サイファの調子がおかしかった。ウルフはそっと彼の表情を窺う。そんな仕種にもサイファは気づかない。
 二人が暮らす異界の小屋。見た目こそは小さなそれの前、サイファは風に吹かれてどこかを見ていた。
「サイファ?」
 声をかけてもぼんやりとしていた。珍しい、を通り越して具合でも悪いのではないかと疑いたくなってくる。
「サイファってば」
 肩に手を置けば、サイファが飛び上がる。驚いて目を丸くした顔。妙にあどけなくて、ウルフのほうこそが驚く。
「どうしたの」
「なにがだ」
「あんた、変だよ」
 どこがだ、とはサイファは問わなかった。だからきっと、本人はどこがおかしいかわかっているのだろう。それを話してくれないことがウルフには少し、悲しい。
「サイファ……」
 この異界にきてからウルフは変わった。サイファに、異種族でもあり魔術師でもある彼の心に手を伸ばすことができるようになった。
 おずおずと心の指先を伸ばせば、拒まれることはない。それでも今日はどことなくよそよそしさを感じる。
「なんか、知られたくないことでもできた、サイファ?」
 からかうように言ってみた。ただの戯れだとサイファにはわかっているだろう。それでも不満そうな響きが心から返ってくる。
「嘘だよ、サイファ」
 くっと笑ってウルフは彼の髪を静かに撫でた。腕に抱けば、身をよじっていやがるくせ、目は閉じて甘い息を吐いている。ウルフは忍び笑いを漏らしてサイファを見つめた。
「サイファ。なにがあったの。言って」
「なにもない」
「あんた、嘘下手だっていつも言ってるでしょ。俺にはわかるよ」
 耳許で囁けば、今度は本気で嫌がられた。情けなくなりつつウルフは彼から手を離す。だが、サイファは微笑んでいた。
「なにもない」
 それでもその表情に、無理が透けて見えている。ウルフはとても信じられなくて、彼をじっと見据えた。
「睨むな」
「そんなことしてないでしょ」
「どこがだ」
「あんた、睨まれてると思うんだったら、それはあんたが悪いんだよ。俺になに隠してるの」
「なにも隠してない!」
「本当に? 喋る気はないんだね?」
 確かめるよう、あえてゆっくり言うウルフに、サイファはむっつりとうなずく。それに肩をすくめて見せたから、きっとウルフは諦めたのだ、サイファはそう思った。
「じゃあいいよ。もう、俺の手には負えないってことだな」
 ウルフの声音に、サイファははっとする。怒らせてしまったか、一瞬はそう思った。すぐに違うと感じた。ウルフは仄かに笑っていた。
「お師匠さまー。ちょっときてー」
 突然、ウルフが大きく声を張り上げた。何事か、と思う間もなかった。目を見開くサイファに向かって、ウルフがにこりと笑った。
「……もう少し、他に呼びようがないのか。お前は」
 声に、驚いてサイファは振り返る。頭を抱え、溜息までついて見せるリィが、そこにいた。彼の転移魔法の素早さにサイファは感嘆の思いを隠さない。
「だって、俺お師匠様がどこにいるのか知らないし。でも呼べば聞こえるんじゃないかなって」
「聞こえはしたがな、若造」
「なに?」
 無邪気な笑顔に、リィは毒気を抜かれたよう、溜息をついた。ちらり、とサイファに目を向ければ、まだ呆気にとられている。
「俺を呼びつけたのは、これか?」
「うん、そう。サイファ、なんか変なんだけど、俺には絶対口割らないから。お師匠様だったら、喋る気になるでしょ」
 優しい目をしてウルフが自分を見ているのに、サイファは目を背けたくなってしまった。意地を張ったせいで、ウルフが嫌な思いをしていなければいい、それだけを思う。
「サイファ、おいで」
 いまだ苦笑の気配を滲ませたまま、リィが腕を差し伸べた。サイファは無言で首を振る。長い髪が彼の心を物語るよう、激しく揺れる。
「お師匠様、サイファどうしたの?」
「うん? ちょっと疲れたんだろ。こっちにきてからずっと気を張りっぱなしだろうからな」
「どうして?」
 リィは、この男を選んだサイファに真剣に同情したくなった。ちらりと目を向ければ、困った笑顔が返ってくるはずだ、いつもならば。だがサイファは聞こえているのかどうかうつむいたままぼんやりとしている。
「お前が心配なんだろうよ」
「俺?」
「こっちは、サイファにとっちゃ過ごしやすい世界だろうがな、若造。人間にはいささか厳しい」
「元・人間だよ。俺、適応早いし」
「……の、ようだな」
 さらりと言うウルフにリィは眉を上げて不本意ながら同意する。サイファがそれに気づいていないはずはなかった。それでもウルフを守りたくなるのは、だから彼に寄せる愛情なのだろう。
 ウルフはそれに気づかないのだろうか。わずかにリィは疑問だった。だが、気づいていて好きなようにさせているのかもしれない、とも思う。
「違うか」
 そこまで考えて何かを決断するような男には、とても見えなかった。
「なにが?」
「なんでもない。で、俺にどうしろって?」
「サイファ。なんとかして」
 物の言い方を教えるべきかもしれない、とリィは遠い子孫に厳しい目を向ける。ウルフは照れたよう笑って、遥かな祖先に肩をすくめて見せた。
「勘がいいんだか悪いんだか、さっぱりわからんな」
「サイファにもよく言われるよ」
「若造。意外と目障りだぞ、お前」
 悪戯半分に言えば、突如としてサイファに生気が蘇る。きつい目をして、リィを睨みあげた。
「怒るなよ、可愛いサイファ。遊んでるだけだって、わかってるだろ?」
「私はね」
「若造もわかってるさ。……たぶんな」
 そこが怪しい、と二人ともが思ったのか、同時にウルフを見る。ウルフはきょとんとして彼らを見ていた。溜息まで、見事に重なる。
「ほら、おいでサイファ。若造のお許しもあるだろ?」
 茶化して言って、リィは嫌がるサイファを腕に抱く。ものともせずに腰を落としては、草地に座り込んで膝の間にサイファを抱える。
「リィ」
「うん?」
「いや。離して」
「だめ。可愛いサイファ。俺はここにいるよ」
 言った途端だった。サイファの体から力が抜ける。唖然とするほど、一切の抵抗がなくなってリィは少し、笑った。
「お師匠様、どうしたの」
「あぁ、寝た」
「寝た!?」
 驚いてウルフは声をあげ、今更ながら慌てて口許を覆う。それからおずおずとリィの腕の中のサイファを見やった。
「ほんとだ。寝てるよ」
 かすかな笑い声にリィは目を瞬く。この状況を目にしているのに、ほっとした声などいったいどこから出てくるのか。
「サイファ、寝れなかったの?」
「寝てなかったのか?」
 意地の悪い問いだとリィは思う。だが、痛むのはウルフではなく自分だともわかっている。ウルフは軽く肩をすくめていた。
「寝てたと思うけどね。俺、サイファがちゃんと寝てるかどうかなんてわかんないよ」
「……見ればわかるだろ、見れば!」
「サイファ、嘘は下手だけど隠し事は物凄くうまいよ」
 意外と真剣な声でウルフは言った。だが声とは裏腹に、目許は柔らかい。リィの腕に抱かれて眠るサイファを穏やかに見つめていた。
 リィは目を開かれる思いでそんなウルフを見ている。意外と、いい男なのかもしれない。不意に思った。認める気には、ならなかったけれど。
「お師匠様、中はいる?」
「いや――」
「やっぱ、外のほうがいっか」
「なぜだ?」
「うん、サイファ。外のほうが好きでしょ」
 あっさり言ってウルフは立ち上がる。なにをする気なのかとリィが見やるうちウルフは小屋へと入っていった。
「可愛いサイファ。お前が選んだ相手が、俺にはどーにもよくわからんよ」
 腕の中、熟睡するサイファは答えなかった。子供の頃のことを思い出す。無理をして、一生懸命になりすぎて、ぱたりと倒れこむようにしてサイファは眠った。
「お前の癖、直ってねぇなぁ」
 何度も言って、改めさせたはずのサイファの癖。それがいまここにきて蘇っている。それもこれもウルフのためだと思えば、わずかに口惜しいような心持がしないでもない。
「お師匠様。風邪ひくといけないからさ」
 ふっと、背が温かくなった。ウルフは小屋から暖かい毛布を持ってきていた。包み込まれてリィの背は温かい。毛布には、サイファと、そして知らない匂い。
「礼を、言っとくか」
「別にいいよ」
「なぁ、若造」
 問いかけるような顔をして無言のままウルフは振り返った。二人の視線がしばし絡む。苦笑と共に外したのは、リィだった。
「お前、嫌じゃないのか」
「なにが?」
「言わなきゃわかんねぇか?」
「あぁ……サイファか。別に?」
 どうやら、本気でわかっていなかったらしいことにリィは頭を抱えたくなってきた。自分の愛しい者が、それも世界の壁を越えるほど思う相手が他人の腕で眠っていて、何も思わないのはおかしいと、彼は思わないのだろうか。
「俺じゃ、いまのサイファの役には立たない。わかるでしょ。サイファは俺に弱いとこ見せたくないんだ」
 自分もそうだ、とウルフは自らにうなずく。リィが見ているかは、気にならなかった。
「サイファが甘えたいのは、あんただよ。お師匠様。俺じゃない」
「おい」
「俺はサイファに愛されてる。あんたもサイファに大事にされてる。わかる?」
 ウルフの口調にある何かが、リィの反論を封じた。黙ってじっと赤毛を見ていた。サイファが眠っているいま、ウルフは同じ男とは思いがたいほど精悍だった。
「いまサイファが欲しかったのは、あんただよ」
 わずかにウルフが体をかがめ、サイファの長い髪を撫でていた。その表情のどこにも苦痛がないことに、リィは驚く。
「俺はね、お師匠様。サイファが幸せなら、ほかのことは全部どうでもいいんだよ」
「……理解はできる」
「でしょ? だったら、わかるよね。俺はサイファに言えないよ」
「なにを、だ」
「俺とあんたと、どっちか選べなんて、お師匠様は言えるの? 俺、絶対言えないからね」
 実にとんでもないことをさらりと言って、ウルフは背を伸ばす。唖然とするリィに軽く手を振り、そのまま立ち去ろうとさえした。
「ちょっと待て!」
「俺は小屋ん中にいるよ。俺がここにいたらサイファ、気が休まらないよ。ゆっくり休ませてあげて」
「おい、お前――」
「最初から気づいてたかなんて、聞かないでね。俺はお馬鹿で鈍いんだからサイファが疲れて眠いのに寝れなくて苛々してたなんて、知らないよ?」
 くっと笑ってウルフは今度こそ背中を返した。リィはゆっくりと息を整えてサイファを見つめる。なにをどう考えたらいいのか、迷って惑って堂々巡り。
「幸せそうな顔して寝やがって」
 腕の中、温かい神人の子が穏やかな寝息を立てていた。舌打ちすらしたい気がしたのに、リィはなぜか困り顔で笑った。そのまま彼の額に唇を寄せる。たとえ見ていたとしてもウルフは黙認する、そんな気がした。




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