思う。サイファと自分が慈しみあっていることを彼は理解しているらしい。あるいは、自分が気づかなかっただけでずっと見られていたのかもしれない、とウルフは思う。 「それはサイファに聞いて。話す気があるとは思えないけどさ」 「当然だ!」 「お前なぁ。その話すのも嫌って態度、なんとかならんのか」 「なるわけないじゃない。あのころからサリムは嫌い。この期に及んであなたを寄越せだ? いま、もっと嫌いになった!」 「俺はお前のもんだって言ってるだろうに……」 「それはそれ。これはこれ。違うか、ウルフ」 「まぁ、違わないと思うけどね。でもお師匠様が困ってるよ、サイファ」 笑って言えば、ようやくそれに気づいたようサイファがリィを見つめた。するりと腕を絡めてリィの目を覗き込む。 それにサリムが顔色を変えた。ウルフにもぼんやりとわかる。いま彼らは心を繋いでいる。この世界にきて、その方法を得たウルフのような未熟な者であってすら、見ればわかるほどあからさまに。 「あなたは――」 サリムがリィになにを言いたかったのかはついにわからなかった。サリムがそこに存在していることなど忘れてしまった顔で二人は心の中で会話を続けていた。 ぱっとサリムが背をひるがえす。ウルフは追わなかった。あまりにも駆けていった背中が寂しげで。 「可愛いサイファ、お茶にしないか?」 サリムが去っていったのを、視界の端でリィは捉えていた。ゆっくりと精神の指先を解いていく。物足りなそうなサイファの髪をひと撫でした。 「あ、俺も。自分でお茶淹れちゃおうかなー」 名残惜しげに唇を結んでいるサイファを見ては、意地悪をしたくなってしまった。言った途端サイファが跳ね上がる。 「よせ!」 苦い顔をしてウルフを睨み、ついでそっと笑う。それから彼は茶器を取りに小屋へと戻った。 「若造」 なにか話があるのだろうな、とウルフは察していた。そうでなければリィがあのような形で心の会話を終わらせるとは思いがたい。 「ん、なに」 「どうして俺をサリムのところに行かせなかった」 「なに、行きたかったの」 「そうじゃないだろうが」 呆れたような苦笑。リィのその表情もずいぶん見慣れたものだとウルフは思う。 「お前にとって、そのほうが都合がいいだろって言ってんだ」 「お師匠様がいなくなったらサイファを独占できるって? あんたさ、俺を試すのもいい加減にしなよ」 「おい――」 珍しいウルフの言い振りに、リィは目を瞬く。それでようやくずいぶんと無礼なことを言ったのだ、と気づく有様。 「俺は知ってる。お師匠様も知ってるよね。サイファは俺たち二人が揃ってはじめてほんとに幸せなんだ」 「そんなことは……」 「ないって言える? 俺はね、あんまり言いたくないけど、あんたがいなかったころのサイファを知ってる。俺と一緒で幸せって顔してても、どっかで寂しがってた。サイファの中には、あんたでしか埋められない場所がある。俺は、それを知ってる」 塔で暮らした日々。あれはあれで幸福だった。サイファもたぶん、そうだろう。それでもサイファは満たされない顔をしていた。隠しても隠しても心に空洞があった。 「いま、サイファはようやく幸せなんだ。俺はサイファが好きだから、サイファの幸福に傷をつけるようなことはしたくない。お師匠様は?」 リィは答えなかった。問うまでも問われるまでもないことだ。ウルフと二人、顔を見合わせて笑みをかわす。和やか、とは言えなかったけれど、互いに頼もしさは感じていた。 「なんでこんな男がいいかな」 じろりと見据え、呆れ果てたと言わんばかりにリィはウルフに言う。ウルフはにっと笑った。 「俺もそれが知りたいよ」 ウルフは間違わなかった。サイファがいないときにだけ、この男は賢い。リィはにんまりとしてウルフを見る。 ウルフは答えた。サイファがなぜリィを求めるのかわからないと言う問いに。 互いに息を吸い、言葉をぶつける寸前でサイファが小屋から顔を出す。 「リィ、お茶はそっちでするの」 そうしてくれ、とリィは片手を上げるだけで答えた。ウルフがくつくつとそれを笑う。訝しげな顔をして小屋に戻ったサイファのその後の表情を、彼らが見ることはなかった。 二人が揃って楽しげに話している、それがサイファには何よりも嬉しく喜ばしいことだった。 |