サイファはリィの腕の中にいた。遥か昔、子供のころにそうしていたように、それ以上のものを感じさせないリィの腕だった。
「お前なぁ」
 耳許でリィが笑う。どこかくすぐったくなるような彼の声にサイファは笑みを浮かべた。
「なに」
 見上げれば、懐かしい瑠璃色の目。そこにある苦笑の気配にサイファはおかしくなる。彼が考えていることなど、わからないはずがない。
「ちょっとは嫌がれよな」
「どうして?」
「あのなぁ……」
 リィの元を訪れるなり、サイファは実に無造作にその腕の中に飛び込んだ。
 リィが驚く暇もなかった。小屋に入って茶を勧める機会など結局なかった。致し方なく、リィは草の上でサイファを抱いている。無論、不満などどこにもない。青々と茂る草は二人の身じろぎに押し潰されていい香りを放っていた。
 これが、サイファのやり方だとリィにはわかった。これで、すべて水に流してくれた。サイファが感じ続けた苦しみが、なくなるわけではない。それでも、許してくれた、そう感じる。
 だからと言って、腕の中にいる神人の子に心の揺らめきを感じないかと言えば、それもまた嘘だった。
「嫌じゃないのかよ」
「別に? あなたも嫌じゃないでしょ」
「そりゃ、な」
「じゃあ、いいじゃない。なにか問題があるの」
 ないわけがない、とリィは思うのだが口にはしなかった。サイファがそうしていたいと言うのならば、リィに異存はない。
 異存があるだろう男は、いまここにはいない。サイファはリィの小屋を訪れるのに、ウルフを伴ってはいなかった。
「それで、可愛いサイファ?」
「なにが?」
「なんか話があったんじゃないのか? それとも若造と喧嘩でもしたか? それならお師匠様、大歓迎なんだけどなぁ」
 嘯くリィにサイファは声を上げずに笑った。腕の中でくつくつと笑うなど、ウルフが見れば嫉妬の炎に焼き焦がされるのではないか、とリィは思う。
「話はあるけどね。でも、話がなくて喧嘩もしてなくちゃきちゃだめなの」
「だめってことはないが……」
「あなたがなに心配してるかわからなくはないけど。ウルフは私があなたのところにいるの、知ってるからね」
「……言ってきたのか?」
「当然じゃない」
 あまりにもあっさりと言ったサイファにリィは驚く。それをおそらくは許したのだろう、ウルフにも。
 少しばかり自分が情けなくなった。あの若造の度量に、自分はとても敵わない。あんな、たかが小僧に。それでもウルフは、サイファが選んだ男だった。
「それで。話ってなんだ?」
 言った途端、悲鳴が上がった。わざとではなかったのだが、リィの顎には無精ひげがある。昔のよう、摺り寄せればどこか艶めいた悲鳴。それだけがサイファが子供ではないことを語る。
「もう! いやだって言ってるじゃない」
 そればかりは昔のように抗議をし、サイファはその青い目をリィへと向けた。
「あなた、嘘ついたね?」
 するり、とサイファの声がリィの耳へと忍び込む。驚いた、そんな顔を取り繕って彼を見やればあからさまな溜息。
「なんのことだ?」
「わかってるくせに。ウルフのこと」
「若造?」
「あのね、リィ。私、ウルフがあなたの名前だって言ったあれに、聞き覚えがないの」
「嘘つけ」
「本当に」
 そっと体を離してサイファはリィを見つめた。その目が案外真剣で、リィはうっかり見惚れそうになる。
「嘘、は言いすぎかな。でも、ラズリ、はあなたの名前じゃないね?」
「そうでもないぞ」
 何気なく言うリィに、サイファはやっぱり嘘ついた、と小さく呟く。その髪を撫で、リィは密やかに微笑んだ。
「多少、言葉に変化があっただけだ」
「やっぱり。そうじゃないかと思ったの」
「だから、意味は間違ってはいない」
「でも違うんでしょう?」
 音自体は違う、そうサイファは非難した。それが気にかかっていたのか、とリィはいっそ微笑ましくなってしまう。
「人間の言葉はどうしてこんなに簡単に変わっちゃうの」
「簡単ってなぁ……。千年も経ちゃ変わるだろ、普通」
「私たちは変わらないもの」
 ぽつりと言ってサイファはきっぱりと首を振った。そのようなことを言いたいのではない、とばかりに。
「あなたの名前、変化したなら……元はアジュール? 違うかな、アズュールのほうが発音的に正しいかな?」
「そうだな、そっちのほうが正しい」
 リィはまるで弟子の一人にするよう、サイファに微笑む。それが不満だったのだろう、言葉にしない非難が心に突き刺さる。
「サイファ!」
 圧倒的な神人の子の心にリィは押され、思わず声を上げていた。サイファが手を引いたのと同時に彼の心に入り込む。
 互いに精神の指先を交わし、感情を余すところなく伝え合う。その方法がいまだ淫靡だとは気づいていないらしいサイファにリィは苦笑するより他になかった。
「一応ね、私は子供じゃないんだよ、リィ」
 心に忍び入るサイファのおかしそうな声。リィはぎょっとして知らず指先を引き戻しそうになる。それをとどめたのもサイファだった。
「ねぇ、リィ」
 それでもさすがにウルフに気兼ねがするのか、サイファはゆっくりと心を離した。
「あなたの名前。確かに瑠璃色、ではあるよね?」
「うん、意味か?」
「そう。瑠璃色。海の青さの空。だから、瑠璃石でありながら、これの色でもある。違う?」
 そう、サイファはリィの指にある夏空色の石に触れて笑みを浮かべた。リィはかすかな驚きを隠せないまま、そっとうなずく。
「気づいてる、リィ?」
「なにがだ」
「私の名前。あなた、口にしたよね。意味も、わかってるよね」
「お前、俺を誰だと思ってる?」
 悪戯をするようなリィの声にサイファは明るく笑い声を上げた。
「遠い空。海と空のあわいの地。空を映す海の青。手の届かない水底に沈む瑠璃」
 瑠璃、そう言いつつサイファは空を見上げた。幻魔界の空は人間の世界と同じよう、青く輝く。それに喜びを感じるのは神人の子だけではなかった。
「人が、決して手に入れることのできない紺碧の空」
 言葉の裏側にリィは別の意味を滲ませる。サイファは気づかないはずだった。そして間違いをリィは知る。ひっそりと笑ってサイファは本当に、といわんばかりに首をかしげ、それからあっさりと話しを続けた。
「まぁ、そんなような意味だろうね。本当に、人間の言葉っていい加減」
 溜息すらついてサイファは嘆く。ウルフの前ではどうなのだろう、とかすかにリィは疑問に思った。サイファはリィに向かっては言葉の曖昧さを嘆く。だが、彼には。思ったけれど、リィは考えることをやめた。これほど不毛なこともないとばかりに。
 サイファが密かに可能性を残してくれた、それで充分だとリィは思う。あれほどまでに彼を苦しませたと言うのに。
「だからね、リィ」
 そう言ってサイファは自分の指輪に触れた。そこにあるのは、リィが贈った瑠璃石。
「ねぇ、まだわからないの」
「まぁ……わかっちゃ、いるんだがな」
「本当に?」
 くすりと笑ってサイファはリィの目を覗き込む。そして彼の指輪にも触れた。
「サイファ」
 リィの指が伸びては、サイファの瞼に触れる。そこにもある、夏空色に。
「聞こえないの、リィ」
「お前なぁ」
 呆れて見せ、リィは笑った。それから目を閉じたサイファに囁くよう、耳許で彼の名を呼ぶ。
「可愛いサイファ」
 にこりとして目を開いたサイファの青がリィの目に新鮮に飛び込む。はじめてこの色を見つけた、そんな気がした。
「はじめから、私たちは互いの色を持っていた。違う?」
「人間みたいな考え方だな」
「運命なんて、嫌いだけど。でもリィ、仕方ないじゃない」
「なにがだ?」
「だってあなた、人間なんだもの。私があわせてあげたほうが早いじゃない?」
 わずかに顎を上げて、いかにも傲慢そうに言う神人の子をリィは強く抱きしめて大きく笑った。大人になったものだ、心の中で思う。今ならば、なんでも話せる。それがどこか嬉しかった。
「お前、俺が若造にちゃんと名乗んなかったのに怒ってるのか?」
「どうして?」
「だってなぁ。俺はあいつの真の名を知ってるわけだし」
「別にいいんじゃない。ウルフは私の真の名も知らないよ?」
「……それはどうかと思うが」
「どうして。ウルフが知る必要はないもの」
 必要とか、そういうことではない、とはリィは言わなかった。心の中で苦笑するにとどめる。
「可愛いサイファ。お前はこの話を若造にするのか?」
「しないよ。言ってるじゃない。ウルフは知らなくていいの」
「教えてやったほうがいいと思うけどな」
「あなたは、どうなの。教えたいの。私の真の名も含めて」
 問われてリィは息を飲みそうになる。それだけは師としての誇りが許さない。まるでサイファのよう、ゆっくりと呼吸をした。
「言いたかないな」
「でしょう? だから、いいの。ウルフは知らない。私とあなただけの秘密が、一つくらいあってもいいんじゃない?」
 悪戯の相談でも、しているようだった。そのくせサイファの目は真剣だ。リィは飲まれるよう、その目に見入る。
「そうだな」
 確かめるよう言えば、サイファが莞爾とした。気づけばリィの体は動いている。意識するより先に、サイファの頬にくちづけていた。
「お前なぁ」
「なに」
「嫌がる素振りくらいしろよな」
 呆れて言うリィに、サイファは口許を緩めて首をかしげた。そっとリィが触れた頬に手を添える。
「困ったな」
「なにがだ」
「だって、嫌じゃないのに、嫌がるなんて、できないもの」
 とんでもなく困ったことを言いながらサイファは立ち上がる。呆然としたリィが何度も目を瞬いているのを面白そうに見ていた。
「じゃあね、リィ。また遊びに来るから」
「おい」
 呼びかけても、サイファはすでに背を向けたあとだった。ちらりと振り返った彼は、満足そうに笑っていた。
「リィ。私ね、あなたが私の名前覚えててくれたの、本当に嬉しかったの」
 それだけを言って、サイファは今度こそ駆けていった。リィの脳裏に過去が蘇る。軽やかな空精の姿が。そう見えてしまったサイファの肢体が。
「かなわんなぁ」
 その場でリィは仰向けにひっくり返る。空を仰げば、サイファの色。手を掲げて指輪を見やる。そこにもある青に苦笑して、リィは大きく伸びをする。
 そこかしこで幻魔界の生き物たちが忍び笑いをしている。リィは気にも留めずしばらくの間、黙って空を見ていた。




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