アレクの、と言うよりアレクサンダー王子のたっての願いでなぜかこんなところに来ることになってしまった。
「帰りたい……」
 ウルフは笑いさんざめく人々に聞こえないよう、そっと呟く。
 物凄く場違いだ、と思う。どうして自分が城の舞踏室にいるのか。それも正装して。さすがにミルテシアの王子としてのそれだけはアレクに断念させたけれど、それでも充分すぎるほど華やかでかつ、ウルフにとっては面倒だ。
「ま、ミルテシアじゃないだけましか」
 嘯いてみるけれど、本心では少しもよくはないことを知っている。ミルテシアの王城ではないだけで、ラクルーサの王城なのだ、気分的に大差はない。
 こんな目にあわせた当のアレクはこの場にいなかった。どうやら席をはずしているらしい。そもそも、こんなときにシリルがいないのが元凶だ、とウルフは思う。
 聞いた話によれば、アレクの結婚話が持ち上がっているらしい。
「絶対に嫌だ!」
 ウルフにまで鼻息を荒くしてアレクは言っていた。が、アレクの兄王はどうやらシリルから彼を離したいらしい。
 「王家の守護者」ともあろうものが王ではない兄にかまけているのが不快なのだろう、とウルフは思う。そのあたりは自分の父王によく似ている、そうも思う。
「国王陛下なんかそんなもんか」
 ちらり、と遠くの上座にいるらしいラクルーサ王を彼は見やった。舞踏会に出席することは一応、知らせてある。
 身分剥奪、国外追放となった自分が公式の場に出てよいものかどうか迷ったのだが、ラクルーサ王国としてはある意味ミルテシアに対する牽制と言う意味もあるのだろう。是非に、とかえって国王に言われる始末。難色を示されることを期待していたウルフのそれは儚くも裏切られたことになる。
 結局、ウルフはいまここにいる。言うまでもなく一人で。サイファをこのような場に誘うのは言うだけ無駄だったから、ウルフは端から諦めている。
 舞踏室を巡り歩く小姓からよく冷えた白ぶどう酒を受け取ってウルフは飲み下す。さっぱりとしていたが、気持ちまで晴れたかといえばそのようなことはない。
 アレクは間違っても結婚なんかしたくないのだとわかってはいる。自分もそうだから、気持ちはよくわかる。それでも。
「巻き込むなよー」
 呟いてしまって、それがサイファがあのころ漏らしていた言葉によく似ていてウルフはひっそりと笑った。
 室内楽団の面々が、実に美しい音楽を奏でている。ミルテシアのそれに比べて、ラクルーサの音楽は少しばかり荒々しいようにウルフは思う。きっとアレクに言わせば、ミルテシアの音楽は軟弱だ、と言うことになるのだろうけれど。
 待ちきれないのだろう、貴婦人たちはこぞって主役の登場を見張っている。アレクが現れなければ、誰も踊れない。だからそれはアレクを待っているのではなくて、主役を、待っているだけのこと。
 嫌なものだろうな、とウルフは思う。国での立場が多少、アレクと似ていたのだとはじめて気づいた。カルムも要らない王子だった。アレクもまたそうだったのだろう。
「んー」
 自分より悪いかもしれない。アレクは今現在でも、要らない王子なのだ。思った途端に気が滅入る。早く塔に帰りたくてたまらない。が、似ていると思ってしまったからには引けなくもなる。
 ざわり、気配が動いた。貴婦人の視線が一点を見ている。男たちもまた、同じところを見ていた。
「あ……」
 つられて舞踏室の扉を見やったウルフは声を上げることになる。アレクが現れていた。それも貴婦人を連れて。
 何よりまずそのことに驚いた。結婚なんか嫌だと言っていたではないか。それが親しそうに目を見交わしている。
 ようやく貴婦人にウルフの視線が向いた。軽くアレクの腕にかけた腕のしなやかさ、指の細さ。高く結い上げた髪から零れ落ちた濃い蜂蜜色の巻き毛が、両肩に花を添えている様。ほっそりとした首筋、過剰ではなく慎ましすぎもしない胸元の開き具合から覗く胸の白さ。勿忘草色のドレスなど、目にも入らなかった。
 いつの間にか楽団が舞踏曲を演奏していた。アレクが彼女の手をとって中央へと進み出る。ウルフは目を奪われていた。
「すごく……」
 綺麗だった。うっとりとしてただ彼女だけを見ていた。ステップを踏んでいるはずの足のその滑らかさ。時折、悪戯をするようアレクを見る目。きゅっと胸が痛くなる。
 最初の一曲が終わったとき、ダンスを許された人々が広間へと散っていった。ウルフの目はアレクを、むしろ彼女を追う。国王の前へと進んでいた。
「彼女以外の誰とも結婚しません」
 アレクの宣言とも決別とも言えるような声音にウルフはぎくり、と体を震わせる。彼女はそっと目を伏せて国王の視線に耐えているようだった。
「悪かったな」
 するりと声が忍び込んできて、いつの間にかアレクが側に戻ってきたのだとウルフは気づいた。
「ううん」
「シリルがいれば、な」
「まぁ、そうだよね」
 苦笑いをするアレクの傍らに、あの貴婦人が立っていた。笑みを浮かべるでもなく、不機嫌そうでもない。ただそこにいる。ウルフはそっと笑みを浮かべた。
「一曲、踊っていただけますか?」
 手を差し伸べれば、かすかに驚いた顔をする。はじめて彼女の表情が間近で動いた、とウルフは嬉しくなる。ちらり、と彼女はアレクに目をやった。
「どうぞ、踊っていらっしゃるといい」
 にこり、と笑ってアレクが言う。少しばかり意地の悪い言い方にウルフはこっそりと笑いを噛み殺した。
「では」
 新たな曲がはじまったのに合わせ、踊りの輪の中へと進んでいく。重ねた彼女の手はひんやりと冷たかった。
「お名前を、教えていただけますか?」
 いまだ彼女の声を聞いてはいない、とウルフは気づいていた。腕の中で踊る貴婦人に視線を落とせば、きゅっと唇がつりあがっている。
「……あなたのお名前も、伺っていません」
 柔らかな声だった。女性にしては低いが、低すぎはしない。耳に心地良く響く声だとウルフは思う。
「カルム、と。ここでは名乗ることになっています」
「ここでは?」
「えぇ、ここでは」
 ウルフの言い振りに彼女が少し面白そうな声を上げた。笑ったのかもしれない。だが表情自体はあまり変わっていなかった。目許だけが和らいでいる。いや、険があるのかもしれない。ウルフにはどちらともわからない。
「なぜ?」
「……政治的配慮と言うものですね」
「そう」
 何か気に障ることでも言ったのだろうか。彼女はわずかに視線をそらした。その先にはアレクがいるのだろうか、ふとウルフは思いそのようなはずはない、とも思う。
 踊りながらかわすひそやかな会話。誰に聞かれてもかまわないけれど、誰にも聞こえはしないだろう。そっとウルフは彼女を抱く腕に力を入れた。
「あなたは? 教えてはいただけない?」
 彼女の耳許でウルフは囁く。つい、と貴婦人は体を離した。まるで汚らわしいことを聞いた、とでも言いたげに。
「えぇ、教えません」
「いいですよ」
「そう」
 興味をなくしたよう、熱のない口調。ウルフの口許が緩む。それに気づいたのだろうか、彼女が視線を上げた。
「あてて見せましょうか?」
「あなたが?」
「えぇ、私が。きっとあてますよ」
「……やってごらんになったら」
 一言で楽しそうな目をし、一瞬で熱意を失う。彼女との会話が面白くて仕方ない。ウルフは彼女の目を見てそっと笑った。
「サイファ」
 彼女の目が、驚愕に見開かれた。


 事態は数時間前に端を発する。もっとも、国王がアレクの結婚話を持ってきた時点を発端とすればさらに前に遡る。
 サイファは、実は王城にいた。アレクの懇願を振り切りきれず、こんな羽目に陥ったのが悔しくてならない。
「……シリルに償いはさせるからな」
 低い声で恫喝するけれど、アレクはと言えば結婚話から逃れられるのならばたとえ最愛の弟であろうとも犠牲にする覚悟らしく、虚ろに笑って済ませるだけだった。
「で、どうしろと。これから」
 話の大まかな筋は飲み込んだつもりだが、いまだわからないことがある。と言うよりサイファはわかりたくなかったのだ。
「女装してくれ」
 だから、アレクの声など聞こえない。目を瞬いて首をかしげる。アレクの悲鳴が聞こえて、はじめて彼を殴りつけていたと知った。
「痛いって!」
「あぁ……殴ったか。すまない。で、なんだ?」
「だーかーら! 女装してって言ってるの。アンタがアタシの結婚相手。貴婦人様役よー?」
「なぜ、私が?」
「そうねぇ。美人さんだから?」
「アレク!」
 今度は本気で殴ってしまうところだった。さすがに舞踏会に出席する王子が目の周りに青あざを作っていたのでは様にならない、とサイファはすんでのところで自重する。
「だから! 別にアタシみたいにドレス着ろなんて言ってないわよ! だいたい半エルフにドレス着せてどうしようってのよ」
「すぐに男だとばれるな」
「だろう?」
「だから……」
「何度も言ってんだろうが。だ、か、ら! 魔法でなんとかしてくれって」
「あぁ……」
 そういうことか、とようやく納得した。言葉の意味は理解したが、なぜ自分が。
「あぁ、シリル。か……」
「そうそう。あれがいればシリルにやらせるんだけど、生憎と神殿のご用で遠出中」
 無論、アレクは言わなかった。神殿の用事と言うのもおそらくは兄王が画策したものだろう、とは。言わなくともサイファには通じる。
「……了解した」
 この苦境を乗り切るにはそうするしかないのだろう、とはわからなくもない。協力するのに吝かでもない。方法が問題なだけだった。できることがいっそう、腹立たしい。できないならば無下に断れるものを。
 溜息一つでサイファは幻覚を紡ぎ上げる。あの貴婦人は、そうして出現した、この世にいない美女だった。


「で、サイファ。いつまで驚いてるつもり?」
「お前……」
「俺が気づかないと思ってた? 見くびられてるなぁ」
 ぼやいてウルフはいまだ貴婦人の姿のままのサイファに微笑みかける。無言でサイファは視線を外す。照れたのかもしれない。
「いつ気づいた」
「うん? 最初っから」
「最初?」
「だから、一目見た瞬間、サイファだってわかった」
 そんなはずはない、と顔にありありと書いてある。幻覚は完璧で、見破れたはずはない、とも。ウルフは踊りつつ耳許に囁く。
「俺があんたをわかんないはずがないでしょ。どんな幻覚かけてたって、わかるよ。サイファ」
 黙ったまま踊り続けた。一曲が終わり、もう一曲。立て続けに踊る二人をラクルーサの宮廷の面々はどう思うことだろう。
「……そうか」
 サイファがそう言ったのは、曲が終わりかけてからのことだった。ウルフはきょとんとサイファを見やり、次いで口許に笑みが広がる。
「俺はサイファを見つけるよ。いつでも、どこでも。どんな格好してても、ね」
 にっこり笑って言うウルフにサイファは微笑む。顔貌こそ違ったけれど、それは間違いなくサイファの笑みだった。
 後になって、アレクサンダー王子の婚約者に恋に落ちたカルム王子の噂が塔にまで流れてきた。この分では両方の宮廷に流れていることだろうう。ラクルーサの王城で、魔術師の塔で。三人がにんまりと笑みを漏らす。不機嫌なのはシリル一人だった。




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