こちらに来て、どれほど時間が経ったのだろう。時の流れがないわけではないのに、自分は変らない。それが不思議で不可解だ。
 いずれは慣れる、と同じ定命の運命を持っていたウルフは笑って言っていた。それも、おかしいとフェリクスは思う。
 フェリクスがメロールから聞いていた限り、ウルフという男はどう考えても間が抜けていて、知性の欠片も感じない。
 その男に諭される、と言うのがそもそも不快なのかもしれない、とフェリクスは思う。もっとも、事実は事実としてあるのだから現実を見るべきだと思う程度には、フェリクスも理性的ではあったが。
「……気がついた」
 不意にいやなことを思い出してしまった。途端に緊張して体を強張らせたフェリクスの肩を抱いてくる手。
「どうしたの、シェイティ。大丈夫?」
 これも、慣れない。あれほどにも望んだ男がそばにいるのに、いまだにこれが現実だとは思えない。悪夢だとわかっているならば、どれほど気が安らぐことかとまで思ってしまう。
「平気。なんでもな……くはないけど、平気」
「って君がそういう時ってさー、絶対平気じゃないよな。俺を騙そうっていったって無駄なんだからな!」
「別に騙そうとはしてない。たぶん……平気だと思うよってだけ」
「そのたぶんが危ないんだってば。絶対平気じゃないって、知ってるんだからな、俺は」
「……あなたに嘘がつけるとは思ってないよ。ただ、自分ではそう思うってだけ」
 明るいタイラントの笑い声。気安く触れてくる腕。頬に感じる彼の体温。そんなすべてがあまりにも嘘のよう。
 死後に見る夢、と言われたほうがまだ納得が行く。自分が別の世界に、死ぬことのない身となって存在していると言われるよりはよほど。
「シェイティ?」
「ねぇ、あなた。疑問に思ったことないの」
「なにが?」
 きょとんとした顔をしていた、タイラントは。黙っていれば絶世の美男で通るくせに、笑うと途端に人懐こい顔になるタイラント。過去の真珠色の竜を思わせる男。
「だって……こんな風にしてもう一度会えるなんて」
「君は、嬉しくない?」
「そんなわけない」
 むっとして言うフェリクスをタイラントは笑った。再会したときには素直になると決めていたはずが、あっという間に昔の関係に戻ってしまった。それでいいと言ったのも、タイラントだった。
「俺は嬉しいよ。だから、なんでかなんてどうでもいいかなぁ」
「あんまりにも都合がよすぎるんだもの」
「なにが?」
「僕に。あなたに会いたかった。人間全部を滅ぼして、大陸中で殺しまわって、それでも気なんか晴れないってわかってて。それぐらい、もう一度でいい。あなたに会いたかった。だから」
「シェイティ……」
 自分の代わりだとでも言うよう素直に潤んだタイラントの目に、フェリクスはわずかな羨望を感じた。
「君はさ、君でいいんだ。君にできないことをするために俺がいるんだって、思うよ。俺ができないことを君がしてくれるのとおんなじでさ。気休めでもいいじゃん。夢でもいいよ、俺は。君と一緒に見てる夢なのかな。それだったらこんなに幸福なことはないって、思うよ」
 吟遊詩人らしい華やかな言葉にフェリクスは顔をそむけた。恥ずかしくて、とてもタイラントを正視できない。
「それでもこれは現実なんだよね」
「まぁね」
「だったらそうって言いなよ、面倒くさい男だな!」
「だって君は夢だって思いたいんだろ」
「別に思いたいわけじゃない。僕に都合がよすぎるってだけ!」
 まくし立ててはたとフェリクスは黙った。タイラントがにんまりしている。自分が言葉の外側でなにを言ったのか気づいてしまっては、黙るよりなかった。
「そんなことより! 僕はちょっと用事があるの」
「どうしたの? シェイティ」
「ねぇ、あなた。リィ・サイファがどこにいるか、知ってる?」
「知ってるけど……」
「僕はちょっと半エルフに用がある」
「それってメロール師じゃだめなの?」
「メロール師には聞きにくいことがあるんだって察しなよ、馬鹿」
 言い捨てて、フェリクスはさっさと歩き出す。すぐにタイラントがついてくるのはわかっていた。むしろ、期待していた。
 フェリクスの望みどおり、すらりと立ち上がったタイラントはフェリクスを導いて歩き出す。いつの間にか伸びてきた手が、自分の指先に絡みつくのをフェリクスは咎めなかった。
「……別に、いいけど」
「なにが?」
「恥ずかしくないの、あなた。お手々繋いで歩く年でもないんだけど」
「いいじゃん。離れてた時間、けっこう長かったと思わない? 俺は死んだあとのこと、あんまり鮮明に覚えてないし」
「普通は死んだら覚えてない」
「って冷たく言うなよ!」
 からからと笑う声が、異界の森の中に響き渡って、これも幻想めいている、とフェリクスは思う。
 タイラントは死後に残した竜であったときのことをあまり覚えていないと言う。ぼんやりとした感覚的なものだけがあって、記憶とは呼べないとも言った。
 だからあのとき、自分だけではなく彼にとっても再会だった。自らの手で砕いた魂を、いったいどうやって保存したのか、そもそもなぜ幻魔界とやらに来たのかまったくタイラントはわからないと言う。
「なぁ、シェイティ。リィ・サイファになに聞きたいの」
「すぐにわかるでしょ。一々聞かないで。鬱陶しい」
「そうやって君はいつもはぐらかす」
「いいじゃない、意地悪くらいしても」
「悪いなんて言ってないだろ!」
 抗議の叫びに聞こえて、けれどタイラントは笑っていた。まるで死んでいた時間を取り戻そうとでも言うようタイラントはよく笑う。もっとも、生前からよく笑う男ではあったけれど。
「ほら、いたよ」
 可愛らしい小川が流れるそばに、リィ・サイファが暮らす家があった。家と言うには小振りで、むしろ小屋といいたい。その前庭とでも言う場所に、リィ・サイファはいた。
「なんの用だ」
 一見、冷たい声。振り返った表情も、親しげなものとは言えない。ただ、ウルフに言わせればこれが普通の半エルフだとのこと。
 フェリクスの知る神人の子らは彼らなりにあの世界に馴染もうと努力していたのだろう。ずっと早くに旅立ったリィ・サイファよりは警戒心が薄かった。
「用事がなきゃきちゃいけないわけ? まぁ、用事はあるからきたんだけど」
「ならば早く言えばいいだろう」
「ねぇ、リィ・サイファ。あなた、時候の挨拶って言葉、知ってる?」
 傍らで、タイラントがはらはらしながら「その辺にしときなって」などと慌てている。フェリクスとしては軽口のつもりであったし、リィ・サイファも理解している気がする。警戒的な半エルフにしては、目許が和んでいた。
「さて。遥か昔に聞いたことがあった気がしなくもないが?」
「僕もまどろこしい話は苦手だから本題にさっさと入るけどね。ねぇ、リィ・サイファ。聞きたいことがあるの」
「なにを、だ」
 ふと気づく。リィ・サイファのそばにウルフがいなかった。思わず辺りを見回せば、リィ・サイファの視線が小屋へと移る。
「……寝ている」
「ふうん。寝る子は育つって言うけど。あんまり育った風には見えないね」
「背だけは伸びたがな」
 くすくすと笑ったリィ・サイファに、フェリクスは少しばかり驚いた。笑うと馴染みやすくなるのは何もタイラントだけではないらしい。
「あのね、リィ・サイファ。半エルフって言うか、神人の子らって、みんなここに来るの。ここが旅の終着点ってやつなの」
 どことなく緊張したフェリクスの声にタイラントが驚く番だった。たかが、といえば彼は怒るだろう。だが、それをなぜメロールに聞くことができないのかがわからない。そっと握った手は、けれど拒まれることはなくタイラントを安堵させる。
「そうだな、たいていは」
「じゃあ、違うこともあるの?」
「人界で滅びてしまう者も中にはいるらしい。幻魔界ではなく、魔界に行く者も、少数は」
「その基準は」
「滅びるほうは、半ばは本人の意思だろうな。存在をやめたいと願うこともあるだろう。魔界のほうは……そうだな、言ってみれば、メロールに聞いたが、闇エルフと言うのか。闇に落ちた同族は魔界に惹かれることもあるらしい」
 その言葉にフェリクスとタイラントは思い出す。リィ・サイファがアルハイドにいた頃、闇エルフは存在していなかったのだと。彼の時代は彼の時代で大変だっただろう。だが、それでもまだ黄金時代の名残の輝きがあったのではないかと思ってしまう、二人は。
「……とは言え、闇エルフと呼ばれた者もほとんどは幻魔界にくる。なぜか。我が師の言によれば、と言ってもそちらも伝聞らしいがな。魔界と言うのは曖昧さを許さない世界らしい。人界の生き物のように自らの基準が揺り動くようではとても魔界で生きていくことはできないと言う」
「ふうん……そう」
 唇を噛んだフェリクスを、リィ・サイファはどことなく面白そうな顔をして見ていた。それをタイラントが咎める前、フェリクスが口を開く。
「もう一つ質問。ファネルって名前に聞き覚えは?」
 言った途端だった、リィ・サイファの目が丸くなったのは。あまりにもその表情が幼くて、言葉を投げかけたフェリクスのほうが仰け反る羽目になる。
「ちょっと! そんなに驚くことなの」
「驚かないでいられるか! お前、ファネルを知っているのか。彼はまだ、人界にいるのか」
「少なくとも僕が死ぬまではあっちにいたよ。今は知らない」
「まだきていないと言うことは、人界だな。そうか……少し、心配していた。よもやと思うが、アルハイドで滅びたのではないかと」
「仲、よかったの?」
「あぁ、よかった」
「ちょっと。シェイティ。頼むから! 説明、説明! ファネルって、誰?」
「一々妬かないでよ。そんなんじゃない。……むしろ、もっと悪い」
「それって!」
 悲鳴じみた声にリィ・サイファが顔を顰めたけれど、目は笑っていたから不快ではなかっただろう。吟遊詩人の豊かな声量で悲鳴を上げられては、まともな耳をしていればたまったものではない。
「リィ・サイファ」
「了解した。ファネルが知られたくないとわかった場合、この話は内聞にする」
「察しがよくってありがたいよ」
 しみじみ言ってフェリクスはタイラントに思わせぶりな目を向けた。きょとんと首をかしげる彼に、なぜかリィ・サイファは吹き出す。
「……いや、自分がしている苦労が自分だけのものではないと感じるのは中々慰めになるものだと思ってな」
「ねぇ、リィ・サイファ。あなたがウルフをどう思ってるかはどうでもいいけど、僕のタイラントのことを馬鹿にするのはやめてくれる? これで遊んでいいのは僕だけだから」
 言い放ったフェリクスにタイラントが瞬きをした。あからさまに涙を払うしぐさで、吟遊詩人らしい演技だ、とフェリクスは思う。半分以上が本心だとしても。
「あのさ、シェイティー」
「なに」
「その、ファネルって人」
 照れてしまったのだろう、タイラントは。それが嬉しいと思う反面、リィ・サイファに見られたのが悔しい。自分だけのものだとの思いがフェリクスを掠めた。タイラントがはっきりと話題を戻したのをありがたいと感じるほどに。
「あぁ、ファネル? 僕の父親だよ」
 タイラントが硬直して瞬いた。リィ・サイファが呼吸を止めた。ぎこちない動きで首をかしげるものだから、ぎしぎしと音がしそうだとフェリクスは笑いたくなる。
「父親? ファネルが? お前は、ファネルの息子なのか」
「そう言ったと思うけど?」
「信じられん!」
「僕だって信じられないよ。闇エルフが子供を持つことは稀ではないけどね、あなたに言うには刺激的過ぎる生まれ方しかしないからね、僕たちは」
 言葉を濁したにもかかわらずリィ・サイファは引きつったような笑みを浮かべた。それにフェリクスはうなずいて言葉を続ける。
「それに、子供がいるなんて知ってるのはさらに稀。っていうか、子供ができたのを知ってる闇エルフなんて、ファネルくらいしか僕は知らないよ」
「まぁ、そうだよねー。君たちの生まれからすれば、いつできたのかなんかわかったもんじゃないしねー」
「そういうこと。でもそれって口にすること、タイラント? 僕は気にしないけど、リィ・サイファが固まってる」
「え? あ。すいません!」
 相手が純真無垢を固めたような半エルフだとようやく思い出したのだろう、タイラントは真っ赤になって頭を下げた。
「なんていうか、メロール師なんかよりずっと純って言うか。うっかり、です。その」
「……なにを言いたいかよくわからないが、謝意は理解した。気にしなくていい」
 頬の辺りをこすってリィ・サイファが言う。だからフェリクスもタイラントも理解した。彼はおそらくほとんど闇エルフの子の生まれ方を理解していないと。
「……それでか、先ほどの質問は。父親に再会できるか、気がかりか?」
「まさか!」
 タイラントの悲鳴がまだ耳に残るうち、リィ・サイファは今度はフェリクスの悲鳴を聞く羽目になった。
「誰が会いたいものか! そうだね、別に会いたくなくはない。むしろ、もう一度話したいな、と思わなくはないよ」
「シェイティってば照れ屋さんー」
「ねぇ、タイラント。ここって、死なないんだよね。いっぺん痛い目にあってみる?」
「ちょっと、やめてよ! 痛いことはいやだよ、俺! って言ってるそばから痛い痛い痛いってばー!」
 思い切り頬を摘んでねじ上げただけなのだが、それにしては派手な悲鳴だった。リィ・サイファもじゃれているだけだと気づいたのだろう。一瞬は止めに入ろうとしたようだが、馬鹿馬鹿しげに長い溜息をつく。
「だったら、なんなんだ、お前の用事と言うのは」
「だから、ファネルがここにくるのか聞きたかったの。僕にも覚悟がいるじゃない」
「なんの、だ。なんの!」
「僕、うっかりしてたんだよね。死期は悟ってたし、もう余命幾許もないっていうか、時間の問題だってわかってたし。一応、もう一度闇に叩き落したくはないなって思う程度には、仲、よかったんだよね、ファネルと」
「だからなんだ、さっさと言わないか!」
 苛立たしげにリィ・サイファが怒鳴った。出会ったときから感じていたリィ・サイファへの隔意が、いつの間にか消えているのをフェリクスは知った。話してみれば悪い人ではない、などとあまりにも陳腐で笑うしかない。
 ファネルとも話すうちに打ち解けていった、それを思い出した途端にフェリクスは口をつぐみ、視線をさまよわせる。
「最後にさ……僕が死ぬとこ見ちゃったら、ファネル。絶対に絶望したんだよ。そんなこと、わかりきってた。死なないファネルが、死ぬ定めの僕を希望って言い切ってたんだから」
「君は、どうしたの?」
 優しい声にフェリクスは正気づく。こうしていつもどこかに行きがちな自分を引き戻してくれていた。不意に思い出してフェリクスは微笑んだ。これが悪夢でも都合のいい死後の夢でもない、そう理解したのはあるいはこの瞬間だったかもしれない。
「僕は、あなたの欠片だったドラゴンと一緒に旅に出ようと思ってたんだ。結局ファネルに付きまとわれて果たせなかったんだけど。ファネルにしたら僕が心配でしたことなんだよ、それはわかってる」
「君って意外なところで意外と優しいからなー」
「それってどういう意味? 別にいいけど。僕としては最後のつもりでファネルと喋ったの。お互いがどういう関係か、知ってはいたけど、口にしたことはなかったんだよ、それまで」
「なるほど。そういうことか」
「わかった、リィ・サイファ?」
「まぁな」
「そう言うわけ。僕はファネルをうっかり口滑らせて……ってわけでもないけど、二度と会わないんだからいいかって思ってついお父さんなんて呼んじゃった。それなのにファネルがこっちくる? 冗談じゃないよ!」
 怒りのやり場がないとでも言いたげにフェリクスは立ち上がって腕を振り回す。呆れ顔のリィ・サイファがタイラントを見やった。
「解説、できるか?」
「そんなもん要らないくらいはっきりしてるじゃないですか! シェイティってば照れてるんです。それだけのことだよな? シェイティ!」
「うるさい!」
 叩きつけるように言って、礼も言わないどころか振り返りもせずフェリクスはその場を後にした。苦笑したタイラントが代わりにリィ・サイファに何事かを述べているのを背中で聞く。
「今更、どんな顔して会えって言うのさ。もう」
 文句をたれる自分の声が笑っているのをフェリクスは懐かしく聞いていた。すべての感情が凍りついていたあのころ。笑うところなど、ファネルは一度として見たことがなかった。今度は、自分の笑顔を見せることができるだろうか。
「まったく。ほんと今更。この期に及んでお父さんもへったくれもないじゃない」
 言いつつ吹き出し、フェリクスは足を止める。駆け寄ってくるタイラントの足音が聞こえていた。このまま待っているより、隠れてしまおうか。
 一瞬だけそう思い、けれどフェリクスは動かなかった。タイラントをじっと待つ。こんな風にするのも悪くない気分だった。
 彼を追い続けていたころがある。彼から逃げ続けていたころがある。それを思えば、彼を待つのも、楽しい。
「楽しいよ、とってもね」
 二度と笑うことはないと思っていた自分。風が光となって視界に飛び込んできた気分だった。駆け寄ってきたタイラントが朗らかな笑い声を上げ、冗談のようにきつく抱きしめてくる。彼の体を抱き返しながらフェリクスはゆっくりとこの現実を吸い込んでいった。




トップへ