アレクから呼び出しを受けたサイファとウルフは、王都アントラルの一角にある神殿にいた。軍神マルサドの神殿には、言うまでもなくシリルがいた。
「すみません、急に」
 転移魔法で出現したにもかかわらず、シリルは二人が当たり前に門をくぐって訪問したよう迎えた。
 サイファはシリルの、司祭としての部屋を出現点に選んでいた。ここならば、急に姿を現した半エルフに街の人が逃げ惑うこともなかろう、と皮肉に考えて。
 だがいささかの驚きも持っている。シリルの部屋に誰もいないのは現れたときに見て取っている。誰かが知らせに走ったりもしていない。それなのにシリルはすぐさま二人を迎えに顔を出した。
「さすがだな」
 薄く笑みを浮かべてサイファは言った。
「なにがです? あぁ……結界ですか?」
「そうだ」
「んー。なに、それって」
「お前に話してわかるとは思えん」
 邪険にウルフに言い、サイファはうつむいて忍び笑いを漏らした。それをシリルが見ては笑っている。室内は、シリルの結界に囲まれていた。本来は侵入者を排除するためのものだろう、とサイファは思う。もっとも、半エルフの強大な魔術師、と言うのはその中には含まれていないようで、サイファは結界に気づきもしなかった。結界のおかげで、シリルにはサイファの訪れを感じ取ることができたのだろう。
「まぁ、そりゃそうだけどさ」
 ぶつぶつとウルフが文句を垂れている。小声で言うものだからいっそう情けない。サイファは取り合わずシリルに目を向けた。
「それで。なんの用だったんだ」
「気になりますか?」
「無論。言うまでもない。気にならなかったらこない」
 少し、機嫌が悪くなった。アレクが呼び出すなど、珍しかった。普段ならば自分が塔を訪れるのだ。別に呼ばれたことを不快に思ってはいないし、訪問を楽しんでもいるが、それをからかわれるのはいやだった。
「あーら。サイファってば、アタシが心配で飛んできてくれたのねー」
 はっとして振り向いた。音も立てず気配もさせずアレクが扉を抜けてきていた。
「誰が誰の心配をしている!」
「アンタがアタシの。ね?」
「していない!」
 くっと笑って言うアレクにサイファは憤然と反論する。もしも他人が見たならば、必死になって二人を止めたことだろう。だが生憎と言おうか幸いと言おうか、ここには仲間しかいなかった。残る二人は和やかに剣の話などをしているばかり。
「それで」
 言い争いの無駄を悟ってサイファしむっつりとアレクに問うた。頃合を見計らっていたのだろう、シリルが茶を淹れはじめる。それにあわせるよう、ウルフが持参した菓子を切り分けだした。
「ちょっと見て欲しいもんがあってな」
 男の声に戻ってアレクは言った。サイファが頭痛をこらえるよう額に手を当てる。もっとも、当てた手の下、顔は笑っていた。
「これなんだけどな」
 いままで話を渋って茶化していた男とは思えないほど、あっさりとアレクは何かをテーブルの上に投げ出す。それから悠然と熱い茶をすすった。
「南方貿易が再開してな」
「貿易?」
「いままで忙しくって貿易どころじゃなかっただろ」
 忙しいどころの騒ぎではない。魔物を食い止めるのに必死で、貿易になど、とても手が回らなかったはずだ。まして外洋ともなればなおのこと。サイファはテーブルの上のものを見やった。
「多島海か?」
 訝しげにそれを手に取る。感じ取ったのは間違いなく南の産物。だがここにあることが信じがたかった。
「アンタは知ってる? これが何か」
「知らないで買ったのか、お前は」
 呆れ声にアレクが手を振る。まさか、と言いたいらしい。
「ねぇ、それってなに?」
 アレクと同じような問いでありながら、ウルフのそれは違う。アレクはたぶん、これが何かは漠然とであっても知っているはずだった。
「俺にはカカオの実に見えるけど……違う?」
 ひょい、とウルフがテーブルの上の物をつまみ上げる。サイファは驚きに声もなかった。まさか、ウルフが知っているとは。
「そう言えば、お前は王族だったな」
 呟けばあからさまに嫌な顔をする。それを見ては兄弟が笑った。
「坊やはどこまで知ってるのよ?」
「俺? カカオの実って言うことしか知らないって。なんに使うもんかも知らない。図鑑で見ただけだもん」
「本当か?」
 思わずウルフの目を覗き込んでサイファは問い質してしまった。この茫洋とした風を装っている青年がどこまで本当の馬鹿なのか、サイファにとってもいつまでもわからない、一種の謎だった。
「ほんと、ほんと」
 手をひらひらと振った。余計、真実かどうか疑わしくなる。だからサイファは一つ質問をした。
「これを使ってみようと思ったことは、私に?」
「ない。って言うか、なんだかほんと知らないって」
「……どうやら嘘はついていないらしいな」
 ほっとした顔のウルフにサイファは一瞥をくれてうなずいた。それを見たアレクの目が細まる。小首をかしげれば、問いがきた。
「アンタは知ってるんだな、それが何か?」
「知ってる」
「いまの質問の意図は」
「若造が本当に知らないのか確かめた。もしも知っていたならば、私に使おうと思わなかったはずがない。馬鹿だから使っても無駄だということを忘れて」
「サイファ! ひどいよ」
「なにがだ?」
 にっこり笑ってサイファは言った。笑顔に、ウルフがわずかばかり怯んだ顔をする。知らずサイファの笑みは本心のものになっていた。
「いちゃついてないで説明しろって」
 アレクが皮肉に笑って茶化す。サイファの目が剣呑になるのと同時にシリルの手がアレクの腕にかかり無茶な兄をたしなめた。
「無謀な兄ですみませんね、サイファ」
「いつか仕返しをしてやろう、と心の底から思っている」
「怖いこと言わないでくださいよ」
 シリルは笑みでサイファの言葉をさらりと流した。つくづく、いやなときによく似ている兄弟だ、とサイファは溜息を漏らす。
「で、サイファ。何で俺が使うかもしれないの」
 溜息をもう一つ。ちらりと見やったアレクは含み笑いをしている。やはり、知っているらしいと見当をつけた。
「カカオの実には催淫作用がある」
 言った瞬間だった。ウルフが目を輝かせたのは。その目を見て、また溜息をつきながら本当に知らないのをサイファは確認していた。
「アレク。俺、これ欲しい」
「若造……」
「ちょ……待って、サイファ!」
 殴りかかるサイファの腕をウルフは機敏に掴んで真っ赤になって慌てていた。兄弟は、二人の生活を察したのだろうか、揃って笑い転げていた。
「私になにをするつもりだ、お前は」
「えー。だから、その。さー」
「ちなみにお前が本当に馬鹿でないならば、半エルフに毒が効かないのはよくよく知っていることと思うが?」
「あ……そっか。じゃあ、だめかー。残念」
 心から残念そうに肩を落とすウルフが少しばかり哀れになって、けれどサイファは思い直す。何も兄弟の前でそのようなことをあからさまでなかったとしても言う必要はないではないか、と。
「もうちょっと遊んであげたらー、サイファ?」
 案の定、危ない目をしたアレクが頬杖をついて笑みを浮かべている。
「えーと、アレク。その話はあとで帰ってから二人でするからさ。あんまりサイファを……」
「追い詰めてるのはお前だと私は思うが」
 ぽつり、呟いてしまった。それがどうにもおかしくてたまらなかったのか、今度は三人で笑い出す。いささか不快になってきた。
「ごめん、サイファ」
 はじめに笑い止んだのは、意外にもウルフだった。うつむいたサイファの髪に手を滑らせ、顔色を窺うよう覗き込んでくる。サイファは長い髪に顔を隠した。
「んー、そのままでいいからさ。説明してよ」
 他のことをしていれば気が紛れるだろう、とでも言いたげなウルフの声。アレクがそっと驚きを隠して瞬いた。
「多島海との貿易でね、手に入れたんだ。アンタも知ってのとおり、あそこの産物だからな。あっちの人間が言うには神に捧げる貴重なもんだってことなんだけど、どう使うのかがさっぱりでね」
 アレクの言葉にやっとサイファは顔を上げる。お手上げだ、とばかりアレクは両手を上げていた。その目の前、兄弟の目にも明らかにサイファはいまだ頬を赤らめたままだった。
「神がどうのと言うのは知らないが、食用にするのは可能だ」
「食用? ほんとかよ」
「少なくとも千年前は食べていた」
 肩をすくめてサイファは言う。それに仲間たちは目を瞬いた。ここにいるのが半エルフだ、と思い出したように。
「それで、その……」
「妙な気分になったことはない。そもそもそのような気分になるにはよほど大量に摂取する必要がある、と言っていたが」
「誰が?」
 問いはウルフからきた。サイファははっと口をつぐむ。横目で見たウルフは笑みを浮かべている。本物ではない。内心でサイファは溜息をついた。
「我が師の言葉以外に何がある」
「んー。まぁ、そうだろうとは思ったけどね」
 ちりちりと肌を刺すような嫉妬。そのような必要はどこにもない、と言い続けているにもかかわらず、ウルフは師に嫉妬している。たまには悪くない気分だ、と思うが度々では煩わしい。
「どうやって食べていたのよ?」
 サイファの機嫌を察したアレクが言っては首をかしげる。互いに一瞬だけ見合った目。わずかな間に苦笑を交わした。
「菓子にして」
「……もしかしてアンタの甘いもん好きって、お師匠様譲りかよ」
「さて? どうなのかな。我が師は確かにいつも菓子を食べていた気はするが」
 思い出して懐かしくなる。様々な菓子を、いつでも彼は作っていた。選り取り見取りでサイファが選べるように。いつ旅から帰っても、師の塔には菓子の香りがしていたものだ。
「――か」
「え?」
 サイファの細い声が聞こえなかった。ウルフはかがみ込んでサイファの青い目を覗く。
「作ってやろうか、と聞いているんだ、馬鹿!」
 サイファがなにに怒っているのかなど、誰にもわからなかった。あるいはシリルはわかったのかもしれない。そっと優しい笑みを浮かべていたから。
 遥か昔、黄金時代のアルハイド大陸ではある特定の日にカカオの菓子を愛しい人に贈るという風習があったという。それがいつであるのかは、とっくに廃れてしまって古文書にも残っていない。



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