ウルフには、羨ましいと思うことがいくつかある。リィ・ウォーロックを羨んでも仕方ないし何より時間の無駄だとわかってはいるのだが、思うものは仕方ないとも思う。
「いいよなぁ」
 サイファが彼に示す態度の数々。自分に対してサイファは決してあのような甘やかな視線をくれはしない。
 無言で満ち足りた顔をしては彼に寄りかかって本を読む。あるいは膝に甘えて転寝をする。いずれもウルフが知らないサイファだった。
 それが羨ましい。自分とリィとは立場が違う。理性ではわかっているし、サイファに愛されていることもよくよくわかってはいる。
「それでもなぁ」
 少しくらいこの自分に甘えて欲しいと思ってしまうのばかりはどうしようもなかった。
 当のサイファは今日もリィのところにいる。リィはどう思っているのか知らないけれど、彼はきちんとリィのところに行ってくる、と言い置いて出かけていく。
「律儀なんだから」
 くっと笑ってウルフは二人の住み暮らす小屋から外に出る。きらきらと小川が輝いていて、思わず飛び込んでみたくなった。
 ふっとウルフの視線が小川の対岸へと流れた。まだこの世界にきたばかりのころ、悪魔にからかわれたことがある。
「パーン、いる?」
 そのときの使者を務めた小さな魔界の生き物の名を戯れに呼ぶ。いるとは思っていなかった。案の定答えはない。
「やっぱね」
 呟いてウルフは伸びをした。すんなりと伸びた肢体がいかにも健康的だった。とても心のうちに鬱屈を抱えているようには見えない。
 もっとも、鬱屈と言いうるほどのものではないのかもしれない。ウルフにとっては多少の悩み事、もしくは単に思考を弄んでいるだけのこと。
 ウルフは知っていた。リィと同じ場所には立てない、と。同時にリィと言う男のことも少しは知っている。
 リィもまたウルフの場所に立てないことを少しは悩んでいるらしいこと。
「でもなぁ。お師匠様だもんなぁ」
 リィは強い、とウルフは思う。あの強靭な精神力はいったいなにに由来するものかと思う。
「やっぱ、サイファかな」
 彼を一瞬でも苦しめたくない。髪の一筋すら傷つけたくない。その思いが作り上げた強さならば自分にも見習うことが可能だ。
 そう思ったウルフの口許には不敵な笑み。が、それをサイファが望むのかがわからない。ほんのわずかの間に唇は拗ねたように尖っていく。
「お師匠様が二人いたってしょうがないよね」
 自分とリィが同じものになってしまうことをサイファは望んでいないはずだ。違うからこそ、サイファは二人ともが欲しい。
「贅沢」
 ぽつりと言ったウルフの口調に苦さはなかった。むしろサイファの子供じみた態度を喜んででもいるような。
「ま、仕方ないか。サイファが好きだもんな」
 どちらをも選べないサイファ。選ばせる気も二人してない。が、ウルフは悟っている。もしもどちらかを選べと迫れば、サイファはウルフを選ぶだろうことを。
「だからよけい言えないって」
 アルハイドの塔の暮らしを思い出す。幸福そのものの顔をしていながら、サイファはふっとした拍子に遠くを見ていた。
 ウルフが気づかないよう、細心の注意を払って一人きりになっては居間の水鏡にリィの姿を映してぼんやり眺めていたこともあった。
 だからウルフはリィとサイファを引き裂くようなことだけはするまいと思っている。あっさりと決めはしたものの、これで中々強い心が必要な決心だった。
「ま、いっか。鍛錬だと思えば」
 今日もいないサイファを心の奥では寂しく思いつつウルフは小川に歩み寄る。思い切り泳げるほどの深さはないものの、水遊び程度ならば充分だ。
「よし」
 そうと決めてしまえば早かった。服を脱ぎ捨て川に飛び込む。実に美しい男の体だった。シャルマークを旅していたころの少年の面影は、少なくとも体にはなかった。
 どこまでも鍛え上げられつつ、無駄な筋肉の付いていない正に鋼をより上げたかの体をしている。服を着てしまえば背の高さばかりが目立つような体つきのくせ、裸になれば屈強の戦士としか言いようがない。
 軽く泳ぎつつウルフは自分の腕に目をやっていた。リィを思っていた。自分がまぎれもなく戦士ならばリィはなんだ、と。
「信じらんないよな」
 つい、ぼやく。あれが魔術師の肉体かと思う。ウルフも王家の人間だった。市井の人々が知らないような人間を知ってもいる。
 当然、魔術師と呼ばれる人たちも何人かはその目で見ている。だが彼らは一様に外気に当てたらその場で倒れるのではないかと思わせるほど虚弱だった。
 サイファは違った。彼が言うには半エルフだからだ、とのこと。それはそれで納得がいく説明だった、ウルフにとっては。
「お師匠様はなぁ」
 真に信じたくないことだが、彼は自分の祖先の一人。誰の子かもはっきりしている。つまりリィはどこをどう切り取っても人間だ、と言うことだ。
 そのリィがなぜあれほどの体格を持っている、魔術師ながら。それがいささか信じがたい。サイファの師でなければどう見ても戦士としか言いようがなかった。
 一度ならずリィが水浴びをしているところに出くわしたことがあるウルフだったが、魔術師にしておくのはもったいないほど、本気で惚れ惚れするような体だった。
「ずるいよな」
 なにもかもを持っている気がしてしまう。思った途端、リィに叱責された気がした。全部を持っているように見えるリィ。だがたった一つを持っていない。
「そうでもないか」
 サイファはリィと共にあることを望み、ウルフもそれを認めている。認める、など大仰に言うほどのこともない。自分が難色を示せばサイファはこっそりとリィに会いに行くだろう。
 サイファに引け目を感じさせたくなかった。リィがどうこうではない。ウルフはサイファのために快く送り出すだけ。多少の寂しさは、隠せなかったけれど。
 ふとウルフの視線が水面を撫でた。正確にはそこに映る自分の姿に。そっと顎先を指でたどる。
「サイファ?」
 今日のうちには帰ってこないだろう。元々時間の感覚が怪しい半エルフだ。あるいは数日は戻らないかもしれない。いまに始まったことでもない。
「やってみようかな」
 ウルフがリィを羨ましいと思うことの一つ。サイファの甘い悲鳴をウルフは聞くことができない。もっと甘い声ならば、知っている。
「でもなぁ」
 一度あれを聞いてみたかった。わざとやっているとしか思えないリィの無精ひげ。嫌がりつつ、どこか期待しているのではないかと疑いたくなってくるサイファの態度。二人の間にある時間の長さ濃さ。ウルフはリィに頬ずりされて悲鳴を上げるサイファを見るたび、彼らの間に入り込めない自分を感じる。
「よし、決めた」
 絶対に怒るだろうと今からそれはもうよくわかっている。何度か殴られるかもしれないことも覚悟の上だ。
「久しぶりかも」
 こちらの世界にきてからサイファはあまり自分に手を上げることがなくなった、とウルフは思う。それは自分を認めてくれたからかもしれないし、リィがいるからかもしれない。どちらにしてもここ数日というもの殴られた覚えがない。
 心を決めたウルフはにんまりとする。決して殴られたいわけではなかったけれど、サイファとする遊びの一つがないのも寂しさの原因のひとつかもしれない、とふと思った。
 数日後、サイファが機嫌よく小屋に戻ったとき、ウルフは小川のほとりにいた。光が邪魔してウルフの表情がよく見えない。それでも両手を広げて迎えてくれた彼の気持ちを疑うことはしなかった。
「お帰り、サイファ」
 寂しい思いをしているかもしれないと気づいて慌てて戻った割りに、ウルフは上機嫌と言っていいほど朗らかだ。
「いま、戻った」
「うん、お帰り。楽しかった?」
「……あぁ」
「サイファ。俺が気にしてると思ってるなら、間違いだからね」
「おい」
「全然気にしてないよ、サイファ。俺はあんたに愛されてんの知ってるもん」
 喉の奥で笑う声。サイファに言い分がないわけではなかったけれど、素直に腕の中に入り込む。ほっと息をついた。
「でもさ、ちょっとは寂しかったんだよね」
「すまなかった。気がついたら――」
「なんだサイファ、謝ってくれる気があるんだ?」
 すっぽりと腕の中に包み込まれていてウルフの顔が見えなかった。そのぶん、彼が笑っているのが体中に感じられて照れくさくなる。言い返そうとしたとき、ウルフが言葉を繋いだ。
「じゃ、俺のことも許してね?」
 なにをだ、と問う間もなかった。わずかに緩められた腕を感じたなり、ウルフが頬を寄せてきた。くちづけを待ったのは、一瞬のこと。
 ウルフもまたサイファがわずかに唇を開いたのを見ていた。ほんの少し、悪戯はやめにしてそちらに乗ってしまおうか、と思った。だが誘惑は強い。
 頬を寄せれば、柔らかいサイファの肌。すぐさま上がるはずの華やかな悲鳴。いまか今かと待つウルフの耳に届いたのは。
「……なにをしているか!」
 低い声で身を震わせて罵るサイファだった。
「だって」
 がっかりしたのを隠せず言えば、軽くであったけれど頬を殴られる。悔し紛れにもう一度顔を寄せて嫌がるサイファに半ば無理やりくちづけた。
「だから、やめろと言っている!」
「ずるいじゃんか」
「なにがだ!」
「お師匠様にはさ、可愛い悲鳴上げるくせにさー」
「誰が可愛いだ、誰が!」
 言った途端にサイファは後悔する。あっけらかんと言い返されるのを待って身構えた。が、ウルフはそうはしなかった。ゆるりと腕に抱かれる。
「あんたがだよ」
 耳許で囁かれた。思わずぞくりとして離れたくなってしまう。言うまでもなくも嫌悪ではない。ウルフがそれを感じ取ったよう、喉で笑った。
「リィは……」
「うん?」
「こんなこと――」
 しないと言ってもきっとウルフはわかってはくれないだろう。案の定、拗ねた目をして見られてしまった。
「痛いんだ、わかっているのかお前は!」
「だって」
「頬ずりするだけで済むのか、お前は? それだけだったら……まぁ、許してやらないこともないが……」
 急に矛先の鈍った言葉にウルフの表情が歓喜に染まる。突如として明るくなってしまったウルフにサイファはかすかな溜息をついて見せた。
「若造、即刻その無精ひげを剃ってこい。それまでは指一本触れさせん!」
 猛々しく罵った割りに、言っていることはこの上もなく甘い。ウルフはそれで納得した。今更だった。以前からそうだった。サイファは愛情の表現の仕方が物凄く下手だった。
「すぐに、ね」
 わざとらしく耳許に囁きかけてウルフは飛びのく。サイファの拳が空を切り、険悪な眼差しがさらに細められる。それでもウルフは笑っていた。
 サイファが全身で照れて恥ずかしがっていることなど、ウルフにはお見通しだった。




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