サイファたちのところに、メロールとアルディアが茶を飲みに来ていた。ついでとばかりリィまでいる。いつもの日の、いつもの様子。ふとメロールが言葉を止め、空を見上げる。
「どうした?」
 友人のただならぬ顔色にサイファが訝しげな顔をした。何かできることがあるのならば。声の調子には多分にそんな思いがこめられていて、そっとウルフは微笑む。
「知り人が……」
 空を見つつ、まだ青ざめているメロールだった。その心にアルディアが触れたのをサイファは感じる。そして彼まで青くなっていく。
「知り人? それってあっちで知り合いだった人ってことだよね、メロール。半エルフの友達?」
 ウルフが言えばリィが嫌な顔をした。今でも彼は半エルフ、と聞くと不快になるらしい。サイファは長く呼ばれているだけあって気に留めたこともないというのに。
「……友達、ではなくて、弟子の弟子の、弟子? とはいえ、友人、でもあるかな」
 言いつつメロールが立ち上がった。アルディアがその背を支えようとしたのに、彼は黙って首を振る。
「壊れてるから」
「え? メロール。それってどういうこと?」
「君と、同じく彼も人間だった。あれは、世界の歌い手の魂。なにがあったんだろう……、あんな、木端微塵に壊れて。あの子は、どうしてるんだろう……」
 呟くメロールの瞼が湿っていく。涙すらこぼれそうなのは、過ごした時間のせいか。だがサイファが立ち上がった。メロールの涙さえも見えていないと言いたげに。
「メロール。世界の歌い手、と言ったな?」
「えぇ……彼は」
「壊れている? 直せる。問題は……なくはないが、なんとかなる。行くぞ」
「待ってください、サイファ!」
「待たん。お前が来なければ見分けがつかん。来ないのか?」
 多少冗談めいた口調にサイファの焦りを見た気がした。咄嗟にメロールは彼に従ってしまう。この年長の友にはいつも敵わない。そう思えることが嬉しくもある。
「ウルフ。お前は留守番だ」
「はいはい。じゃあ、アルディア借りていい、メロール?」
 ちらりとアルディアがメロールを見上げた。座ったまま微笑む彼にメロールはすまなそうに眼差しを下げる。
「いいみたいだ。だったら俺はウルフと遊んでる。気にしないで、メル」
 ウルフとメロール双方に言ってアルディアは笑っていた。その間にもサイファは焦れていた。このまま放っておいては自分が怒られそうだ、とメロールは早々に出発する。
「で。あいつは何を探しに行ったんだ?」
 黙って眺めていたリィだった。それをちらりとウルフが見やる。その精悍とも言える表情がいつもアルディアはおかしい。サイファがいるときには決して見せないウルフの顔。それでもサイファは知っている、そんな気がした。
「わかってるでしょ、お師匠様。サイファがああいう顔するときって」
「俺のこと考えてる時だよなぁ。どうだ、若僧、妬けるか?」
「別に?」
 にんまりとするリィに飄々としたウルフ。どことなく頭痛がする気がしてアルディアは懐かしくなる。ラクルーサの王宮でよく感じた頭痛だった。
「世界の歌い手って言ってたな?」
 アルディアに問えば、若い神人の子がうなずく。それからどう説明しようかと考えるよう首をかしげた。
「不思議だったんですが。あなたは俺よりずっと昔から生きていたんですよね」
「昔に生きていた、であって昔から生きていた、ではないぞ?」
 同じことだと肩をすくめる神人の子。まったく違うとわかっている人間がウルフである、というのがリィにはいささか忌々しい。
「まぁ、とりあえず昔がどうした?」
「世界の歌い手は、昔からいたものですから。どうしてあなたにわからないんだろうと思って」
「わからなくはないぞ。名前を聞いたことはある。直接歌を聞いたことがないだけだ」
「そう、なんですか?」
「俺は基本、魔法の研究をしていたわけだからな。そうそう出歩いてるわけでもない。そもそも塔自体が人里離れたところにあったせいもある」
 吟遊詩人などが訪れる土地ではなかったのだ、とリィは笑う。アルディアはその答えになぜか黙ってしまった。アルハイドの土地のあれこれを思い出していたのかもしれない。
「アルディア?」
 世界の歌い手がなんだと言うのか。問いかけようとしたリィに、ウルフがにんまりとした。時々この遠い先祖と子孫はよく似た顔をする、とアルディアは思う。
「わかってないな、お師匠様。サイファはね、絶対言わない。いま探しに行ったのが誰であるにしろ、あんたに聞かせられるようになるまで、絶対口は割らない」
「だから?」
「割らないからわかることがあるって言ってるの。わかってる、お師匠様? サイファがずっと祈ってたこと。あんたにわからないはずがないと思うんだけどな」
 言われてもリィには見当がつかなかった。そしてウルフが理解している、というのがまた腹立たしい。それをウルフが小さく笑う。
「あんたとサイファの距離ってやつかな。あんたはサイファに近すぎるから、サイファの願いがわからない」
「お前は遠いからわかるってか? そりゃご愁傷さまってやつだな」
「苛々しないでよ、お師匠様。俺にあたったってしょうがないでしょ。サイファはあんたが育てたんだ。あんたの言動を追うように生きてきたんだ。だからあんたがそれを理解できるってことは、自分を完璧に理解してるってことじゃん。そんな人間いるもんか」
 からからと笑いながら言うウルフに、もうアルディアも慣れたはずだった。はず、なのだが。
「時々、君のことがわからなくなるよ、ウルフ」
「俺はサイファのお馬鹿なウルフでいたいだけ。そっちのほうがサイファ、好きだからね。でもそれだとお師匠様と話が通じなくってね」
 それだけではない、と匂わせはするものの、さすがにアルディアにそこから先を察することはできなかった。
「で。若造。話が途中だ」
「睨むなって。だからね、サイファだよ。サイファがずっと欲しかったもの。わかる? あんたを喜ばせたかった……違うな、あんたと一緒に喜びたかった。なんだか、わかるでしょ、もう」
「……夜明けを寿ぐ歓喜の歌」
「そう、世界の歌だ。世界の歌い手って呼ばれる吟遊詩人は、あっちの世界を歌うんだってね? 俺は伝説だと思ってたけど、実際いるみたいだし。メロールの友達だっていうなら、確実だよね。その人がこっちにきたんだったら、あんたにその歌を聞かせられるかもしれない。サイファはだから、探しに行った。簡単なことだよ」
 リィは拳を握った。もうどれほど昔のことなのだろう、サイファに聞こえ、自分には聞こえない歌があると知ったのは。聞かせたいと言ったサイファ。口ずさんで、聞かせようと努力してくれたサイファ。幼い神人の子のあの眼差し。
「あんたは、それだけサイファに愛されてる」
 まるでサイファの声に聞こえてリィは驚く。まじまじと見やるまでもなくウルフだ。それも穏やかに微笑むウルフだ。
「――お前は」
「俺? そんな風に聞かせたいって言われたことはないな。たぶん、サイファも考えたことないと思うよ」
「どうして? だって、君とサイファは――」
 愕然と声を上げたアルディアにもウルフは微笑む。心配させてごめんね、とでも言うように。
「サイファはね、俺と会ったときにはもう大人だった。できること、できないこと。祈っても願っても叶わないことがあるって知っちゃった、大人だった。わかる?」
 どれほど身を揉みしだこうとも、叶わない願い。愛する人に聞かせたい歌がある。ただそれだけなのに、異種族の自分たちにはたったそれだけが遠い希望。だからサイファはもう、祈らなかった、ウルフのためには。
「サイファが向こうでね、ぶっきらぼうで意地っ張りで頑固だったのはね、アルディア。俺が人間だからだよ、サイファが半エルフだからだよ」
 どういうことかわかるか、とでも言うようウルフが半エルフの澄んだ青い目を覗き込む。リィは遠く、サイファが去って行ったほうを見ていた。
「俺たちは、言葉が通じない」
 ウルフのその言葉にアルディアははっとする。かつてあちらの世界にいたころ、ウルフが誘拐されたことがあった。そのときサイファはどうしていたか。救出方法を探るサイファはメロールに自分たちの言語で話しかけていたではないか。
「わかったみたいだね。サイファは俺たちの言葉がいい加減だと思ってるみたい。お師匠様、そんなこと言われたことない?」
「あるが、お前に言ったことねぇのか、あいつは」
「ないよ。たぶん、お師匠様に言ったから俺には言わないんじゃないかな。わかってること言って確かめるのってがっかりするじゃん」
「まぁな。……慣れちゃいるが、お前のその鋭さが時々俺は空恐ろしくなるぜ」
「その辺は血だと思って諦めなよ。俺のせいじゃない」
「俺のせいか?」
 先祖が嫌な顔をするのに子孫はからりと笑っただけだった。ちらりとリィも笑ったから、たぶんそれはこの二人の間では冗談なのだろう。ふっとウルフが笑う。
「ほんと、あんたサイファに愛されてるわ」
「妬けよ、たまには」
「俺も愛されてるし? あんた相手に妬いても不毛だろ」
「俺はお前が憎たらしくなるぜ? 消えろよ、俺とサイファの間に勝手に入ってきやがって」
「死んだあんたが悪い」
 にやりと笑いあう二人にアルディアははらはらとした。そしてこれも冗談だと気づく。
「人間の冗談はきわどすぎて、時々ついて行けなくなるよ、ウルフ」
 溜息まじりのアルディアにウルフは笑った。笑って詫びて立ち上がる。
「サイファ、戻ってくるのにどれくらいかかるのかな。あの調子じゃ、時間忘れて探すだろうし。それまで、相手してよ、アルディア」
 剣を抜き、構えるウルフにアルディアは笑って立ち上がろうとする。シリル仕込みのアルディアの剣は、ウルフにとって懐かしい剣。
「お前らな、俺が暇だろうが」
「だったら混ざる、お師匠様?」
「俺に剣を握れって? 馬鹿言うんじゃねぇよ」
「どっから見ても剣士の体してるくせに」
「ウルフ! 君は……そんな……だから!」
 うろたえたアルディアに、ウルフが呆気にとられた。無論、リィも。立ち直ったのはウルフが先。にやりと笑う。
「別にどこで見たって言ってないでしょ、アルディア」
「まぁ、どこで見たわけだがな」
 ぼそりと言うリィにアルディアが真っ赤になってはおろおろと腰を浮かす。そしてウルフの目が閃いてリィに剣を向けた。
「友達の敵討ち、しちゃおうかなー。さぁ、お師匠様。怪我したくなかったらかかってきなよ」
「俺が怪我? やれるもんならやってみな」
 魔法と剣とで立ち合いだした人間二人に置いていかれたアルディアはまだ赤い頬をさすって草の上に座り込み、どうやらからかわれたらしい、と気づく。
「メル、頼むから早く帰ってきてよ」
 アルディアの嘆願めいた呟きは人間たちには聞こえていない。そしてアルディアの願いもまた、裏切られることになる。サイファとメロールは長いこと戻らなかった。




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