熱い湯に顎まで浸かっていた。気分がすっきりするから、とアレクが渋い顔をする主人を説き伏せて入浴の準備を整えさせたのだ。
 こんな朝早くから浴室の支度をさせられた宿の主人こそいい迷惑と言うもの。けれど町の人はおおむね好意的で、いまの一行の言葉ならばよほどのことでもない限り喜んで聞いてくれるだろう。
 だからこそ、主人も労を取ってくれたのだとサイファも知っている。冒険者の多い町であっても、この浴槽をあとでどうするつもりなのかは考えたくなかった。捨てるか、それとも見世物にでもするか。人間とはそういう種族だとサイファは知っていた。
「あのお節介」
 その種族観に当てはまらない男が幾たりか。いまのサイファの仲間たちだった。不思議なもので、怒涛のように巻き込まれてしまった彼らをサイファはすでに仲間と思ってしまっている。人間には変化しないとも思われるほどゆっくりと時間をかけて変わっていく半エルフにとっては異例中の異例と言えた。
 そのアレクを思い、呟いたサイファの口許には笑みが浮かんでいる。決して悪い気はしなかった。
 実際、よく眠ったとは言え体中にはまだ澱のような疲労が沈潜していた。ウルフには無茶はしてなどいない、そう言ったけれど、たった二日で付与魔術を施すなど世の魔術師が聞いたら無謀を謗るよりまず正気を疑う。そのようなことはできない、嘘だと言って。
 けれどそれを成し遂げるのがリィ・サイファと言う魔術師だった。
「なんて、言うかな……」
 思わず口に出してしまった言葉にサイファははっとする。慌てて自分の口を押さえる仕種をウルフが目にしたならば狂喜することだろう。
 無論、サイファはウルフのことを考えているのではなかった。仲間のことでもない。別の一人を。
「違うか」
 そう思った途端、否定した自分に気づいては苦笑する。ある意味では、ウルフのことを考えていたと言えなくもない。
 もう二度と、誰かのぬくもりを知るなどあるはずがないと思っていた。彼を失って以来、誰かの体が温かいものだということすら忘れていた。
 それも違うとサイファは否定する。忘れていたのではない。二度と知りたくなかった。それほど心を通わせることができる同族はいまだかつて出会ったことがなかったし、人間には自らの定めがある。
 胸の上、重たかったウルフの頭。息苦しさに目覚めたものの、多少心地良かったことは否めない。ウルフの髪に触れたような気がする手を湯の中から出せば水滴が肌を伝った。
 そっと掲げてサイファは己の手を見る。師から卒業の証に、と授かった指輪が水に濡れて輝いていた。あのときからサイファはそれを片時も離したことはない。塔の中に一人、住み暮らしたときでさえも肌身離さずつけている。
 それを知ったらウルフがどう言うだろうか、不意にそんな疑問が湧いてサイファは首を振る。どうでもいいことだった。
 ウルフの体温に、惑わされている。そのような自分をわずかながら嫌悪してサイファは眉を顰めた。あの日、失った彼は二度とこの手に還らない。
「あの若造が、悪い」
 言いがかりだとわかってはいる。けれどそう言いたくもなってしまう。
 半エルフのサイファにとって人間は不可思議な存在だ。彼ら人間が半エルフを不思議なものと見るよりもなお。人間は半エルフを恐ろしいもの忌まわしいものとしても眺めている。それでいて顔貌の美しさごときに惹かれるのだから始末に悪い。長い年月を過ごしてきたサイファは人間と言うものを信用したくなかった。
 あまりにも早く彼らは変化してしまう。半エルフであったならばずっと緩やかに進む感情の波が、人間はどうか。
「瞬きよりまだ短い」
 そもそもサイファたち半エルフにとって人間の一生ですらもが一瞬の夢のよう。ふっと気をそらしたあと目を戻せば彼らは土に還っているのだ。
「だから、嫌いだ。人間など」
 あっという間に変わってしまう。年老いて死んでしまう。彼も、そうだった。
 思い出したくないことを思い出してしまう。半エルフの記憶は色褪せない。あの日の苦痛もまざまざと蘇ってしまう。
 サイファは湯の中、目を閉じた。ゆっくりと呼吸を繰り返す。誰に教わったわけでもない。半エルフが本能的に知っている方法だった。平静を取り戻すために、怪我を治すために。たったそれだけでいい。人間と同じような姿形。それでいて完全な異種族。それが半エルフだった。
 呼吸を緩め、サイファは湯船の縁に頭をもたせ掛ける。長い黒髪が湯に踊る。胸にまとわりついてきたそれをわずらわしげに払えば雫がはねた。
「悪くはないな」
 アレクの言うとおりだった。熱い湯は疲労を拭ってくれている。仲間というものも悪くはない、そう言いたくなってくる。
 それが、おかしかった。人間など信用したくない、そう思う半面で彼ら兄弟を信用している。それはすでに信じてしまったからこそ強硬に心の中で唱え続けている言葉かもしれなかった。
 彼を失くして以来、誰かを本心から気遣うことなどなかったような気がする。長い時間が経っている。関わった人間も半エルフである同族も、いなかったわけではない。
 それでもやはり、他者に対して心を開いたことはなかった、そう思わざるを得ないのだ。アレクと話していると。
 サイファはひとつ溜息をつく。アレクだけではない、シリルだけでもない。気づいてしまった自分がいる。
 あの若造が死のうと以前の自分ならば気にもかけなかったはずだ。人間が一人、生きようが死のうが知ったことではない、それくらいは嘯いたはず。
 それなのに、自身の体調を崩してまでウルフに心を砕いた。目の前で死なれるのが嫌だったからだ。そう思いはするけれど、なぜ嫌なのかはわからない。
「思い出すから」
 わざわざ言ってみたものの、それも違うと思う。彼は死んだ。けれど戦闘で命を落としたわけではない。人間の定めに従って、老齢で死んだ。まったく違う。
 だから、思い出すも出さないもないはずだ。サイファは知らず唇を噛みしめていたことに気づいては苦笑する。決して仲間の誰にも、アレクにさえ見せないサイファの子供じみた顔だった。
「あなたならどうする?」
 答えない彼に問いかけた。答えは知っている。手助けできる状況にあって、手をこまねいていたと彼が知ればきっと悲しむだろう。だから、ウルフに手を貸した。いまはただ、それだけで済ませたかった。それ以上ではない、そう信じたかった。
 サイファは苦く笑って湯面に手を滑らせる。覗き込んだ顔は見るに堪えないほど頼りなかった。一瞬、目を閉じサイファは呪文を詠唱しかけた。
 湯面を水鏡にすることなど造作もない。見たい姿をそこに浮かべることなどさらに。そして脳裏に浮かんだのは彼ではない違う顔。
 水音を立てて湯が高く跳ね上がる。湯面を乱してサイファは溜息をつく。それから決然として立ち上がった。
 上気した肌にさらさらと水滴が滴った。何も考えずサイファは長い髪を束ねて絞る。たっぷりと湯を含んだ髪は重たかった。それを愛でた彼はもういない。別の男がそれと知らず触っては喜んでいる。
「人間なんか、嫌いだ」
 サイファは唇を引き結ぶ。自分で意図したよりそれはずっと弱く響き、持ち主の意思を裏切った声だった。



2/2更新
4/2拍手より移動

トップへ