窓辺で何かの音がしたのに、ふとアレクは振り返る。ラクルーサの王都アントラルの自室は今日も静かで、やけにその音が耳につく。
「なんだ……」
 目に入ったのは、一羽の鳥。純白の鳩が、まるで中に入れてくれとでも言いたげに窓をつついていた。あまりにもその仕種が可愛らしくてアレクは目を細める。
 このところ、あまりにも面白くないことが多すぎた。ウルフはどうしているのだろうと思う。自分たちのことを考えれば人のことを言えた義理ではなかったけれど、まさかあのウルフがミルテシアの王子だとは思ってもいなかった。
 あのような形でサイファに再会してしまったウルフは、きっとサイファ共々ひどく傷ついているはずだと思う。今はどうしていることだろうか。
 ウルフが反乱を起こした、とラクルーサに一報が入ったのは、すでに彼が追放された後のこと。さすがのアレク兄弟にも打つ手がなかった。兄王を焚きつけて追っ手を出さないよう、ミルテシア王に掛け合わせはしたのだが、所詮は無駄なこと。
 ウルフを追うための兵が出たと聞いたときにはアレクはよほど彼のために駆けつけようかと思ったものだ。けれど止めたのはシリル。
「ウルフなら、きっと大丈夫」
 そんな根拠のないことを言っては微笑んだ弟にアレクは言葉もなかった。だが、結局それは正しかったらしい。痴話喧嘩の真っ最中、といえばサイファから魔法の一つも飛んできそうな気はするが、アレクにとっては紛れもない事実だ。
 そのサイファに、ウルフ追放の連絡をしてすぐのことだった。無事で彼の塔にいる、と返事が来たのは。アレクは思わず笑い声をあげて手紙を振り回しては、シリルに怪訝な顔をされてしまったほど。
 いつか元通りになるはずだった。ウルフがサイファに寄せる愛情も本物なら、サイファのそれもまた同じ。二人してそれに気づいているのかどうか、怪しいものだとアレクとしては溜息をつきたくなってくる。
 サイファは言う。塔に置いてやっているだけだ、このまま殺されては後味が悪いだけ、と。だがアレクはそれがどこまで彼の本心か疑っていた。
「いや……」
 サイファ自身にとっては、本心だろう。彼は自分の気持ちを偽っているつもりなど微塵もないに違いない。ただ、気づいていない。
「違うか」
 信じたくないのだろうとアレクは思う。一度は裏切られたと思った。それが違うのだと、今はわかっているのだろうか。
「坊やがサイファを裏切ったりなんかするはずないのにねぇ」
 誰もいないのをよいことに、わざと女言葉で茶化してみては呟いた。くっと笑った途端、よく似た音が再び聞こえる。
「まだいたのか」
 驚いて窓辺に進めば、まるで鳩はアレクを見知ってでもいるよう、首を傾げた。それは必ず窓を開けてくれるに違いないと信じてでもいるような、そんな仕種だった。
「はいはい、いま開けますよ」
 鳩のようにアレクは笑い、窓に手をかける。と、やっと体が通るだけの隙間から鳩が滑り込んでくる。待ちかねた、といわんばかりに。
「驚いたわねぇ」
 鳩に向かって吹き出して、そしてアレクの笑みは凍り付く。
「な……」
 鳩は、鳩ではなくなっていた。とろりと蕩け、鳩は姿を変えていた。思わず上げかけた悲鳴を飲み込みアレクは深い呼吸をする。そして扉の外に向かって声を上げていた。
「シリルを呼んでくれ。大至急だ。緊急事態が起こった、と」
 その一言に、呼び出された侍女が顔色を変える。まるで再びシャルマークの大穴が開いた、とでも聞かされたように。
 だが程なく顔を見せたシリルは冷静そのものだった。丁寧な仕種で侍女をアレクの部屋から追い払うと、ちらりと笑みを見せる。それからアレクがなにも言わないうちに鳩が変化したものへと視線を向けて微笑んだ。
「サイファから手紙? 嬉しいね」
「何だ、すぐわかったか」
「当然でしょ」
 少しばかり残念そうなアレクの唇にシリルが触れればアレクの目許が和らぐ。それにもシリルは嬉しげに微笑んだ。そっと彼の頬に手を当て、覗き込む目の中にあるのは満足。同じほど、アレクも満ち足りていた。
「ようやくだよね」
「うん?」
「サイファ」
「あぁ……」
 そのアレクの返事にシリルが笑う。何かとアレクが首を傾げれば、今度は声を上げて笑いだした。
「シリル」
 たしなめるよう、呼んだ。と、彼は笑いを納めて意外なほど真面目な顔をする。思わず引き込まれそうになったアレクを止めたのもやはり、シリルの声だった。
「ずっとサイファの心配してたくせに」
「そりゃ、まぁね」
「そのくせ手紙きたのに素っ気ない」
「そんなことは……」
「ねぇアレク。心配?」
「なにが」
「サイファに決まってるでしょ」
 言ってシリルは吹き出した。アレクの渋面の理由など、とうにお見通しだ、といわんばかりに。そんなシリルだからこそ、アレクはさらに苦い顔をしてみせる。案の定、笑いすぎを詫びるようなくちづけがきた。
「アレク、まだ手紙読んでもいないよね」
「お前と一緒に読もうと思ってね」
「でもちゃんとサイファから手紙だってわかった」
「こんな手紙の送り付け方する知り合いが他にいるか!」
 普通、手紙は人間が相手のところまで持っていくものだ。アレクたちがサイファに送る手紙もそうしている。魔術師の塔に近づきたがらない人間は多いのだけれど、いかんせん王子の命令とあれば従わざるを得ない人間というのも城中にはいるのだ。普段はその手の権威を使うことを好まない二人ではあったけれど、ことこのことに関してだけは、充分に活用していた。
 そしてごく希に彼から返事があるときは、その使者に返事を持たせてくるのだ。いまだかつてサイファの方から手紙が来たことはなかった。そしてそれがアレクの不安をあおっている。
「大丈夫だよ」
「なにがさ」
「全部。きっと大丈夫」
 シリルが言うなら、そうに違いなかった。なにがどうなのか、さっぱりわからなかったけれど、きっと平気。そう思える自分がアレクは幸せだった。
 その分、サイファが心配でたまらなくなる。あの誇り高い半エルフの友は今頃どうしていることだろうか。ウルフが彼の塔にとどまっているからと言って、楽観していてよいものか、時が経てば経つほど不安で仕方なくなる。
 サイファはちゃんとウルフと話しをしているのだろうか。きちんと言い訳を聞いてやる気になっているのだろうか。そこまで思ってアレクは溜息をつく。
「どうしたの?」
「坊やがねぇ。ちゃんとお話できてるのかしら、と思ったら心配でしかたなくって」
「アレク……」
「なぁに?」
 茶化してわざとらしくアレクは笑う。そうでもしていないととてもいたたまれなくてたまらない。それがわかっているシリルは一つ肩をすくめて終わりだった。
「さぁ、行こうよ」
「どこヘよ」
「サイファのところに決まってるでしょ」
「だって、どうやって行くのよ?」
「これこれ」
 言ってシリルは鳩が姿を変えた手紙を手に取る。ちらりと目を走らせれば物の見事に一言だけ、来い、と書いてある。溜息をつきつつ笑うシリルの前で見る間にそれは鳩へと戻った。アレクが目を丸くするのにシリルは、これがサイファの塔まで案内してくれるはずだ、と告げる。
 二人とも、サイファの塔がどのあたりにあるのかは知っていても、厳密にどこかまではわからない。使いに出した使者の誰かに聞けば済むことなのだが、二人で出かけてしまうことを兄王が知れば間違いなく止められる。ましてあのカルム王子が関わっているとなれば。それを見越してのサイファの手紙だったのか、と今更ながら納得するアレクだった。
「行くよ、アレク」
 まるでアレクの焦燥などわかりきっていると言わんばかりの態度でシリルは微笑む。アレクはにやりと笑みを浮かべてシリルの腕をとった。
 そっと城中を抜け出した二人の姿を見咎めた人間は誰一人としていなかった。あの日、アレクが姿を消した日のように。そして彼を追ったシリルがいなくなった日のように。
 なにも歩いていく必要もない上、時間がかかるのを嫌ったアレクは、城下の町で馬を借りた。城の厩からこっそり乗ってきてしまえばいいとはじめは思ったものの、そのようなことをすればすぐ兄王に知られてしまう、とシリルに止められて渋々そうしたのだった。
「駄馬ね」
 精一杯走らせても城の馬ほど軽快には走らない。急ぐ用事がなければさほど気にならなかったかもしれないが、いまは耐えがたかった。
 そもそも馬を借りられただけでよし、とするべきなのだ。それもアレクはわかっている。アルハイド大陸にあって乗馬は大して普及した習慣でもない。貴族か、それに類する大家の者くらいしか馬に乗ることない。野生馬はたくさんいる。が、それを乗用に調教する難しさがそうさせていた。
 だから二人が鳩の導きに従ってサイファの塔にたどり着いたとき、アレクの苛立ちは頂点に達しようとしていた。シリルはそっと彼の背中で揺れる金の綱を見やりつつ、無理もない、と心に呟く。
 アレクにとってサイファは種族こそ違えども、心を許した友なのだ。いつかアレクはシリルに言った。自分とサイファは心の持ちようが似ているのだ、と。シリルはウルフではなかったから、そのことに対して嫉妬はしない。ただ、少し羨ましいとは、思った。そのような友を持てたアレクが。アレクにそう思ってもらえたサイファが。
「あらまぁ」
 アレクの焦りを表したかのような声。そのくせ、それを悟られるのを極端に嫌う彼はあえてのんびりとした驚きを作ってシリルを振り返った。
「それ、やめてってば」
「なにをよ?」
「だからそれ」
 あからさまに溜息をついて見せシリルは力なく笑う。そしてはじめからわかっていたとでも言いたげなアレクのにやりとした笑みに出会った。
「だってアタシ、女の子だし?」
「誰がだよ!」
「アタシよ、アタシ」
 ひらひらと手を振る指は女のもののように白い。だが、剣だこのできた手を持っている女など、そうはいない。
「行くわよ、シリル?」
「はいはい」
 溜息を一つ。アレクが先程の驚きなどなかったことにしてサイファの塔を見上げた。それはいま、二人を前にして大きく扉を開いていた。
「なんかアタシたちがきたの知ってるみたいよねぇ、これって」
 恐れる必要などどこにもないはずなのだが、人気のない魔術師の塔というものはやはり、少し怖い。まして誰もいないのに扉が開いたのだ。
「知ってるんじゃない?」
 アレクに追いすがり、シリルはそして追い越す。ここがサイファの塔ではないかのようなシリルの態度にアレクはひっそりと笑った。
 昔、二人でたくさんの場所を歩き回った、冒険もした。廃墟の探索も覚えた。そのころのようなシリルの態度だった。
「そうなの?」
「どっかから見てたんじゃないのかな」
「なるほどねぇ」
 魔術師ならばそのようなことも可能なのだろう。アレクはシリルの言葉にうなずき、そして呟く。
「サイファってば便利さん」
「アレク……」
 たしなめようとしたのか溜息をつこうとしたのかシリルの声は判然としない。ゆっくりと塔の中を見回しつつアレクの口許に笑みが浮かんだ。
「さ、あがりましょ」
 すぐそこに階段がある。サイファがここにいない以上、きっとこの階段を上がって来い、と言うことなのだろう。
 それがどこか不安だった。サイファが姿を見せない。よもやウルフに何かがあったのだろうか。二人の決別が確定的になって、それでもウルフを見殺しにするには忍びないサイファは、自分たちに彼を預けようとでも言うのだろうか。
 アレクは自らの想像にぞくりと体を震わせて、そして階段を睨みあげる。その肩をシリルが叩いた。
「なによ?」
「変な想像してない?」
「別に。してないわよ」
「嘘。してるって顔だな」
 ふっとシリルの唇がほころんだ。それだけで、どうしてこんなにも心が軽くなるのだろう。サイファもこの歓びを体中で知ればいいとアレクは思う。
 そうすれば、ウルフを拒むことなどできないはずなのだから。互いにあれほど思いあっているのにすれ違っているとしか、アレクにはどうしても思えなかった。
「大丈夫だよ」
 ただそれだけ。たった一言がアレクの気持ちを楽にする。なんの保証もない言葉。あるのはただシリルが言ったという事実だけ。そしてアレクにはそれで充分だった。
 ゆっくりとうなずいて、アレクは階段に足をかける。すでにシリルは前を歩いていた。頼もしくなった弟の背中を見ながらアレクは少し寂しい。
 あれほど小さかった彼が大きくなったのはいつのことだろう。細かった肩が逞しくなったのは。薄い背中が厚みを帯びたのは。
 思い出そうとしても中々思い出せなかった。それほどずっと側にいた。だからアレクはサイファが少しばかり羨ましい。
 サイファはこれから大人の男になっていくウルフを見ることができる。少年期から劇的な変化を遂げるウルフを見ることができる。ずっと側に居続けなかったからこそ、それは新鮮に映るはずだった。
「アレク。気をつけて」
「なにを……」
 問おうとした体が傾いだ。突然のことだった。いきなりすさまじい眩暈を感じる。何が起こったのかがわからない。気づけば階段に膝をつきかけ、その体をシリルの腕が支えていた。
「シリル……」
「すごいね、サイファ」
「なにが――」
 感嘆しきりと言った顔をしているのを、ようやくアレクは見定めることができた。吐き気が徐々に治まっていく。
「ただの階段に見えるけど、これ、魔法空間みたい」
「どういうこと?」
「ほら、半エルフの隠れ里があったでしょ? あんな感じで狭い場所に巨大な空間を構築してる」
 辺りを見回すだけでシリルにはわかるのだろう。アレクには少しもわからなかったけれど、シリルが納得しているのならばそれでよかった。
 自分にわからないものの正体は彼が理解する。彼がわからないものは自分が判断する。そうして生きてきた二人だった。
「慣れないうちは気持ち悪いと思うけど。仕方ないよね」
 肩をすくめてシリルが言った。アレクはとりあえずうなずいて、何がなんだかわからない。そして歩きはじめて理解した。
 一歩ごとに異なる吐き気がアレクを襲った。揺らいだかと思えば引き伸ばされ、かと思ううちに今度は押し潰され、立ち直る隙もないうち内臓をかき回される心地になる。呻き声も上がらなかった。
「もうちょっとみたいだよ。頑張って」
 励ますシリルの声がなかったならば、アレクは一歩たりとも進めなかったことだろう。これがサイファの塔であると知らなければ、何かの悪意ある罠だと思うところだった。
「お疲れ様」
 ほっと息をつきかけ、そしてアレクの息が止まる。放たれた声はシリルのものではなかった。
「坊主!」
 扉の前、困った顔をしてウルフが微笑んでいた。アレクは目を瞬く。ウルフだった。ウルフのはずだった。
「ずいぶん、背が伸びたね」
「まぁね、育ち盛りってやつかな」
「久しぶりだね、ウルフ。元気そうでよかったよ」
「ごめんね、シリル。心配かけたよね、アレクも」
 頬の辺りを指でかき、ウルフが照れて笑っていた。アレクを驚愕の縁に叩き込んだもの。それはウルフの紛れもない成長振りだった。
「ずいぶん、大きくなっちゃったわねぇ」
 思わずアレクは女言葉で呟いて、ウルフをぎょっとさせた。それを気に留めもせずアレクはシリルの腕を引きウルフと並ばせる。
 そのようなことをするまでもなかった。一目瞭然、ウルフのほうがずっと背が高くなっている。何度見ても見間違いではない。シャルマークの旅の間は、さして変わらなかったというのに。
「うん、俺もちょっとびっくりした。こんな伸びると思ってなくて」
「そうよねぇ。何食べたらそんなに伸びるのよ?」
「知らないって」
 朗らかなウルフの笑い声。何よりそれはアレクの嫌な予感を振り払う音だった。懸念が解け消えていくのを感じる。
「坊やってば――」
 そのあとアレクがなにを続けるつもりであったにしろ、言葉を発する機会はなくなった。
「いつまでそんなところで立ち話をしているつもりだ。客はさっさと案内するものだ、馬鹿!」
 室内から響いてくる声。サイファのもの。アレクはその声に含まれたものを敏感に感じ取る。ウルフの言い訳もシリルの顔も見ていなかった。ウルフが立つ扉を自分で開けて中に飛び込む。
「サイファ――!」
 何を言うつもりだったのだろう。自分でもアレクはわからなかった。テーブルの上、茶の支度を黙々としているサイファ。ちらりとも目を向けない。
 その彼にアレクは自分でも知らず、飛びついて抱きしめていた。
「アレク! なにをするか――」
 驚いたサイファの声。咄嗟にテーブルに持っていたものを置いた。かつり、と重たい音がする。
「アレク、危ないよ。火傷するって」
 ウルフが背後で笑っている。それでどうやら彼が持っていたのは茶のポットらしいと知れる。そのようなことは、どうでもよかった。
「シリル、妬ける?」
「別に。君は?」
「俺? 実はすごい妬ける。いいなぁ、アレク。俺があんなことしたら――」
 言葉は続くことはなく、シリルが視線を移せばウルフが呻いていた。
「ウルフ?」
 大丈夫か、とは聞かなかった。サイファが投げつけたカップの一つが腹に命中したらしいけれど、ウルフがよけられないはずはない、とシリルは知っていた。
「痛いでしょ、サイファ」
「うるさい、馬鹿!」
 抗議など、自分の知ったことではないとばかり嘯くサイファ。だが、本当のところ、それどころではなかった。
 自分の肩口にアレクが額を埋めている。荒い呼吸。なんとか心を静めようと努力しているのは、よくわかる。そしてそれを果たせずにいることも。
「アレク」
 何を言っていいのか、わからない。だからサイファは黙ってアレクの背中を軽く叩き続ける。まるでなだめるように。
「どれだけ……」
 掠れた声がしたのは、ずいぶん経ってからのような気がした。
「なに?」
「どれだけ心配したと思ってるんだ、この馬鹿半エルフ!」
「な……」
 荒々しいアレクの声。やっと顔を離したアレクの目を見てしまったサイファは何も言えなかった。紫の目が、濡れている。
「こんなに長い間放っといて。見ろ、坊主はあんなにでかくなっちまって! このままほっといたらそのうち天井突き破るぞ!」
「そんなに時間が経ってるものか」
「そんなにでかくなんないってば」
 どこかずれた二人の返答。シリルが笑っていた。アレクには、見なくともわかる。腹を抱えて笑っているシリルの姿が。
「坊主がこんなになる程度には、時間が経ってるんだよ、サイファ」
「生憎、馬鹿な半エルフは人間様とは時間の感覚が違ってな」
 皮肉な声でサイファは返す。アレクが茶化したいのならば、つきあうつもりだった。アレクの示す強い感情は、いつもサイファを揺さぶる。ウルフが泣こうが喚こうが、たいして気にも留めないサイファだったけれど、アレクの涙にだけは、弱かった。
「あら、認めたわね? じゃ、人間様はお茶が飲みたいわぁ」
「止せ、それ……」
 久しぶりに耳にしたアレクの女の声。眩暈がしそうだった。そしてそれがアレクの言う時間なのだとサイファは気づく。
 時間が経っていることがわからないほど、子供ではなかった。確かに幼いころは人間のよう時を計るのが苦手だったけれど、いまはわからないはずもない。それでも人間と半エルフの差を見せつけられる思いだった。
「だいたい、いま支度をしている最中だったんだ!」
「はいはい。サイファ、お茶淹れて? シリル、いらっしゃいな」
 言ってアレクはサイファから離れ、さっさとテーブルについた。その前にサイファの目の中をさりげなく覗いて。溜息まじりシリルが笑って隣に座る。
「若造、手伝え」
「はいはい」
 むっつりとサイファが言うのは、照れ隠しだろうか。皿の上に乗った大きなケーキをウルフに手渡し、切り分けさせている。
「自分の分だけ大きく切るな、何度言ったらわかる」
「俺のにするってどうしてわかるの」
「そのつもりではなかったとでも?」
 サイファの冷笑。ついアレクは吹き出し、気づけはシリルの同じ声が重なっていた。
「なにか言いたいことでも?」
 心持、顎を上げてサイファが言い放つ。アレクは笑って手を振るばかりだった。そんなアレクをサイファは見なかったことにして茶の支度を続けた。
「意外と言ったらなんですが、手際いいですね」
 あっという間に菓子も茶も並んでしまった。シリルがそれに少しばかり驚いた顔をする。サイファはかすかに笑って首をかしげた。
「別にこういうことをするのは嫌いではないのでな」
 そして手振りで菓子を勧め自分はテーブルに頬杖をつく。ウルフがぱっと顔を明るくして真っ先に菓子を口に運んだ。
「坊やが大きくなったのは、お菓子のせいだったのねぇ」
 アレクの笑い声。ウルフは違う、と言いたいのだろう、首を振っているが言葉にならない。口いっぱいに菓子を頬張っていた。
「あら」
「へぇ」
 兄弟の声が重なる。やっと飲み込んだウルフがにんまりとした。
「おいしいでしょ?」
「驚いたわ」
 正直に言って、宮廷の菓子職人にも引けを取らないできだった。いったいどこで求めたものなのだろうか、とアレクは思う。そして嫌な予感がした。
「よもやと思うが、アンタが作ったとか言わないよな?」
 ころころ変わる口調にサイファは額を押さえ、そして溜息をつく。
「私が焼いた。悪いか」
 額を押さえた手の下で、サイファはかすかに笑っていた。指の隙間から兄弟を窺えば、このようなときばかりよく似た顔をして驚いていた。
「アンタ、魔術師廃業しても食ってけるな。俺が保証する」
「お前の保障など不安なばかりだが」
「どこがだよ?」
 唇を尖らせたアレクをウルフが笑う。その前に、ちらりとサイファを窺ったのをアレクはしっかりと見ていた。
「ところでサイファ?」
 にんまりとアレクが笑う。サイファはじっと彼を見ることもなく咄嗟に言葉を挟む。これ以上、何かを言われるその前に。
「見てのとおりだ。悪いか!」
 言い様サイファはウルフの頭を殴りつけた。呻くウルフなど目にも入っていないと言いたげに。
「仲良しさんでいいこと。アタシ、ほっとしちゃった」
 わざとらしく胸の前、指を組んで首を傾げたアレクの顔。サイファは言うべき言葉を見つけられず視線をあらぬ方へと飛ばす。その頬が、あからさまに赤かった。
「アレク」
「なぁに、坊や?」
「心配かけちゃってごめんねって」
「何よ、他人事みたいに。心配させたのはアンタもでしょ」
「うん、それはそうなんだけど。サイファがそう思ってるから。思ってても言えなくって――痛ってぇ!」
 物の見事に決まった腹への一撃に兄弟が声を上げて笑った。
 アレクは心の底から幸福だった。この異種族の友が、ようやく幸せになれたのだと知った。そして自分と言う彼の友が心にかけているのをわかっているからこそ、照れくさいだろうにこの姿を見せてくれた。そんな彼を友と呼べることが、幸せだった。
「なにをにやついている。お前まで!」
 まるでとばっちりのようサイファの怒鳴り声が飛んでくる。
「幸せだなぁ、アタシ。と思って」
 茶化して誤魔化したアレクの言葉。その紫が再び潤んだのを見てしまったサイファはそれ以上何も言わず黙ってもう一杯、茶を淹れてはアレクに勧めた。




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