特に用もないのに、なぜかリィ・サイファの小屋のあたりには人が集まる。住んでいる彼ら自身にその師であるリィ・ウォーロック。ここまではいい、とフェリクスは思う。
「でも、なんでなの」
 メロールにアルディア、それにどういうわけか自分たち。用事がないのに、と言うよりは用がないからこそここに茶を飲みにきてしまう。
「どうしたの、シェイティ。なんかあった?」
 リィ・サイファが師匠に淹れさせた香り高い茶をタイラントは機嫌よく飲んでいる。ちなみに茶菓子もリィ・ウォーロック手製だ。
「別に。なんにもないのになんで僕らはここにいるのかと思っただけ」
「それって、変? きちゃいけないのかなぁ。あんまり気にしたことなかったけど。リィ・サイファ、邪魔でした?」
 問えば笑って半エルフは邪魔ではないと言った。実のところ、そのリィ・サイファがフェリクスには不思議だった。
 彼の傍らにはウルフがいる。人間であることを捨てさせて、自らの同族から引き剥がしてまで自分のものにしたかった恋人。それが笑ってそばにいる。
 それなのにリィ・サイファは、あろうことかリィ・ウォーロックの腕の中にいる。この数十年で見慣れてしまったはずなのだが、いまだに違和感は付きまとう。
 リィ・サイファとその師と、ウルフと。三人並んで仲良くしているところなど、フェリクスには眩暈以外の何ものでもない。メロールが何事もないようにしていることのほうがおかしいと思う。もっとも、神人の子の性質を考えれば、聞くに聞けないことでもあった。
「お前はリィの菓子が目当てなんだろう? 珍しいことでもないが」
 自らも菓子を齧りながらリィ・サイファが言う。その顔を覗き込むようにしてリィ・ウォーロックが尋ねていた、旨いか、と。そちらに笑みを返す神人の子にタイラントはうなずく。
「すごい旨いですもん。まぁ、俺に食べさせたいんじゃないんだろうなぁ、と言う見当はとっくについてますけど。でも、珍しくないってなんでです?」
 それににっとリィ・ウォーロックが笑った。銀髪の男同士が見合うけれど、フェリクスの目にはまるで違う色に見える。タイラントの髪のほうがずっと綺麗だ、思った途端に知らずうつむく。
「お前らなんざ、ついでだついで。俺の可愛いサイファに食べさせようと思って作ってるもんを片っ端から食ってくのは誰だ」
「んー、俺も恩恵にあずかってるわけだけどさ。ほんと旨いよね。あ、それちょうだい」
「まだ食う気か。……育ち盛りなどと言う戯言は聞かん!」
 フェリクスは少し頭痛を感じる。三人が仲良く――たぶん――言葉を交わしているのを見ると、少しだけメロールの気持ちがわかる気がする。ちらりと視線を向ければ案の定メロールは頬を染めてそっぽを向いていた。
「疲れちゃった、シェイティ?」
 そっと背中に添えられるタイラントの手。思わずはっとして彼を見やった。普段の華やかな吟遊詩人の声ではない。タイラントの、ごく当たり前の彼の声。
「……別に」
 どれほど長い年月を彼とともに重ねようとも、慣れない。タイラントが自分の傍らにいる驚異。こんな自分を愛しげに見つめてくれる驚き。慣れるわけがない、そう思う。
「うん、そっか。なんでもないんならいいんだ」
 この大嘘つき、フェリクスは心の中でタイラントを罵る。なんともないなど、思ってもいないはずだった、彼は。
「まぁ、その辺はあとでって言うか、人前で話すことでもないかなぁって言うか。どうせ雪崩れ込んじゃうから、二人きりのほうが絶対都合がいいよなぁ、とか思うわけで」
「ちょっと、それどういう意味? 雪崩れ込むってなにがさ! あなた、本当に考えなしだよね。生きてるときからそうだったけど。ここに誰がいるの。よく神人の子がごろごろしてるとこでそんなこと言えるよね、見なよ。とんでもないことになってるから」
 畳み掛けたフェリクスの言葉に、慌ててタイラントが左右を見回す。リィ・サイファをはじめ、迂闊にも理解してしまった神人の子らが真っ赤になっていた。
「あの! その、えーと!」
「言い訳は無用!」
 珍しくメロールに怒鳴られたタイラントがしゅんとうつむく。吟遊詩人の演技だとフェリクスは見抜いている。
「ごめんなさい」
 殊勝げに謝ったのも、半分以上は演技だろう。何しろこちらにきて以来、何度となく繰り返してきた他愛ない会話なのだから。
 いつもの戯れの続きしようとフェリクスが長い溜息をつきかけたそのとき、ひくりと彼は止まった。神人の子らの顔色が平静に戻る。ウルフが自然に腰の剣に手をやっていた。
「誰だ」
 問うたのはリィ・サイファ。師の腕の中から抜け出して、いつでも魔法を放つ余裕の体勢。全員が、彼が見つめた先に視線を向けていた。誰が何を言うでもなく。長閑な茶会など、寸時に消えた。瞬きの間に全員が立ち上がっている。
 すごいものだとフェリクスは思う。自分もアルハイド大陸有数の魔術師であった。が、あの当時、あの時代のみのことであった、とフェリクスは思う。ここにリィ・サイファがいる。その師がいる。シャルマークの英雄、ウルフがいる。空恐ろしいような気が、ふとした。
 一瞬の間の後、草を踏み、枯葉を踏みしだく音がした。リィ・サイファは眉を寄せる。わざと立てている音に聞こえていた。
 そしてそれは間違いではない。現れたのは、見かけぬ神人の子。ならば物音など立てるはずがない。立てたならば、それは意図したもの。
「お前は……」
 すっとリィ・サイファの殺気が消える。ついで彼に近しい者の。それからメロールたちにタイラント。最後まで、フェリクスは警戒を続けていた。
「お前――」
 問われたものは、リィ・サイファを見もしなかった。彼が見ていたのはただ一人。
「フェリクス……!」
 驚きと、歓喜。走り寄りこそしなかったものの、そうしかねない勢いでフェリクスの腕を取る。嘘だろう、とまじまじ彼の顔を覗き込む。
「やぁ、ファネル。久しぶりだね」
 少しばかり顔を顰めたのは、取られた腕が痛いせい。振りほどけばファネルが傷つきそうな気がしてフェリクスはそっと身をよじる。
 悪戯っけもたっぷりにファネルの首に腕を投げかけ、そしてフェリクスは笑った。
「どうしたの、そんな驚いた顔して。いつかどこか、思いがけないところで会うかもねって言ったじゃない。信じてなかった? まぁ、僕も信じてなかったけどね」
「お前……」
「だから、何? 僕はとりあえず生きてはいるんだろうし、けっこう元気だけど? おかしいよね、死んだ自覚はあるんだけど」
「顔を見せろ」
「見てるじゃない。ちょっと、ファネル! 人の話聞いて――」
 悲鳴じみた声が途中で止まる。ファネルは両手でフェリクスの頬を包み込み、いまだ信じられないとばかり首を振っていた。
「……笑っていた」
「そりゃ、笑うよ。僕だって」
「だが」
「どうして笑えるか? そんなこと聞かなきゃわかんないほど間抜けだったっけ?」
 タイラントは気が気ではなかった。どういう関係かすでに聞いていなかったならば疑ったことだろう。それも、思い切り。そんなタイラントにファネルの目が向いた。
「……そこにいたか、ろくでなし」
「ちょっと、ファネル!」
「違ったか? 貴様が世界の歌い手ではないのか?」
 なぜか思わず涙目になってタイラントはこくこくとうなずく。あとから怖かったのだ、とわかった。ファネルの表情は獰猛そのものと言ってよかった。
「うちの息子が世話になったそうだな、世界の歌い手。貴様はさんざんこれを泣かせたそうだが? 釈明があるなら承ろう」
「ファネル! ちょっと、いい加減にしてよ、別に釈明なんかしなくていいからね、タイラント。と言うより、黙ってろ。喋るな。あなたが喋るとぼろが出る!」
「それは出るようなぼろがある、と言うことだろう?」
 実ににこやかにファネルは言った。それからきつくフェリクスを抱きしめる。色めいたものではなかった。が、思わず目をそらしたくなるものでもあった。
「だから、ファネル!」
 悲鳴を気にも留めず、ファネルは高らかに笑った。小柄なフェリクスを両手で抱き上げる。まるで、幼子にするように。
「お前が、笑っている。こんなに嬉しいことはない。私の希望は潰えていなかった」
「まだそんなこと言ってる。もう、下ろしてよ。子供じゃないんだから」
「なにを言っている。お前がどれほど年を重ねようと我が息子であることに違いはない。お前は私の子供だろう?」
「ねぇ、ファネル。あなた、性格変わってない?」
「生憎こちらが本性だ」
「最悪だね」
 言って離す気のないファネルの腕からフェリクスは飛び降りる。それでも彼は笑っていた。
「タイラント、前に話したよね。これが僕のお父さんってやつ? 今更父親呼ばわりって言うのも……」
「……嫌だったか」
「あのね、ファネル。一々僕の言葉で落ち込むのはやめて。そんな面倒くさいのはタイラント一人で充分なの。手に余る」
 顔を顰めたフェリクスに、ようやく場が和んだ。あまりのことに全員が呆気にとられて強張ったままだった。やっとのことで呼吸を思い出したような面々にフェリクスは目を向ける。
「リィ・サイファは知ってるよね。幼馴染だったんだって言ってたよね?」
「あぁ、そうだ。懐かしい顔に会うものだ。我々にとっても長い時間が過ぎたからな」
「そうだね、ファネル。本当に久しぶりだ」
 にっと笑ってリィ・サイファが横を向く。師に幼馴染を紹介しようとしたのだろう。その目が訝しそうな色を宿した。
「リィ・ウォーロック。久しぶりだな。死んだはずではなかったのか。実に意外だ」
「……お前なぁ。こいつのこの顔を見て、なんでそれをここで言うかな? ちょっと考えて言ってくれ」
「ねぇ、私のリィ。あなた、もしかしてこの期に及んでこの私に隠し事をしていたなんてことは、ないよね?」
 タイラントの喉が小さく音を立てた。リィ・サイファの笑顔の恐ろしさに、悲鳴を飲み込んだらしい。
「俺が? 可愛い俺のサイファに隠し事をするって?」
「してるじゃない。さぁ、話してくれるよね、大好きな私のリィ」
 睦言なのか詰問なのかわからない二人にフェリクスは溜息をつく。
「あぁ……そうか。痴話喧嘩ってやつか」
「なんだ、サイファは人間の男を選んだという話だったが?」
「いるじゃない。あそこでへらへら笑ってるの。リィ・サイファの隣にいるのがそうだよ」
「なるほど」
「なにが?」
「サイファは、どちらも欲しかったということだな」
 あっさり納得したファネルにフェリクスは顔を顰め、あとできっちり聞かせてもらおうと心に刻む。いまここで話せと言ってもよかったけれど、ただでさえ収拾がつかなくなりつつあるのに、さらによけいな問題を投下したくはない。
「こっちがメロール師、それとアルディア。名前だけは知ってるでしょ。僕が話したから」
 覚えている、と数世代は若い神人の子らにファネルは会釈をする。彼らもわずかに緊張しながら会釈を返した。
「ウルフ、悪いがちょっと私は留守にする」
「うん、いいよ、思う存分お師匠様に甘えてきなって」
「そうではない! とことん話を聞かせてもらおうと思っているんだ、私は!」
「いいじゃん、結局は甘やかされに行くんだし」
「問題は結果ではない。過程だ」
 言い捨ててリィ・サイファはその師を引きずっていってしまった。振り返ったリィ・ウォーロックがひらりと手を振って片目をつぶって見せたところを見れば、どうやらウルフの言葉こそが正しい気がする。
「せっかく幼馴染がきたって言うのに、サイファも気が短いよねー。ま、何日かお師匠様に甘えたら気がすむと思うから。ちょっと待っててくれる?」
「……私は、かまわんが」
「ん、よかった」
 へらり、ウルフが笑った。見慣れはしたが、フェリクスには頭痛を呼ぶ顔だ。それなのにファネルは気にした風もなく、当たり前のことでも見聞きしたかのよううなずく。
「ねぇ。タイラント」
「うん? どうかした?」
「なんだか僕は頭痛がするんだけど。だから、ちょっと」
「あぁ、そっか。うん、いいよ。ちょっと待って」
 フェリクスにみなまで言わせずタイラントはにこりと微笑む。それから宙に視線を放った。と、その手に素朴な竪琴が。
「はじめて君にもらった竪琴が俺は一番好きだよ」
 フェリクスが何を言う間もなくそう言ってタイラントは弦を爪弾く。ほう、とファネルが声を上げた。すぐに誰の声もしなくなる。
 竪琴は刻々と姿を変えた。フェリクスが贈った竪琴であり、風であった。奏でられる音は紛れもない風の音。それでいて音楽だった。滑り込んだタイラントの声さえ、風の声。
「水ではないのだな」
 ぽつりと言って微笑んだファネルの隣にフェリクスは腰を下ろす。
「こいつのちゃんとした歌、やっと聞かせてあげられるね」
 多くは語らなかった。語り尽くせない苦痛が過去にはあった。すべて昔のこと、と言える今。互いに視線をかわし、苦笑をかわし。
 フェリクスは心の奥で思っていた。シェリと言う名の小さな銀の竜であったころもあの男は妬いていた。これからしばらくは面倒事が起きるだろうと。
 そして同時に思う。それも悪くない、と。タイラントと過ごす悪夢のように幸福な日々のひとこまに添える花ならそれも。
「楽しいよね」
 頬杖をつきタイラントの演奏とその姿に見入るフェリクスを、ファネルはこの上ない安堵とともに見つめていた。




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