あの日のあれは、間違いなく失敗だった、とアレクは窓辺で溜息をついた。長い金髪は、丁寧に編まれている。だがシャルマークにいたときのよう、シリルが編んだものではなかった。
 それを手慰みにしてもあまり心は晴れない。やはり、シリルがしてくれたのではない、そのことがアレクの心にかかっていた。
 いま彼は、王宮の一室でその身分に相応しい衣装をまとい、身分に相応しい侍女たちの世話を受け、身分に相応しい扱いをされている。そのどれもこれもが苛立たしい。
 ここにいるアレクは、アレクではなく王弟・アレクサンダー以外の何者であることも許されなかった。
 あの日、シャルマーク王宮崩壊の日、アレクがサイファから渡された首飾りで跳んだ先は、王宮から程近いマルサド大神殿だった。
 それ以外、考えつかなかった。シリルが、死にかけていたから。マルサド大神殿に行けば、シリルの師がいる。彼ならばシリルを救えるだろう、それしか考えていなかった。
 だが、それは今になってみれば間違いのない失敗だったとしか思えない。確かにシリルは救われた。だが二人して王宮に半軟禁だ。
「ぬかったよなぁ」
 装束に似合わない口調でアレクは窓に向かって呟く。
 当然といえば、当然なのだ。二人がシャルマークから帰還した、と神殿の者が王宮に知らせるのは。アレクはともかく、シリルは「王家の守護者」だ。彼が失踪していた間、兄王はさぞ不安な日々を過ごしたことだろう。それだけがアレクの心を皮肉に慰める。
「なにか、仰いましたか?」
 アレクは振り返ることなく密かに舌打ちをする。侍女がそこにいたことに気づかなかった。入室の許可を求められた覚えもない。つまるところ「身分に相応しい扱い」などこの程度のものなのだ。
「殿下。そろそろお支度をなさいませんと」
 三叉宮で、なにやら式典を催すという話しは聞いている。シャルマークの英雄とやらに仕立て上げられた挙句、兄の治世の道具にされるのかと思えば忌々しい。
「行かない」
 だからアレクは一言の元に拒絶し、侍女を追い払った。慌てふためいて出て行く音がする。
「ざまァ見ろ」
 侍女相手に憂さ晴らしをするしかない自分が情けない。だが、それくらいしか憂さの晴らしようがないのも事実だった。
 シリルとは、中々会えないでいる。それが憂いにいっそう拍車をかけた。いまもまだ、神殿でこってり油を絞られているのだろう。シャルマークから帰って以来、彼は毎日神殿で絞られ続けている。
「可哀想に」
 くつくつと笑うアレクは、そのときだけアレクの顔をしていた。が、一瞬にしてまた強張る。窓のガラスに侍女が映りこんだ。
「殿下、どうぞお召し替えを」
 無表情に言う侍女にアレクは一瞥をくれる。怯みもせず侍女は佇んだままだった。その手に抱える衣装にアレクは目を留め、内心でにやりとした。
「アタシ、ドレスが着たいなぁ」
 ひくりと、侍女の顔が引きつった。アレクはにんまりとし、ことさらめいて首をかしげる。
「真珠色のドレスなんか、とっても似合うと思うの。用意してくれたら着替えるわ」
「お戯れを、殿下」
「アタシはドレスがいいの。用意してちょうだい。ね?」
 完全に引きつった侍女が、物も言わずに出て行った。その背中にアレクは声を上げて笑う。久しぶりに、気分がよくなった。
 そのアレクの心地良さは長くは続かなかった。城中が騒がしくなっているところを見れば、そろそろ出立の時間が近づいているのだろう。
 着替えろ、とうるさく言われなくなったのは、きっと兄王さえも自分を連れ出すのを諦めのだろう、とアレクは思う。所詮、英雄の名にはシリル一人が相応しいと思っているような兄だ。いっそアレクはいないほうが都合がいいとでも思っているのかもしれない。
 もっとも、それならばそれでアレクはよかった。儀式だの宴だのは面倒で嫌いだった。兄王からは疎まれてはいない。ただ無関心なだけだ。そしてそのほうが、人の心を傷つけるものだと兄王は知らない。兄王の目が自分の上を素通りしていくたび、廷臣たちの淡い嘲笑を浴びるのは、アレクの誇りが許さなかった。だから公の席には出たくないのだ。
「思い出すだけで腹が立つ」
 呟いたのは、帰還の日にも浴びせられた無関心と嘲笑。すべてがアレクの上を通り過ぎ、シリルへと注がれていた。
 シリルが評価されるのは、嬉しい。だが自分が無視されることでシリルもまた傷つく。それをアレクは知っていた。それだけが、慰めだった。
 そんなことを思っていたせいだろうか、不意に叩かれた扉にシリルを思う。いまここに彼がいてくれたならばどんなに。
「いいかな?」
 ノックに答えもしないうちに開かれた扉に、アレクは怒りはしなかった。それをしていいただ一人がそこに立っていた。
「シリル。お前、何してるんだ、こんな時間に」
「アレクの用意が済んでないって侍女が金切り声上げて呼びにきた」
「……悪い」
 肩をすくめて言うシリルにアレクは申し訳なさそうに言った。けれど声からは喜びがあふれ出して止まらない。
 それを感じ取ったよう、シリルも顔をほころばせてアレクの側へと寄った。なにをするのかと思ううち、彼はそっと背伸びをして唇を頬に掠めさせた。
「シリル……」
 すでに整った神官服の腰を抱き寄せ唇を重ねる。抗わなくなった彼の唇を、熱に応えてくれるようになった彼のそれを感じているだけでわななきを覚える。
「放して、アレク」
 言ってシリルが息を整えた。そんな仕種が愛しくてたまらない。最前、侍女が見たのとはまるで別人のアレクがそこにいた。
「行かなくていいのか」
「アレクが着替えたらね」
「俺は……」
 抗弁するより先にシリルが振り返って手を打つ。弾かれたよう、侍女が入ってきた。その手に抱えているものを見て思わずアレクは天を仰いだ。
「お前なぁ」
 シリルをねめつけても何も聞こえないと言いたげな顔をしてにっこりと微笑うのみ。不穏な気配を感じたアレクは知らず窓辺に寄りかかっていた。
「ドレスが着たいって仰せだったからね。用意させたけど?」
「シリル!」
「なに? ほら、真珠色のドレス、きれいだよ」
 言ってシリルは侍女の手からドレスを取り上げ掲げて見せる。高い襟のドレスは、確かに美しいものだった。清楚な線がいかにも王家の者に相応しい。が、まるでサイファのようアレクは頭痛をこらえていた。
「袖口のレースもきれいだよ、ちょっと薔薇色がかっててね。ほらアレク、ペチコートとおそろいなんだよ、こっちも裾のところが薔薇色でしょう?」
「お前なぁ」
「それからマントもね。こっちは深紅にしたよ、威厳を添えてくれる。ティアラは真珠がいいね、未婚の王女らしく」
「シリル!」
「なに?」
「いい加減にしろ」
「だって真珠色のドレスがいいんでしょ、アレクは」
 シリルの顔には笑みがあった。誰が見ても穏やかな、王子らしくかつ神官らしい笑顔だ。だがアレクだけはその後ろに押し殺された怒りを見て取ることができた。
「ねぇ、アレク」
 だからシリルがそう話しかけてきたとき、アレクはすでに下がる場所がないのを忘れて下がりかけた。
「僕を一人で三叉宮にやるつもり?」
「それは……」
「アレクが行かなかったら、僕だって行きたくない」
「お前は――」
「それにね、ウルフの消息がわかるよ」
「坊主の?」
 シリルがにんまりとしたのについ引き込まれた。何度か瞬きをする。そして乗せられてしまったのを知った。
「坊主は、あっちじゃないのか。サイファと」
「違うみたいだね」
「それは、どういう……」
「行けばわかるよ」
 アレクは混乱した。ウルフはサイファと共にいるのだとばかり思っていた。あのとき確かにウルフは死んだ。そして蘇生したかどうかを兄弟は知らなかった。
 だがアレクは信じていた。きっとウルフは生き返って、そしてサイファと共にいるはずだ、と。サイファから連絡がないのが、何よりそれを証し立てているように思えたのに。
「サイファは……」
 ウルフが共にいると思えばこそ、アレクはサイファに連絡をしようと思わなかった。彼らが過ごす蜜月の邪魔をしたくなかった。
 だがいま目前でシリルが痛ましげな顔をして首を振っている。ウルフの消息がわかる、そう言ったのだから生きてはいるのだろう。だが、いったい。
「ちょっと待て!」
 アレクの顔色が変わった。思考が飛び去り飛び来る。わずかの間にアレクは正解へと辿り着いていた。
「そのとおり。冗談みたいだよね」
 互いの顔を知らなかったのが災いだったのか幸いだったのか。行方不明のミルテシアの王子。同じくラクルーサの二王子。シャルマークの平定。三叉宮での式典。すべてが一つにつながった。
「冗談じゃない。サイファ!」
 ならばいま彼は一人で塔にいるのか。ウルフに捨てられたとすら感じているかもしれない。あの誇り高いサイファが。よく似た者同士、そう笑いあったことがあった。居ても立っても、いられなくなった。
「アレクってば本当にサイファが大好きだよね」
「それは坊主の口真似か?」
「うん。でもそうじゃない?」
「うるさいよ、シリル」
「で、行くの、行かないの」
「行くに決まってんだろ!」
「ドレスで?」
 茶化したシリルの口調にアレクはひと睨みをくれ、強張ったまま立ち尽くす侍女を振り返る。案の定、別のものも持っていた。
「行っていいよ、兄上のお支度は僕が手伝うから」
 言うなりいままでの硬直振りは何だったのだろうかという勢いで侍女は飛び上がり、走り去った。そんな侍女の態度にシリルは溜息をついたけれど、アレクとしてはかまってなどいられない。気ばかり急いて乱暴に衣装を手に取った。
「アレク。僕がするから」
 笑ってシリルがアレクの手から装束を取り上げる。吟味する気も起きないアレクはシリルが着せ付けるまま、言いなりだった。
「うん、よく似合うよ」
 しばしの後、姿見を引きずってきたシリルが惚れ惚れとしてそう言った。映し出された自分の姿に思わずアレクも目を奪われる。
「王子殿下らしくなったね?」
 悪戯をするようシリルが笑い、座らせては急いで髪を編みなおした。鮮やかな金の綱が、深い紫の胴着の前へとまわされてよく映える。
「我ながらびっくりだわ、アタシ」
「それ、廷臣の前ではやめようね」
「誰がするかよ」
 にやりとし、一転して男の声でアレクは笑う。シリルは溜息をつきながらも彼の手は、胴着の袖に走る切込みから覗く白のシャツを整えていた。
「あ、サークレット」
 慌ててシリルは用意の額冠を取り上げ、慎重にアレクの頭に載せた。そして肩にマントを羽織らせ、王家の紋章入りのピンで留める。すべてを終えたシリルは一歩下がって自らの作品を存分に堪能した。
「惚れ直したか?」
「これ以上惚れ直せるものならそうしたいね」
 嘯いてシリルは笑って見せた。それがどことなく不自然だった。だからシリルもまた、逸っているのだとアレクは悟る。いったい何が起こっているのか知りたいと。そして彼もまた、仲間を案じていた。
 アレクはシリルの目を覗く。どこにでもあり、それでいてこの上ない貴重なもの。よく似た色合いを思った。そしてサイファを。
「行こうか」
 ゆっくりとアレクは言った。すでに出立の準備が調ったと触れ役が声を張り上げている。何も知らない人々がお祭り騒ぎをする中へ、兄弟は下りて行った。




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