暑い日だった。汗の滲んだ体が煩わしくてリィは言う。
「可愛いサイファ。水浴びしないか」
 こんな日だと言うのにぴったりと体を寄せたまま横たわったサイファが物憂げに顔を上げる。起きるのが嫌だとわざとらしくそっぽを向いた横顔に仄かな笑みがあった。
「可愛い俺のサイファ。そんなことしてると抱っこして連れてっちゃうぞ」
「それは嫌」
「だったらこいって」
 まだ拗ねているサイファにかまわずリィは起き上がる。そうすれば必ずサイファはついてくる。リィには確信があった。
 案の定、小屋を出た途端にサイファが駆け寄ってくる。一人にされるのはやはり嫌らしい。昔からのサイファの仕種にリィは密やかに笑った。
 この異界の小屋のそばにも、かつて二人が暮らした小屋の近くにあったよう、泉がある。あのころは、とリィは思い出す。
 サイファは決して肌を見せようとはしなかった。水浴びをするときも一人で、それもリィの目の届かないところでしていたものだ。彼がこだわりなく素肌を見せるようになるのはもう少し後のこと。それも今となっては遠い昔のことだった。
 懐かしい思い出を脳裏に思い浮かべつつ、リィは簡単にまとっただけの衣を脱ぎ捨てる。後ろは振り向かなかった。今でもサイファは脱ぎ着の時だけは多少、気恥ずかしそうな顔をする。それを見るのもよい気分だったけれど、これ以上からかっては本当に機嫌が悪くなってしまう。
「リィ?」
「どうした?」
「笑った気がしたの。どうかした?」
 敏感に気配を察したサイファの質問にリィは笑って答えない。不満そうな声がしたけれど、聞こえないふりをして泉に飛び込めば上がる水飛沫。
「リィ!」
 思い切り飛沫をかぶってしまったのだろう、サイファが声を荒らげる。
「早く来ればいいだろ」
 入ってしまえば一緒だと笑うリィにサイファは唇を尖らせ、それがウルフの仕種に酷似していて苦笑を漏らす。
 彼はどうしているのだろうか。今日は一人で過ごしたい、と言ってウルフはサイファを送り出した。だから一人でこうしてここにきたのだけれど、何か思うところでもあったのだろうかと思えば気が気ではなかった。
「可愛いサイファ」
 言ってリィはわざと水面を叩いた。涼やかな音を立てて上がる飛沫に顔を顰め、その向こうにリィの笑顔を見つける。そうなってはもう不機嫌な顔などしていられなかった。
 するりと着ているものを脱ぎ捨ててサイファもまた泉に足を進める。冷たすぎない水が心地良かった。
 一糸まとわぬサイファの肢体に少しだけリィは眩しそうな顔をする。見られている、と感じはするのだけれど、相手がリィの場合だけ、サイファはあまり気に留めなかった。
「リィ」
「うん?」
「競争」
 口許だけで笑ってサイファは泳ぎだす。慌てて追うリィは、昔のように敵わなかった。何度か追いかけ、追いつき、逃げられる。ついに手が届く、と言う瞬間になってサイファは水に潜った。
「こら!」
 あっと思ったときには遅かった。水中から足を引かれた。慌てて水をかいてもう手遅れだ。頭の上で水が閉じるのを感じ、リィは顔を巡らせる。
 水の中でサイファが笑っていた。ゆらゆらと長い髪がたゆたう様は、まるで髪自体が生きているかのよう。黒髪だけをまとったサイファはこの上なく美しかった。
 が、見惚れすぎて呼吸が苦しい。慌ててもがいてサイファの腕を叩けば、ようやく解放してくれた。
「リィ。苦しかった?」
「まぁな」
「ほんとに?」
 悪戯をする目でサイファが微笑む。リィは苦笑しながらサイファを抱き寄せた。
「お師匠様を困らせるなって。お仕置きするぞ」
「どんな?」
 くすりと笑う。この声音は明らかに、からかっていた。リィが自分にいったいどんな罰を与えることができるのか、と。
「可愛いサイファが嫌がることしちゃおうかなぁ」
 嘯いてリィは口許を引き締める。そうでもしないと笑ってしまいそうだった。それを察したサイファが腕の中で歓声を上げる。楽しいことが待っている、と期待するように。
 だがリィは期待に応えるつもりはなかった。ゆっくりと腕を緩め、サイファの体を見下ろす。凝視されるのはさすがに照れくさいのだろう、サイファが目をそらした瞬間を狙ってリィは彼の鎖骨の辺りをつついた。
「リィ?」
 何度かなぞるようにした触れている指に不審を覚える。見上げればリィの目は笑っているものの、少しばかり不機嫌だった。
「あの若造。締めていいか?」
「リィ! どういうこと。あなた、私に喧嘩売ってるの」
「だってなぁ、可愛い俺のサイファ」
 鼻で笑ってリィは目を細める。サイファに示すよう、もう一度同じ場所を指でつついた。
「目障りなんだよ」
 言われて視線を落としたサイファの頬が見る見るうちに赤くなる。うつむいた顔を上げさせれば、軽く睨まれた。
「あの若造、俺が見るってわかってて付けたな?」
 そこには鮮やかなくちづけの跡。サイファの白い肌にはっきりと浮かび上がっていた。
「そんなことは――」
 ないわけがない。言いよどんだサイファは今朝のウルフを思い出す。一人で遊びに行け、と言っていたウルフを。どこかにんまりと楽しそうな顔をしていたことを。
「物凄く不愉快なんだけどな? 可愛い俺のサイファ」
「だって……」
「うん、なんだ? 言い訳があるなら聞いてやるぞ。可愛い俺のサイファだものな」
「あのね、リィ」
「うん?」
 にこにこと優しい顔をしているからと言って、リィが本気で笑っているとはサイファも思わない。が、逆に本当に怒っているとも思わなかった。
「私はウルフのものでもあるんだけど」
 小さな声でぼそぼそと言うサイファに、リィは口許を緩めた。口にするのが恥ずかしいのだろう、サイファはうつむいて水面ばかりを見ていた。
「しょうがないな。そういうことにしといてやるよ」
 投げやりに言えば、困り顔でサイファが見上げてきた。それにいいことを思いつく。
「サイファ。俺のこと大好きだよな?」
「もちろん」
「だったらちょっとだけ我慢しろよ」
 なにをするのか、と問う間もなかった。リィの詠唱と同時に、くちづけの跡が消え去る。我が身に視線を落としていたサイファが驚く間もなかった。
「リィ?」
「理論的には怪我と一緒だからな。治癒呪文で消える」
「……そんなに目障り?」
「当たり前だろうが」
 わざとらしく真剣に言えば、サイファの顔がほころんだ。それを見てもう一つリィは悪戯をすることにした。
「さぁ、可愛いサイファ。もうちょっと我慢だ」
「え――」
 抱きすくめられた。よける気など最初からないものの、少し驚く。首筋に軽いくちづけ。綺麗に剃り上げられた滑らかな顎がサイファの肌をくすぐる。思わず体をすくめたサイファの鎖骨に、リィはくちづけた。
「あ――」
「ほら、これで目障りじゃなくなった。な?」
 顔を離したリィに促され、そこを見れば新しいくちづけの跡。サイファは心底から呆れた。同じ場所に同じ跡。付けた相手だけが、違う。
「あなたって……」
「うん?」
「子供みたい」
 呆れ声で言うのにリィは声を上げて笑った。嫌がっていないのはわかっている。指先で跡に触れ、サイファは少しばかり困り顔。
「若造に秘密ができたな」
「喋るかもしれないよ」
「お前が?」
 話したければ話せばいい、と言う含みは特に持たせなかった。含ませなくともサイファは己の意思に従うだろう。それならば示唆しようがしまいが同じこと。
「あなた――」
 困るんじゃない、言いかけたサイファが咄嗟に水中に沈んだ。何事か、と振り返る前にリィは事態を察していた。
「見るな、若造。直ちに後ろを向け!」
 泉の中からサイファが怒鳴る。一言も差し挟めぬまま、現れたばかりのウルフは両手を上げて後ろを向いた。
「お前なぁ。可愛いサイファ。そういう言い方はないだろ」
「嫌なものは嫌なの」
「さんざっぱら見られてるだろうが。なにを今更」
 鼻で笑ってリィは水から上がる。ウルフが現れてはこれ以上二人きりで水浴を楽しむわけにもいかない。
「そう言う問題じゃないの!」
 まだぶつぶつと言いながら、それでも水から上がる時期を掴み損ねてサイファは口許まで沈んでいく。赤くなった頬を冷やそうとしている風にも見えた。
「ほら、こいよ」
 手を引けば、渋々と上がってくる。その間も視線はウルフの背中に据えられたまま。まかり間違っても彼が振り返ったりしないよう、視線で押さえつけているかのごとく。
「悪いとこにきちゃったね、ごめん」
 ぽんぽんと、リィがサイファの体から布で水気を拭っている。その物音が聞こえているはずなのにウルフは意に介した様子もなかった。この肝の太さだけは立派だ、と最近のリィは思う。
「悪いと思っているなら、振り返るなよ。絶対に!」
「しないって!」
「どうだかな」
 嘯くサイファの仕種を、ウルフが目にしたならば言うだろう。リィとそっくりだ、と。当のリィは苦笑しながらウルフを威嚇するサイファに衣を着せ掛けていく。
「あ、リィ……」
「うん?」
「ありがとう」
 すっかり身支度を師匠にさせてしまったサイファは照れて微笑む。その笑顔のためならば、身支度ぐらい安いものだとリィは微笑み返した。
「……いいぞ」
 髪の水気を拭いつつ、サイファは不機嫌に言う。やっとのことで射抜く視線から解放されたウルフはほっとした顔で振り返った。
 二人が何事かを言い争っている。リィは苦くはない笑みでそれを見ていた。微笑ましいとも違う。あえて言うならば、勝利宣言。
 あのくちづけの跡が消えるまで、そう長い間ではないだろう。だが、完全に消え去るまでサイファは、指一本たりとも触れさせはしないに違いない。それを思えば、大変に。
「いい気味だ、若造」
 呟いた声は少なくともウルフには聞こえなかった。おそらくは。




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