こちらにきてどれくらい経っただろうか。風になびくサイファの髪を見て、ようやく落ち着いてきたな、とウルフは思う。
 異界の風は涼やかでとてもここがアルハイド大陸ではないなどとは思えなかった。それでもここは違う世界。二人きりで寄り添って生きていくのだと思っていたはずが、思いがけない人とも出会った。
「まぁ、いいけどさー」
 苦笑混じりに呟けば、サイファが振り返る。その目許に柔らかな笑み。思わずどきりとした。何度となく見ているのに、何度見ても心が弾む。そんな自分がウルフは嬉しい。
「どうした?」
 問われる声も、いつになく優しい。そう思ってウルフはくすりと笑う。
「なんなんだ、お前は」
「んー。なんでもない」
「嘘をつけ」
「だからなんでもないってば!」
 言い張ればきっと。ウルフの想像通りサイファは険悪な顔をする。それにも笑いだしたいウルフだったけれど、必死になってこらえていた。
「ほう、殴られたいか?」
 言ってサイファが拳を振り上げる。へらりと笑ってウルフは甘受する姿勢。それに彼はわずかに唇を尖らせて拳を落とした。
 と、乾いた音。サイファの拳はウルフの掌にぱしりと当たっていた。
「おい」
 不満そうなサイファをウルフは笑う。柔らかな風が二人の間を吹き抜ける。例えようもなくいい気分だった。ウルフは彼の手を包み込み、軽くくちづけてサイファを見つめた。
 以前だったならば照れた罵声が飛んできたことだろう。今のサイファは怒鳴らなかった。それどころが和んだ目をして見つめ返してくれる。
「サイファ」
「なんだ」
「あんた、幸せなんだな」
 言った途端だった。サイファが目をそらしたのは。羞恥ではないそれにウルフはそっと微笑む。
「なにを……急に」
「ん、別に。いまは幸せなんだなと思ったら嬉しくって」
「私は……別に……」
 顔をそむけたままのサイファの手を取り、ウルフは草地に腰を下ろす。甘い緑の匂いがした。
「あんたが俺と塔で暮らしてたときも幸せだったのは知ってるよ、サイファ」
「だったらなんの問題もあるまい」
 ぷい、とこれ以上そらしようもない顔をさらにそむけてサイファは言う。
「うん。でもいまの方が幸せだよね」
「……若造。なにが言いたい」
 その苦々しげな口調にウルフは笑い出す。それからサイファがなにを言い出すより先に彼の髪を撫でた。
「はっきり言ったほうがいい? お師匠様――」
「ウルフ!」
「ちょっと待って……って、痛いじゃんか、もう」
「愚かなことを言うからだ!」
「最後まで聞けって。手が早いんだから」
 叩かれた頬を押さえてウルフは苦笑する。サイファはもう違う場所を見ていた。その彼を背中からそっと抱けば、いやがる気配。それでもサイファ逃げなかった。
「最後までちゃんと聞いてよ? あんたは俺とお師匠様が揃って、幸せなんだなーって思ってたの」
「それで……」
「うん?」
「嫌じゃ……、いや、愚かなことを言ったな、お前が――」
「嫌じゃないよ、ぜんぜん」
「嘘を!」
 ウルフの腕を振りほどき、勢いよく振り返れば、胸が弾んだ。そこには微笑むウルフがいた。ただ、それだけ。それが、こんなにも。
「俺はね、サイファ。あんたが幸せならそれでいい。あんたが不幸になるってわかってて、あんたを独占しようとは思わないよ」
「だが――」
「それでいいんだよ。っていうかね、それでお師匠様とも話ついてるし」
「リィと?」
 いったいいつそんな話しをしたのかとサイファは思う。それ以前に、そんな話しを二人がするとは思ってもいなかった。それにかすかな驚きを感じた。
「まぁ、お師匠様のこともあるんだけどさ」
 言えばサイファの不安そうな顔。こんな顔もあちらでは見ることのなかったものだとウルフは思う。こちらにきてサイファは無防備になった。
 いいことだ、とウルフは思っている。サイファにとって、なによりも誰よりも大切だったリィ・ウォーロック。彼が側に近くにいるというそれだけでサイファにはこの上ない安らぎだろうとウルフは考えている。
 それが自分ではないことにわずかな悔しさを感じはする。が、自分はウルフでリィではない。サイファの心の中で占める場所が違うのだから、それはそれでいいのだと思う。少なくとも、思う努力をしている。内心の思いに苦笑したウルフを見上げ、サイファがまた不安そうな顔をした。
「ん。お師匠様のことはおいといてね、サイファ」
「……なんだ」
「あんた、向こうにいるときは俺と話が通じなくって寂しかったんじゃないの」
 にこりと笑われてサイファは絶句する。言葉がなかった。知らずまじまじとウルフを見上げれば、優しい笑みが返ってきた。
「やっぱそっか」
「ウルフ」
「うん? なんで俺が気づいたか?」
「まさか、リィ――」
「お師匠様がそんなこと言うわけないでしょ、サイファ」
 自分より彼のことはよく知っているはずだとのウルフのほのめかしにサイファはうつむく。己が恥ずかしくなった。
「こっちきてさ、あんたに教わったよね。ここに触るやり方」
 言って指先でウルフは彼の胸元をつつく。いたずらめいたやりように、知らずサイファの唇がほころぶ。
「あんたはって言うか、半エルフはって言った方が正しいのかな。言葉で会話するよりこっちの方が自然なんじゃないの」
「違う」
「サイファ……」
「嘘じゃない」
 言えば、じっとウルフに見つめられた。まるでこの目の中に嘘を見つけだそうとでも言うように。サイファは応えて見つめ返す。見つけられるものならばそうしてみろと言ってやりたい気分だった。
「そっか」
 ウルフの目が和らいだ。それだけで引こうとする。サイファにとってそれは許しがたかった。
「ちょっと待って、サイファ!」
 抵抗するが早いかウルフの頬には赤い跡。思い切りよくつけられた手形にウルフは唇を尖らせた。
「誤解するな。嘘は言っていない」
「でもさ」
「ウルフ」
 そっと心の指先が伸びてきた。いつもサイファのそれはおずおずとして頼りない。これがあのサイファかと思うほどに。
 少しだけ、意識がそれた。その先にはリィがいた。彼とは、どのようにして心を交わすのだろうと思ってしまった。
 途端に突き刺さるなにか。サイファの心の指先に爪でも立てられた気がした。
「……同じだ」
「え?」
「リィも同じ。私には人間の心は脆すぎて、壊しそうでいつも怖い」
「あ……」
 サイファが恐怖を露わにした。それが嬉しいと言えばきっと怒るだろう。だがウルフが感じたのは紛れもなく喜びだった。
「確かに、話が通じなくて困ってはいた」
「困って?」
 からかうよう言えば睨まれた。それが楽しくてたまらない。
「元々人間の言葉はあとから習い覚えたものだから」
 サイファはそれだけを言う。さすがに不正確で曖昧であまりにもいい加減な言語で真意を伝えることなど不可能、とまではウルフには言いかねた。
「そっか、中々ほんとのことは巧く言えないってとこ?」
「そのようなものだな」
 誤魔化した。が、ウルフを見れば見抜かれているのを感じる。アルハイドにいたころには感じにくい思いだった。ほっと息をつく。それからウルフの肩に頭を預けた。
「あんた――」
 言葉を切り、ウルフが体をふるわせた。忍び笑いの気配にサイファは顔を上げる。ウルフは目だけを和ませて笑っていた。
「こっちきて、この方法を俺に教えてくれたのって」
「なんだ!」
「自分がどんだけ俺のこと好きかわかって欲しかったのかなって」
 サイファは身をよじり拳を振り上げ。けれどおろさなかった。ぷいと顔をそむければ背後から柔らかく抱きしめてくる腕。
「半エルフのあんたにとっても普通じゃない方法で――」
「恥ずかしいことを言うな!」
 叫んでサイファは後悔する。溜息まじりに振り返ればウルフの満面の笑み。
「そっか。会話法としては普通じゃなくても――」
「そういうことを口に出すな、愚か者!」
 赤面したサイファが見たいからあえて言ったのだとは、とっくにわかってしまっているだろう。いまだ心は繋いだままなのだから。案の定さらにきつい目をして睨まれた。
「んー、俺。お師匠様に習いに行こうかなぁ」
「なにをだ」
「心の接触の仕方。上手になってサイファを――」
 言葉の途中で、思い切り頬を張られた。驚いて見やればまだ赤い顔をしたサイファ。だからきっと怒られたのではないのだろうとウルフは思う。
「それだけは許さないからな!」
 肩で息をしてサイファは言い放つ。引き結んだ唇も、強張った目許もサイファの心を物語るよう。が、ウルフにはその心が読めなかった。心を繋いでいてさえ。
「サイファ?」
 問いかけた瞬間だった。勢いよくサイファの心に引きずり込まれたのは。あまりにも圧倒的すぎて、太陽に灼かれてでもいるよう。真っ白く焼かれてなにも見えない。
 その中に一瞬の光。これ以上なお光輝くものがあるとしたならば。
「お前は私のものだ! たとえリィにでも触れさせないからな!」
 それはサイファの心。嫉妬と言うよりむしろ宣言。
「大好きだよ、サイファ」
 同じよな閃光めいた心を放つことのできないウルフは言う。口にするしかない。それが切ない。不意に光は収まり、柔らかな雲へと変わる。
「あぁ……」
 言葉にも、ならなかった。サイファの心に包み込まれた充足感。同じものを返してあげたいと切に願う。
「……練習しろ。時間はいくらでもある」
「ん」
 慰めに、わずかばかりの悔しさを。だからウルフは心の指先を伸ばした。つつくよう愛撫する。それから現実の手で彼の髪をするりと撫でた。
「……痛ってぇ!」
 いつの間にか埋めていた彼の髪から顔を上げれば、真っ赤になって唇をわななかせたサイファ。思わずウルフはにんまりとする。それから心構えを。
「お前という男は! なぜそういうことだけ上達が早い! いい加減にしろ、馬鹿!」
 予想通りの怒鳴り声にウルフはにやつきながらサイファをきつく抱きしめる。いい気分だった。とてもいい気分だった。




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