アリルカは森の国。国中を森が取り巻いている。かつて戦争中はこの森に迷いの魔法がかかっていたと言う。いまは違う魔法がかかっていた。目に見えるものではなく、害意なき人にはなんの効果もない、だがこれ以上なく強固な魔法が。
 イメルが不安を抱いて森に散歩に来るのはいつものことだった。フェリクスから塔を委譲されて以来、イメルは悩み事が増えた。いままで下に立っていたものが急に魔術師たちの長になったのだから当然と言うもの。そうでなければ後継者に指名したフェリクスも甲斐がない。
 長ゆえに、自分一人で考えなければならないことも多かった。誰一人、相談ができない。そして決めたことが魔術師たちの命運を決めるかと思えば身が震える。だからイメルは歩きに来る。そんな日だった、今日も。
 いつもはしんと人気がない森の中、鋭い音が連続して聞こえる。アリルカを襲いにくる人間ならばこんな森の中にまで入ってくることはできないから、イメルにその不安はない。ただ不思議なだけだった。
「あれ、チェイス?」
 音の正体は、チェイスだった。木に取り付けた的に向かって、何度も何度も矢を射ている。練習には見えなかった。
「どうしたの?」
 なんだかチェイスの様子が尋常には見えなくて、ついイメルは問いかける。本当は、あまり好きではない。チェイスのはっきりとした物言いが癇に障りもする。だがいまは放っておけなかった。あの昔の、少女を見た思い。もう立派な大人の女性だというのに。
「放っておいてよ」
「あのね、チェイス。そう言われて放っておける男がいると思う?」
「男? あんたが?」
 ふん、と鼻で笑ったくせにどういうわけか泣きそうに見えるチェイス。イメルは小さく溜息をつく。
「本当にさ、どうしたわけ?」
 手を上げるでもなく小声で呟いて弓を取り上げれば物凄い目で睨まれた。このまま射続けていたら肩を壊すことくらいわからない彼女ではないはずなのに。
「ほっといて――」
「って言われて放っとける状態だったら俺も喜んでほっとく」
 言葉を横取りされて、チェイスは顔をそむけた。普段だったら遠慮のない言葉が返ってくるというのに。
「チェイス」
 促せば、彼女はぎゅっと体の脇で拳を握る。彼女の周辺で何かがあったのだろうか。言いたくないものを言わせたいとは思わなかったけれど、放っておくこともできない。
「……ファネル」
 ぽつりと、彼女はそれだけを言った。長い間恋し続けてきた闇エルフの名を。彼女の同年代の女たちがアリルカには何人もいる。そのすべてにもう子がある。独り身を貫いているのは彼女一人。
「ファネル? ファネルがどうしたの?」
 不意に、チェイスがずいぶんと子供に見えた。イメルの年齢を考えれば子供などと言って済ませる年でもないのだけれど、魔術師は寿命が長いだけに常人とは感覚が違う。
「どうって……! 急に、どうしてなのよ!? どうしてファネルがフェリクスの家に住んでるのよ!」
 迸るような叫び声。イメルは寸時、動きを止めた。時が至ったか、きゅっと唇を噛みしめる。
「ほら……、あんただって、なんか知ってる……!」
 誤解だ、と言うこともできずイメルは瞑目した。胸に手を当てれば、そこにぬくもり。かつて子供だったころ、師に抱きしめられた温かさが蘇る。
「チェイス、おいで。君は、聞くべきだと思う」
「なによ!」
「いいから」
 つい、と手を引けば嫌がって悶える。それでもついてくる気にはなっているのだろう。手を引かれること自体が嫌、と言うことか。
「子供じゃあるまいし。どうして手を繋いでいかなきゃならないわけ?」
 鼻を鳴らすチェイス。それでもまだ泣きそうなチェイス。ほんの少しイメルは思う。時間が経ったのだと。自分が彼女を気遣う不思議と共に。
 イメルが向かった先は、彼女も見当がついていた通りフェリクスの家、いまはファネルが住むあの樹上の小屋だった。
「ファネル! 話があるんです、上がってもいいですか!」
 小屋に向かって声を張り上げれば、窓からのろりと闇エルフが顔を出す。イメルは危ういところで驚きをこらえた。隣でチェイスが息を飲む。
「……私が下りよう」
 言うなりファネルは無謀にも小屋から飛び降りる。チェイスが危ないじゃない、とたしなめていた。
「ファネル。チェイスが、不思議がっています。あなたがなぜフェリクス師の家に住んでいるのかを」
 小屋の下、木の根元で車座になって座り込む。ファネルの様子にイメルは淡々と話を続けた。あまりにも憔悴していた、彼は。
「なぜ、そんなことを」
「私には、もう見当がつきました。いえ、わかってます」
「ちょっと、イメル。どういうことなの!? 私一人除け者?」
 皮肉に言うチェイスに黙れと怒鳴ってしまうところだった。こんなファネルを見て彼女はなんとも思わないのだろうか。
「ねぇ、ファネル。ちゃんと食べてるの。酷い顔してるけど」
「食べなくとも死にはせん」
「そういう問題じゃないじゃない」
 ファネルは黙って答えなかった。目は遠いどこかを見ている。フェリクスの去って行ったほうだろうか、イメルは思う。
「ファネル……」
「あぁ。フェリクスは、旅立ったよ」
「え?」
 意外なことを聞かされたとの驚きもあらわなチェイス。聞かされるはずだったこととは違う言葉に驚愕するイメル。二人を前にファネルはほんのかすかな笑みを浮かべた。
「……私は、そう思っている。いささか風変わりな旅立ちではあったが、旅に出たいと言っていたしな。いつかどこか思いがけないどこかで会うかもしれない、そうも言っていたしな」
 ぽつりぽつりと呟くようなファネルの言葉。ようやくチェイスにも事情が飲み込めた。フェリクスが死んだのだと。どうしてもそうは言いたくないファネルの思いと共に。
「ねぇ、ファネル。フェリクスが好きだったの」
 イメルは危ういところで吹き出すのをこらえた。まさかファネルがそんなはずはないとチェイスを見やっていた彼は、そのまま強張る。
「あぁ、愛しているよ」
 ファネルの言葉に。ぎょっとしてファネルを見れば、小さく微笑んでいる。隣でチェイスが泣きそうだった。
「どうして? どうしてなの。あんな人がどうして? いっつも不機嫌で、つまんなそうに生きてるかどうかもよくわかんないような人じゃない。人の気持ちがわかる人じゃなかったし、傲慢だし」
「チェイス、違う。それは違う」
「どこが!」
「……フェリクス師は、普通の意味で優しい人って言えるような人じゃなかったよ。それは認める。でも違う。君が知ってるフェリクス師は、師の抜け殻みたいなものなんだ。本当は、優しい人だったのを俺は覚えてる」
 この胸に今も宿る師のぬくもり。あの日の言葉が今日この日までイメルを支えてきた。
「どこが? 優しいって言葉の意味、あんた知ってるの?」
 嘲笑するチェイスにイメルは黙って首を振る。何を言っても信じられないだろうと思う。あのフェリクスしか彼女は知らないのだから。
「子供だったころ……俺はいじめられっ子だった。星花宮で勉強してる時にもいじめられてた。救ってくれたのはフェリクス師だ。大丈夫、立派な魔術師になれるって励ましてくれたのはフェリクス師だ」
 目の前でファネルが目を閉じていた。まるで在りし日のフェリクスを思い描くかのように。
「俺だけじゃない。俺は、タイラント師の弟子だったからね。本当にフェリクス師に可愛がられた一番弟子がいる。そいつは……色々あって、一時は半分心が壊れたみたいになっちゃって。そいつを立ち直らせたのも、フェリクス師だ」
「どうやってだ?」
「あなたには信じられないかもしれません。フェリクス師は、自分の精神の中に、そいつを抱え込んだんです。何もできない、ただ死んでいこうとするエリナードを助けたい一心で」
「……定命の身で、無茶をする」
「自分が昔、自分の師匠にそうやって助けられたからって。ほんと、無茶しますよ」
 イメルの苦笑の意味もファネルの言葉の意味もチェイスにはわからない。それでも尋常ではないことをあのフェリクスがしたのだ、とだけはわかる。
「……よく笑う人でした。楽しそうにしていた一瞬あとには、怒鳴っているような人でもあったけど。感情も豊かで、タイラント師といつも仲良く口喧嘩してた」
 イメルはただ自分の手を見ていた。あの日々はもう還ってこないのだと不意に痛切な思いが湧き上がる。
「優しい? そんな人の弟子が、じゃあどうしてここにいないわけ? あんたが言うようなお師匠様だったら、そのお弟子さんは何があってもアリルカに駆け付けたんじゃないの、イメル?」
「違うよ、チェイス。それも違う。俺は、リオン師の言いつけを破って、タイラント師の敵討ちがしたいって、ふわふわした気持ちでアリルカにきた。それがフェリクス師にどんなつらいことか考えもせずに」
「つらい? そんな感情があったとは思えないけどな」
「そうだね、つらいなんてものじゃなかったはず。あのときのフェリクス師を君は知らない。君が知ってる師は、もう復讐も終わっちゃって、何もすることがなくなった人なんだ」
「……ずいぶんと怒らせたらしいな。お前が来た日だ」
「えぇ。殺されても文句は言えない。いまは、それがわかります。チェイス、俺はね、タイラント師の弟子だった。あの日のフェリクス師が俺の顔を見るってことはね、星花宮にあった日常を、幸せだった日々を見るってことなんだ」
 失って二度と取り返せないものを。殺されてしまった最愛のタイラントを。チェイスにその意味がわかるだろうか。きゅっと唇を噛んだ彼女に伝わっていれば、とイメルは思う。
「だからエリナードはイーサウにいる。あいつは師の思いを心底知ってた。自分はイーサウで補佐にまわる。それで師の助けになる。あいつはそう思ってたんだと思う。俺とは、違う。ちゃんと師の心を汲んだ偉いやつだよ」
 ここでの話が済んだら、エリナードに知らせてやらなくては、とイメルは思う。彼こそはフェリクスの自他共に認める一番弟子。
「中々会う機会もないけど、エリナードの友であることが俺は誇らしいよ」
 そう言う男の師だったのだ、フェリクスは。単に優しいだけでも甘いだけの師匠でもない。厳しく恐ろしい師でもあった。だがチェイスが知っている抜け殻の彼とは似ても似つかない、芯に優しさのある厳しさだった。
「俺は、フェリクス師に後継指名をされて、やっとわかった。じっと見守るのがどんなにつらいか。何かがあったら必ず手助けはする、でも自分でできるところまでは努力してご覧って、遠くから見てるの、つらいよ。自分で手とり足とり教えたほうがずっと楽だ」
 そう言う師だった、フェリクスは。チェイスが言うような冷たいだけの男ではない。それがどこまで伝わるのだろう。生前のタイラントの言葉が蘇る。どれほど伝わっているかわからないから語り続けるのだと言った師の言葉が。
「見たかったな、そのフェリクスを。会いたかったな、そのフェリクスに」
 笑顔も優しさも忘れてしまったフェリクスだった。ただ肩の竜だけを供にして歩き続けていた彼だった。ファネルの目にうっすらと涙。チェイスがまた唇を噛んだ。
「エリナードに話を聞くといいと思います。フェリクス師とタイラント師がどんな風に過ごしていたか、あいつもよく知ってるから。あいつはフェリクス・エリナード。フェリクス師の名を継いだ男です」
「そうか……。お前は?」
 少しだけ、ファネルが元気になったような気がした。いずれ遠からずエリナードの元を彼は訪れるのかもしれない。近いうちに話をつけておかなくては、と心に刻む。
「私、ですか?」
「お前は、フェリクスの後継者なのだろう? それなのに、お前はフェリクスの名を継がないのか」
「はい、私はタイラント師の弟子ですから。後継指名が済んだあと……。シェリからの伝言、と言う形でフェリクス師は、タイラント師の名をくださいました。自分が、その、旅に出た後に名乗ってほしいって、言ってましたから。だから、今日から私はタイラント・イメルです」
 口にしてみて、背筋に一本筋が通った気がした。今日この瞬間から、自分はタイラントの名も背負う。偉大だった師の名を汚すことのない時間を歩み続けていく、その覚悟。誇らしいより怖かった。
「そう、か……」
 遠いどこかを見やるファネルの眼差し。過去であり未来かもしれない、イメルは思う。遠いどこかでフェリクスに再会する場面を彼は思い描くのかもしれない。ありえない未来だと理解していてさえ。
「どうして、ファネル? フェリクスがそんなに好きだった? あいつには、そのタイラントって人がいたんでしょ。亡くなってもずっと思い続けた人が。それでも?」
 答える必要をファネルは認めなかった。以前ならば。いまは心が弱っているのかもしれない。あるいはチェイスが大人になったと言うことかもしれない。かつてなかったかすかな思いやりに似たものを彼女の中に見る。
「ファネルは優しい。私がどうのって言うんじゃないの。それはわかって? 私はファネルが好きだよ。なんて言うのかな。恋っていうより、憧れ。その憧れの人がこんなにさ、ないがしろにされてて、なんかすごく、悔しい」
「嘘つけ、強がり言って。好きなくせに」
「ちょっと、イメル! どうしてそういうこと言うの!」
 茶化してくれたイメルに目顔でだけ礼を言えばにやりとされた。鼻を鳴らせばイメルが吹き出す。顰め面のチェイスにファネルまで優しげな顔をした。
「ほんとだからね、ファネル。好きは好き。でも私、ファネルの子供産みたいとは思わない」
 人間の女の言う好きとはそういうことだ、とチェイスは言う。ほんのりと頬を赤らめたファネルにチェイスは思う。この美しい人をただ眺めていたいのだと。大事な、少女のころの宝物のように。
 そして口にしてみてつくづく思う。この夢のように幻のように美しい人を邪険に扱うフェリクスが、だから嫌いだったのだと。彼がファネルに何か一言いうたびに、彼は生身になっていく。それを見たくなかった。
 こんなものは恋ではない。いまのチェイスにはそれがわかる。わかった上で、幻想と心得た上で、それでもファネルに憧れた。胸の中の痛む場所、いまでもどろどろと疼くもの。そんな汚いものがファネルを見ているだけで清められていくような、そんな気すらするから。ファネルがいてくれれば、いつか自分もちゃんとした恋ができるかもしれない、そうも思う。だからもしかしたらこの思いは憧れですらなく、祈りと呼ぶべきものなのかもしれなかった。
「そんなことになったら……」
「なに、ファネル?」
 無邪気を装う彼女にファネルははじめてわずかながら好感を持った。フェリクスを絶望のどん底に叩き落としたチェイスだった。彼は言った、いずれ彼女は大人になると。それまで時間をあげたらいいとも言った。こういうことだったのかとはじめてファネルにも理解ができた。
「フェリクスがどれほど困るかと思ってな」
 小さな笑みが、わずかな息の音になり、そしてついにはくすくす笑いになった。一人おかしそうに笑うファネルにイメルとチェイスは顔を見合わせて首をかしげる。
「ファネル、どうしたの。どうしてフェリクスが困るの? あぁ、言ってよかったら、だけど。いいなら聞くけどな?」
 ファネルは呼吸すらも止まるかと思った。まじまじとチェイスを見れば、恥ずかしそうに、それでも目をそらさないチェイス。
「大人に、なったんだな。以前のお前ならこちらの意向を尋ねるなど、思いもよらなかっただろうに」
「言わないでよ。大失敗だったって、私は学んだ。フェリクスは嫌い。それはいまもやっぱり一緒。でも、言われたことは間違ってないと思う。私は私で手一杯だった。同じようにみんな抱えてるって、気がつかなかった。気づかせてくれて、どうしたらいいかも教えてくれたのは、フェリクス。それには、感謝してる」
「そうか……」
 知らないところで、気づかないところでフェリクスは様々な跡を残しているのだとファネルは思う。人々の中に、彼の足跡が残っている。生きている、とさえ思う。
「本当は、言うべきじゃないな。知られれば、フェリクスに怒られるだろうな」
「だったら内緒で聞くけど? あぁ、そっか。ねぇ、イメル」
「なに?」
「約束破ったら殺されるような魔法って、ない?」
「あるけど……って! そんなもん、どうするの!?」
「かけてよ。私は信頼に値しない。だからファネルは話したいけど話したくない。だったら、私が絶対に約束を破らないって保証があればいい。破らないんじゃなくて、破れない保証、かな?」
 明るく言ったチェイスに戸惑うイメル。さあ早くと促されて人差し指をイメルが噛み破る寸前、ファネルが止めた。
「必要ない」
「ううん、ファネル。止めないで。私はね、人間なんだ。自分で自分が信じられなくなることもある。だからね、これはファネルのためっていうより私のため。保身なんだよ。ほらね、卑怯な人間でしょ?」
 笑うチェイスに時間を見た。輝かしい定命の人の子の燃え盛る命。神人の子らを置き去りにして、育っていく命を。
「イメル」
 促しに、イメルが決心した。噛み切った人差し指の血を彼女に擦り付け、小さく詠唱した。
「変な感じ。なんか変わったって感じ、しないけど?」
「それでももう発動してる。君はいまから聞くかもしれないファネルの話を、誰にも洩らせない。ここにいる俺とファネル自身を除いてはね」
 それはイメルの優しさ。無言を貫くにはつらいから。それに気づいたチェイスは、やはり成長したのだろうとファネルは思う。悪戯半分に睨んでは笑みを浮かべていた。
「さぁ、ファネル。言いたかったら言って。嫌だったら聞かないけどさ」
 これで安心、とばかり笑う彼女にファネルは笑みを返す。それからファネルはフェリクスの小屋を見上げた。
「愛しているよ、フェリクスを」
「あんな人でも? 色々イメルは言ってたけどさ、でもファネルが知ってるフェリクスだって、私が知ってるあの人と大差ないじゃない? それでもフェリクスが好き?」
「結局口説いてるんじゃないの、チェイス?」
「よけいなこと言わないでよ、そんなことないって言ったでしょ!」
 チェイスをからかうイメルにも理解の萌芽を見た気がした。こうして変わっていく人間の世界。チェイスを嫌っていたイメルにも雪解けの日が来る。それならば、フェリクスと再会する日があってもいい、そんなことをファネルは思う。
「ねぇ、ファネル」
「そうだな……大差はない、確かに。それでもやはり私はフェリクスを愛しているよ」
「どうして? 恋ってそういうものかな……」
 呟くチェイスにファネルは驚く。そういえばそういう話でそういう誤解だったと思い出す。そっとファネルは笑った。
「なんの話だ?」
「だって」
「フェリクスを愛しているよ、息子だからな」
「ふうん、そう……はい?」
「ファネル、いまなんて言いました!?」
 口々に言う彼と彼女のその反応がファネルには殊の外におかしかった。小屋を仰いで心の中ですまんと詫びる。
「あれは私の息子だよ。本人も知っていた。ただ、捨てた子で捨てられた子だ。口外してほしくはなかったみたいだな」
「違います、ファネル。そうじゃない。私も知らなかったけど、それは違うって断言できる!」
「イメル?」
「フェリクス師はそんな人じゃない。今ここにいるファネルで充分、父親とか息子とかそんなこと以上に、今ここにファネルがいてくれる、それで充分だって思ってたはずです。アリルカで、あなたが一番フェリクス師に信頼されてたんだから。そうでしょう?」
 ファネルは言葉をなくした。黙って両手で顔を覆う。涙などなかった。
「ファネル。エリナードのところに近いうちに一緒に行きましょう。フェリクス師のいろんな話、しましょう」
「あら、私もつれて行ってよ。フェリクスを誤解したままみたいでいやじゃない。誤解、解けるんだったらやって見せてよ」
「なんだよ、結局ファネルに惚れてるんだろ。口説くんだったらさっさとやったらいいのに」
「違うって言ってるでしょ!」
 口論する二人の声が遠ざかっていく。静かな木の根方でファネルは一人。不意に、聞いたこともないフェリクスの笑い声が聞こえた気がした。風のなせる業だったのかもしれない。




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