とろりと酔った。一瞬、ウルフの心が自分のそれに触れたような気がする。錯覚だとわかっていた。人間の戦士と半エルフの魔術師では、それは望むべくもないこと。 それでもなぜか。そう思った瞬間サイファは飛び起きる。 「サイファ?」 不思議そうなウルフの声に正気に返った。黙って首を振っても懸念を浮かべた彼の目は晴れない。強いて笑みを浮かべ再び横たわる。 「なんでもない」 「そう?」 「あぁ……」 気だるげなウルフの声が少しばかり気恥ずかしい。共に塔に住み暮らすようになって、サイファの感覚ではさほど時間が経っているわけではない。 「サイファ」 半分、眠りかかっているような声をしてウルフは彼を呼ぶ。サイファはウルフの裸の胸に頭を乗せて目を閉じた。 ウルフが眠りに落ちるまでの短い間、彼が髪を撫でているのを感じていた。次第に遅くなっていく手指の感覚。 それにサイファは別のものを見ていた。苦いというにはあまりにも重い記憶。ウルフに動揺を悟られないよう、サイファはゆっくりとした呼吸を繰り返す。 眠れなど、しなかった。 「頼んでいいか」 肌を重ねた翌朝は、いつもサイファは不機嫌だ。それを知っているからウルフは苦笑するだけでサイファの態度を訝しいとは思わない。 「なにを?」 それでもどこかいつもとは少し違う、そんなことを感じてはいる。ただ、問い質しはしなかった。彼が話したくないのなら、聞きたくない。いずれ話す気になったら、そうしてくれるだろう。 「買物と、届け物だ」 むっつりと言うサイファにウルフはうなずいた。塔に住み始めたころは不思議だったものだ。これほど魔術師の塔が恐れられているというのに、サイファはいったいどうやって生活していたのだろう、と。 半エルフとは言え、食べもすれば眠りもする。本を求め薬を買う。サイファの一番の暇つぶしは魔法だから、それにも道具がいるものもある。殊に付与魔術には。金銀宝石がその辺から湧いて出るはずもない。 塔に暮らすようになってから、ウルフのそれが仕事だった。今までは別の方法で買物をしていたらしいけれど、サイファははっきりとは言わなかった。単に持て余しがちな時間を気遣ってくれているのかもしれない、とウルフは思う。 「んー。どこに?」 「村に薬草を買いに行って、それをサール神殿に持って行く。ジーノがいるはずだから、彼から代金と本をもらってくる」 「本? 神殿の?」 「違う。私の本だ。この前貸した」 サイファの言う「この前」とはどれくらい前なのだろう、とウルフは首をひねって少し笑った。ジーニアス神官長の年齢を考えれば、何十年か前でも不思議ではない。 「なにを笑っている」 「ん、ちょっとね」 「だから?」 「どれくらい前なのかなって、思っただけ。たいしたことじゃない」 「どのくらい? あぁ……この……春のことか?」 首をかしげて考えるサイファをウルフは笑う。思っていたよりずっと常識的な時間の経ち方だったらしい。 「ジーノがあそこにいるのを知ったのは、お前を運び込んだときだ」 「嫌なこと思い出させるなぁ」 「うるさい」 跳ねつける言い方の中にウルフは彼の心を感じる。サイファもまた、思い出したくもない記憶なのだろう。 長い年月を、殺されなければ永遠に生きる半エルフの記憶とは、いったいどのようなものだろう、とウルフは時々思う。 考えても仕方ないことだから、ウルフは考えない。にこりと笑って、サイファからどの薬草をもらってくるのか書きつけた紙を受け取った。 「それから……」 「まだあるの!」 「悪いか!」 「悪くはないけど……」 「けど、なんだ? 言いたいことがあるならはっきり言え」 「いいよ、いいです。行きます」 「その態度が気に食わないな」 ゆらりと近寄ってきたサイファの口許に笑み。ウルフはほっと心の中で息をつく。やはり、今朝はいつもの「朝」とは違う。 ようやく少しばかりほぐれたらしいサイファの顔にウルフはひたと目をあてて彼を見た。が、サイファはそれに気づきもしない様子で軽く片足を引く。 「ちょっと待った、サイファ!」 飛び退る余裕もなかった。咄嗟に体をひねったものの、思い切りよく振りぬかれた足が脇腹に命中する。 「待たない」 ふっと笑ってサイファは言った。溜息まじりウルフは体を起こす。壁に打ち付けられなかっただけ、よかったと言うべきだろう。 「もう、サイファってば。無茶するよ」 「どこがだ?」 実に不思議そうに言い、サイファは髪をかきあげた。その途端、ウルフの目に白い首筋が飛び込んでくる。 「なにを見ている」 低い声で脅しつけられた。虚ろに笑ってウルフは首を振る。知らず、後ろに下がっていた。 「なにも見てないって!」 恋人の肌に思わず見惚れたからと言って怒られる筋合いではない、とウルフは思うのだがサイファに限ってその理屈は通用しない。 もっとも、怒っているのではなく照れているのだとわかってはいるのだが。 「えーと。それからどこになにしに行けばいい?」 じろりとウルフを見やり、なぜかサイファは破顔した。そっとウルフの頬に彼の手が添えられる。 「サイファ?」 「黙れ、若造」 小さく怒られて、けれどウルフはそのせいではなく黙った。頬に感じる彼の唇。触れたかと思うまもなく離れていった。 「――ジーノから返してもらった本は、持って帰らなくていい。そのまま……シリルに届けてくれ」 「シリルに? 了解。神殿にいるよね」 「だろうと、思う」 「わかった。んじゃ、行ってくるから」 サイファの突然の行動には慣れたつもりだった。いまはきっと、一人になりたいのだろうとウルフは思う。 そうでなくては考えられない使いだった。普段のサイファならば、本を持って帰ってこさせた上で、自分でシリルのところまで魔法で跳んだだろう。 あるいは、自分でジーニアスのところまで行っただろう、とウルフは思う。それをしない、と言うことは、きっと一人になりたいのだ。その時間を稼ぐための、使いだとウルフは悟っていた。 「ウルフ」 背を向けたウルフをサイファが呼ぶ。振り返れば、どこか心細そうな彼の表情。手を伸ばしてくちづけた。 「できるだけ早く帰ってくるよ」 「あぁ」 「でも、ちょっとシリルと遊んでくるかも。いい?」 言ってウルフは軽く腰の剣に手をやった。それを見てサイファが小さくうなずいた。 「そうしてくるといい」 「んじゃ、行ってくるね」 「――頼む」 苦い声にならないよう、心がけたけれどウルフはどう感じただろう。朗らかに笑って出て行ったからといって、信用ならない。サイファはそう思っては溜息をついた。 「……すまない」 塔から彼の気配が消えたあと、ようやくサイファはそれだけを絞り出す。追い出したのだと、気づかれてしまった気がする。 「ウルフ」 長い使いを、シリルはどう感じるだろう。だがサイファは首を振った。 「言わない、だろうな」 ウルフはきっとシリルにはなにも言わないだろう。自分が剣の相手をして欲しかったから、ついでに本を持ってきたのだ、そう言う声がいまから聞こえる気がした。 「すまない」 もう一度言い、サイファは居間を後にした。体の中がざわざわとして落ち着かない。いまを逃せば、二度と確かめられなくなる、そんな気がしてサイファは一人になったのだった。 居間を出て扉を抜ける。ウルフが見れば息を飲んだことだろう。そこには彼が知らない廊下があった。居間の扉を開けたにもかかわらず。 一つ、二つ。廊下を進み扉を開けるごとに内装が古くなっていく。サイファはそれには目もくれず突き進んでいた。 サイファだけが知る廊下だった。いままで誰一人としてここを目にしたものはいない。それにもかかわらず、廊下は隠され、幾重もの封印がある。信じがたいほどの厳重さだった。 どれほど進んだのだろうか。サイファがぴたりと足を止めたのは、簡素な扉の前だった。この扉の向こうを隠すためにこそあった、数々の封印であるはずなのにサイファは扉を前にして動かない。否、動けない。 きゅっと唇を噛み、深く息を吸う。おずおずと上げた手は、まるで普段のサイファからは考えられない臆病なものだった。 サイファの掌が、扉に触れる。ふっと輝いた気がした。気のせいではなかった。サイファに感応して扉が最後の封印を解き放つ。ゆらり、扉が開いた。 そこは、ただの部屋だった。これほどまでのことをして隠さなければならない何かがあるとはとても思えない。 古い衣装箱。それから机。使い古した文房具がその上に乗っている。机の前の椅子は、あたかも誰かが座っていたかのよう、少しばかり引かれていた。 サイファはそっと机に触れる。わずかにナイフで削ったような跡がある。それを指先でたどっては懐かしそうな顔をする。 「リィ……」 そう、師の名を呼んだ。辺りをゆっくりと見回し、なにも変わっていないのを確かめる。変わるはずもない。そのための、封印だった。 この部屋は、リィ・ウォーロックの遺品を納めた場所だった。彼が亡くなり、彼の塔が崩壊する直前、サイファが運び出して移したもの。以来、一度も訪れたことはない。 「千年」 呟くよう言い、サイファは床に腰を落とした。椅子に軽く頭をもたせかける。そこにリィが座ってでもいるように。 「千年も前」 もう少し、経っているのかもしれない。どうでもいいことだった。リィは死んで還らない。サイファは強く拳を握る。 そのまま這いずるよう衣装箱の前に行き、中身を取り出す。懐かしい彼のローブの手触りだった。 「昨日、気づいたの。リィ。あなた、私になにをしたの」 知らず、子供の頃の口調に戻っていた。リィのロープを撫でながら、サイファは呟く。 「ウルフの心を感じた気がした。気のせいだと、わかってる。でも、私はあの感触を知ってる。リィ、あなた――」 同じことを、された記憶がある。たった一度。二度とリィはあのような接触の仕方をしなかった。それでも。 「リィ。あなた……」 肌を重ねはしなかった。その分、心を重ねた。それすら、ただの一度。サイファの指がローブを握る。 「私は、あなたのなんだったの。ただの弟子だったの」 違うことを、いま知った。ただの弟子などではなかった。最も愛された弟子でもなかった。リィにとって自分は。 「どうして、リィ。どうしてなにも言わなかったの」 強く握りすぎた指が白く震える。今にして理解した。リィが自分の他にはじめて迎えた弟子が半エルフであったわけを。 「私の、身代わり?」 同じ種族の別のもの。サリム。身近に置けば、サイファが欲しいのか、神人の子が欲しいのか区別がつくとでもリィは思ったのだろうか。 サイファは小さく笑った。皮肉な笑みだった。区別など、ついていたに決まっている。それでいて、リィはサリムを抱いた。 「リィ」 サリムのことは単に嫌いなだけだった。いまは、憎んでしまいそうだった。 「どうして」 黙っていたのだろう。わかっている。自分は、あまりにも幼かった。それをはばかったに、決まっている。だからあのような触れ合い方も一度だけ。 それでも。愛されていた。愛されていた。こんなにも、愛していた。リィのローブをかき抱き頬を埋めれば幻の匂い。 「リィ――」 千年前に枯れ果てたはずの涙が、今更あふれて止まらない。もう二度と泣くことなどないと思っていたのに。 「会いたい……」 定められた時を持たない半エルフ。それでも時は止まらない。過去に戻ることもできない。失ったものは、二度と還らない。 「リィ。リィ……。リィ――!」 サイファの声は、どこにも届かない。遥か遠く、死んでしまったリィ・ウォーロックにも。いまは旅の途次にあるウルフにも。 ウルフが帰ったとき、サイファはまだどこか虚ろな顔をしていた。そのくせ、ウルフがただいまを言うより先、腕の中に飛び込んでくる。 「寂しかった、サイファ?」 からかい半分にウルフの言葉に、サイファは唇を震わせる。ゆったりと髪を撫でる手にウルフを感じた。 「二度と――」 失わない。愛し合っていたことに気づくよりも先にリィは死んでしまった。今度こそ、失わない。サイファはウルフの背をきつく抱く。 「サイファ?」 「……なんでもない」 「そう?」 ウルフは言わなかった。嘘が下手だ、とは。代わりにそっと微笑んで頬にくちづけた。 「ただいま、サイファ」 引きつるようにしてサイファは笑みを浮かべる。それにつられたよう、強張りが少し解けた。 「おかえり」 長い使いに出してしまったウルフの顔を見上げる。なにも気づいていないように、見えた。それでいてなにもかもわかっているようにも見えた。 背伸びをして、ウルフの唇を掠めた。触れたともいえないくちづけに、けれどウルフが少し驚いた顔。ウルフがなにかを言い出すより前にサイファは彼から離れる。 「サイファ!」 さっさと向こうに行ってしまったサイファの背中に、もうウルフが帰ってきたときのような寂しさは見つからなかった。 |