サイファは怒りに震えていた。小さな書庫の中である。ウルフが塔に暮らすようになって、彼は読書を覚えた。
「本くらい、俺だって読むって」
 ぶつぶつとウルフは文句を言っていたけれど、サイファはどうだか知れたものではない、と相手にもしなかった。
 実際、本を読むなどと言う娯楽は上流階級に限られたものだったし、庶民の間では読み書きができる者の数のほうが少ない。
 もっとも、ウルフに本が読めるだろうことくらい、サイファにはわかっていた。何しろとても信じがたいことだけれど、彼はミルテシアの王子様なのだ。一応の勉学くらいは修めている。その気になれば理解はできないまでもサイファの魔道書くらい読むことができたし、文字を書かせれば中々綺麗な字を書く。と、サイファは思っているが自他共に認める悪筆だった。
 だからそんなウルフのためにサイファは小さな書庫を塔の中に作った。
「ねぇ、なんで?」
「なにがだ」
「わざわざ書庫、作ることないんじゃない?」
「お前に私の蔵書をいじられたくない」
 きっぱり言ったサイファに、ウルフは少しばかり悲しそうな顔をする。騙されてやるものか、とそっぽを向いてその実サイファには彼の態度が気がかりだった。
 きっとウルフは考えている。サイファは自分の蔵書、と言った。けれど本当は違うことを。ウルフにだろうとも、リィの本に触られたくないのだと、考えている。そしてそれはあながち間違いではない。
 互いに考えていることがある程度わかってしまうから、サイファは迂闊なことが言えないのだ。だが殊この問題に関してだけは、サイファは譲らない。結局折れたのはウルフだった。
 そうして作った彼のための書庫に収められたのは、ウルフが好みそうな戦記物だとか、他愛ない歴史書だとか、神話伝説、それも子供向け。神殿で読み聞かせる類の本ばかり。それでもウルフは嬉々として読んでいた。
 案外、好きなのだなと最初こそサイファは微笑ましく思っていたのだ。だが、とサイファは彼の書庫で体を震わせる。
「……この有様は、なんだ?」
 座り心地のいい長椅子に、ウルフが寝転がって本を読んでいた。きょとんとサイファを見上げ、なにがなんだかわからない、と目を瞬いている。
「サイファ?」
「これは、なんだ?」
「なにって……」
「どうしてこれほど散らかせるんだ、お前は!」
 こういうところが、王子様なのだ、とサイファは思う。もっとも、かつてわざわざラクルーサまで出向いてアレクに愚痴を言って知ったことだった。
「仕方ないわよ」
「どうしてだ」
「あのね、サイファ。王子様ってね、普通は自分じゃなんにもやらないものなのよ」
「お前は違うだろうが」
「アタシ? 例外は何事にも存在するわ」
 嫣然と笑った男に眩暈を覚え、サイファはならばウルフも例外だ、と思う。あれほど王家の者らしくない男もいない。それなのに、片付けだけが異様に下手だとは。
 そして違う、とサイファは気づく。ウルフは自分の武器防具の類はきちんと整理整頓を心がけている。サイファの目にもそれは美しく整っている。だから、ウルフができないのは片づけではなく、本の片付け、だった。王子もなにも関係がない。純粋に、本を片付ける気がないだけのこと。
「仕方ないわよ、サイファ。坊やだもの」
 肩をすくめて言った友にサイファは溜息をつくことで同意に代えた。
 だから、半ば諦めてはいるのだ、ウルフが自分の書庫を散らかすのは。彼のための書庫なのだから、好きなように使えばいい、とも思う。
「……が、物事には限度があると、私は思う」
「あー、サイファ。もしかして、怒ってる?」
「もしかして?」
「怒ってるよね?」
 恐る恐る言いつつ体を起こしたウルフをその場で殴らなかっただけアレクに褒めて欲しい、と内心でサイファは溜息をついていた。
「せめて出した本は片付けろ。積んだままにしておくな。読んだらしまえ、その程度のことがなぜできん」
「だって、まだ読んでるし」
 子供のよう、唇を尖らせたウルフを今度こそ殴りたくなった。それを悟ったのだろう、咄嗟にウルフは飛び起きて難を逃れる。
「誰が読んでいる最中の本のことを言っている?」
 サイファの指が床を指す。そこには正に散乱している、としか言いようがない本があった。魔術師の性だ。本を蒐集してしまうのは、そして大切に扱うのは。このような他愛もない本であっても、サイファとしては乱暴に扱って欲しくない。
「あー、えーと、その」
「お前の頭についている耳は、飾りか?」
「サイファ!」
「違うな。耳が飾りなのではないな。頭が飾りか、と聞くべきだった、訂正しよう」
「そりゃないって!」
「ならばなぜ、言ったことがわからない。そうか、わざとか?」
「違う、違いますって!」
 サイファの不機嫌は、どうやら別のところにあるらしい、とようやくウルフにも見当がつく。本のことは確かに怒りの表出の原因ではあろうけれど、発端はなにか別のもの。
 そしてそれに自分はたぶん、関係がない。間違いなく、八つ当たりだとウルフは感じ取る。サイファが常々「よけいなところばかり鋭い」と言う獣的な勘がそう告げていた。
「いま片付けるからさ」
 できるだけ朗らかに言って、本を拾い上げてサイファを窺う。まだ唇を噛んで彼はそこにいた。
「何度言っても聞く耳持たないくせに」
「持ってるって」
「すぐに忘れるくせに」
「……できるだけ覚えとく努力はするからさ」
「お前からその言葉を聞くのは、何度目だ? 私はなにか、自分の忍耐力を試す訓練でもしているのか?」
「だから、サイファ。ごめんってば!」
「お前なんか大嫌いだ!」
「俺もサイファが大好きだよ」
「うるさい、黙れ! これだけ口を酸っぱくして言っているのに、お前は――」
 突然、サイファは言葉を失った。いままでそこでおろおろしていたウルフに、抱きすくめられている。嫌ではなかったが、驚いた。
 くちづけに、酔わされてなるものかと憤然と体を離せば、急に頼りない心持ちになる。唇を噛みしめて、ウルフを睨み上げた。
「酸っぱい? 俺には甘いけどなー」
 わざとらしい勘違いの言葉。あからさまにやってみせているのだとわからないサイファではない。ゆっくりと息を吸って文句を言いかけ、だが言葉が巧く形にならない。
「若造……」
 サイファの地を這う声など聞こえないふりをしてウルフは嘯く。あえてにっこりと笑ってもう一度軽く唇を重ねた。
「あんたの唇は甘いよ。怒鳴ってても可愛いね、サイファ」
 すっとサイファから感じる視線の圧力がなくなった。ウルフは心の中で息をつく。
「ほう……」
 だが、それは早計だったらしい。顔を上げたサイファは目を煌かせて微笑んでいた。ウルフにとっても、あまり見たい顔ではない嬉々として怒り狂うサイファの表情。思わず下がりかけた体をサイファの腕が引き戻す。
「襟首掴むなって!」
「なにか言ったか? 聞こえないが」
「サイファー」
「どうやら私は甘いらしい」
「あんたのキスは――」
 言いかけた言葉をサイファの笑顔が奪う。引きつってウルフは逃げようとしたけれど、かなわない。
「いままでの私は、甘かったのだな。そうか、手緩いか……」
「違う、サイファ。それは違う!」
「聞こえんな……」
 にこりと、それこそ甘やかに微笑んだサイファにウルフが叩きのめされたことは言うまでもない。思う存分ウルフに相手をしてもらったサイファの機嫌がよくなったことも。
「坊やってば、いい子よね」
 後日、青あざの残る顔のままラクルーサに赴いたウルフをアレクが笑う。
「どこがだよ」
 むっつりとしてウルフはそっぽを向いた。その顔をシリルが押さえつけては笑いをこらえつつ神聖呪文をかけてくれる。
 瞬く間に治っていく怪我が、ほんの少しウルフは寂しい。そんなことを言えばアレクに笑われるのはわかっているからなにも言わなかったけれど。
「サイファになんで殴られるのよ、アンタ」
「別に」
「なんで逃げないのよ、痛くないの」
「俺が逃げてどうするのさ」
「だから、いい子だなってアタシ、思うの」
 どこから見ても美女の顔をしてアレクが笑う。シリルまで兄と一緒になって笑っていた。
「君は逃げられるのに、逃げないんだよね、ウルフ?」
「そりゃね。魔術師に殴られるほどとろくないよ俺だって」
「そこが優しいねってアレクは言いたいんだと思うよ」
「優しいっていうより、歪んでるわよねぇ」
「どこが?」
 心底不思議でたまらない、そんな顔をして言うウルフにアレクは騙されなかった。
「サイファの愛の告白も間違ってるけど、アンタの受け止め方もおかしいわよ」
 指を突きつけて言って、そしてアレクは笑い出す。シリルに視線を向ければ、処置なしとばかり肩をすくめている。
「いいじゃん、サイファの気晴らしになったんだからさ」
 ぽつりと言えば、二人揃って顔を見合わせてはまた笑い出した。なにか言い返そうとしたとき、扉が開く。
「どうした」
 入るなり注目を集めたサイファは怪訝な顔をして三人を見やった。
「なんでもないわ」
 柔らかな笑みを浮かべて、アレクは断固として口を開かない。実に賢明な態度だ、とシリルがこっそりウルフに耳打ちをした。




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