サール神殿は穏やかで、ウルフはいつ来ても少し落ち着かない気持ちになる。つくづくこのような静謐には縁がないのだ、と内心で笑ってしまう。
「どうなさいましたかな?」
 ジーニアス神官長の問いにウルフは顔を上げ、彼を見た。老齢の、おっとりとした人だった。神殿の雰囲気は、彼の雰囲気そのものだった。
「いえ、別に……」
 それが落ち着かないのだ、とウルフは思う。が、さすがに神官長相手にそのようなことは言えない。まして大恩ある人だ。この神官長がいなかったならば、あのとき自分は蘇生することはなかった、とウルフは聞いている。
「リィ・サイファはまだしばらくお戻りにならないでしょう。どうです、なにか軽くお食事でも」
 ウルフはなにも一人でここにきているわけではなかった。言うまでもなくサイファのお供である。元々はジーニアスに用があったらしいのだけれど、いまは若い神官に乞われて神聖文字で書かれた書物の翻訳に行ってしまった。
「あ、はい。いただきます」
「では」
 にっこりとした神官長の指図に従って若い神官が運んできたのはいつもながらの煮込み料理だった。味付けは様々ながら、サール神殿で出されるのは必ず煮込みだ。
「不思議ですかな?」
 ウルフの表情に気づいたのだろう、ジーニアスが面白そうな顔をしている。それにぱっと顔を赤らめたウルフだった。
「煮込み料理ならば、どんな食物も余さずいただけるでしょう?」
 ジーニアスの声音にウルフは思わずうなずいていた。サイファが嫌うことをふと思い出す。彼は食べ物を残すことを激しく嫌う。
「私が昔リィ・サイファにお世話に――いや、少しの間育てていただいたことはご存知か?」
「サイファが! いいえ、全然!」
「お聞きになりたい?」
 老齢にもかかわらず悪戯っ子のような顔をしてジーニアスはウルフの目を覗き込む。つい、ウルフは思い切りよくうなずいていた。

 雨の中、リィ・サイファが自分の塔に戻ったとき、そこにはなにかごみのようなものがわだかまっていた。
「なんだ……?」
 自分の塔の前にこのようなものを置いていく人間がいるとは思いがたい。首をひねるサイファの前、ごみが動いた。
「子供?」
 ごみだと思ったのはどうやら人間の子らしい。汚れるにしてもよくぞここまで、と思うほど汚い。身につけたものは服などではなくまぎれもなく襤褸だ。だが、目だけは綺麗だった。
「雨宿りか」
 塔の扉の前ではとても雨を避けることはできないだろうに。そう思ってサイファは子供に声をかける。もっとも、怯えられるだろうとも思ってはいたが。
「日向ぼっこしてるように見えんのかよ、あん?」
 だが子供はサイファの目を丸くさせるようなことを言った。子供と言う存在が純真無垢だとは思ってはいなかったけれど、あまりにもこれは酷い。幸い、だったのだろうか。サイファの顔は深く被ったフードに隠れて見えなかった。
「見えんな。雨宿りがしたかったら、中に入るといい」
「え、いいのかよ?」
「かまわん。ただし――」
 塔の扉に手をあてれば、押したとも見えないのに扉が開く。今度は子供の目が丸くなった。サイファは軽く振り返り子供を見る。塔の中に一歩踏み入れ、フードを外した。
「見てのとおり、私は半エルフだ。それでもよければ入るがいい」
「あ、あんた……。俺のこと食う気かよ!」
「いったいどんな教育をされているのだか……」
「教育なんてご大層なもんをされてりゃこんなとこで雨宿りなんかしてっかよ!」
「もっともだ。質問に答えよう。私はそれほど悪食ではない。人間の子供を食用にする気はない」
 律儀な半エルフの答えに毒気を抜かれたよう、子供は塔にふらりと入った。その足が止まる。信じられないほど暖かかった。
「なんだよ、これ……」
「魔術師の塔など、このようなものだ」
「あんた、半エルフで魔法使いかよ。やっぱり……」
「悪食ではない、と言っているだろうに。どうする、人間の子よ。気になるならばここにいてもいいが、上に来れば食べ物くらいはやるが」
 なぜ自分がそのようなことを言ったのか、しばしの間サイファは自身のことながらわからなかった。ようやくのことで気づく。
 この子供は、自分を半エルフだと知ってもさほど恐れてはいない。飢えと寒さのほうがよほど恐ろしいのだろう。食べ物、と言った途端に眼を輝かせた。
「来るがいい」
 言ってサイファは背を向けて階段を上った。子供がおずおずとそれに従う。が、呻き声。
「あぁ、すまん。気分は悪いだろうが、食事にありつけると思って頑張るんだな」
 かすかな笑いさえ含んだサイファの声を子供がどう聞いたのかは知れない。中々根性のある子供だ、とサイファは思う。彼からさほど遅れず、子供は階段を上りきった。
「ちょっと……座ってて、いいかよ」
「待て、座るな。食事の前にこっちにこい」
 手を引こうとして、サイファはためらう。自分が人間に触れるのも、少しはいやだ。思い出したくない温もりを思い出してしまう。けれど子供に怖がられるかもしれない、その思いのほうがずっと強かった。
 慌てて引いた手に、だが子供は素直に手を伸ばした。自分の手の中、小さな子供の手がある。記憶にある手の温もりより、ずっと熱くて柔らかい。
 サイファは黙って手を引いて、存在を忘れていた客用の浴室へと連れて行く。そもそもなぜそのようなものを作ったのかすら、わからない。
「風呂の使い方はわかるか」
「わかる。すげぇな! お湯が出てるじゃんか。めちゃくちゃ贅沢してんだな、あんた」
「どこがだ?」
 心底不思議そうな顔をする半エルフに、子供はまるで大人のような溜息をつく。
「居間までの戻り方はわかるか」
「馬鹿にすんなよ、そんなガキじゃねぇもん」
「どこが?」
「うるせぇな! ガキじゃないったらガキじゃない」
「幾つだ、人間の子」
「……いいだろ、別に」
 ぷい、と顔をそむけて子供は襤褸を脱ぎだした。サイファは慌てて浴室を立ち去る。他者の肌は、いくら子供でも見たくない。
 あたふたと立ち去った半エルフに怪訝な顔をして、子供はぬくぬくとした風呂に顎まで浸かった。一度ならず潜ってしまえば、湯がすぐにどろどろになる。
「いいのかな」
 呟いたけれど、あとで怒られようともやってしまったものは仕方ない、とばかり子供は浴槽の栓を抜く。再びはめればまたすぐにたまった。
「ぜーたく」
 ひひっと笑い、子供は辺りを見回す。どうやらこれが石鹸だろう、と思しき物があった。手にとって泡立てれば、なんともいい香りがした。
「いいなぁ」
 こんなものが使える日が来るとは思ってもいなかった。たっぷりと泡だらけになったところで、もう一度新しい湯に換えた。
「お、なんかすげぇぞ」
 綺麗な色をした壜がいくつかある。栓を抜いて鼻を近づければ、ふんわりとしたいい香りがした。どうやら浴用香料らしい。それを湯に垂らせば、王侯貴族になった気分がした。
 湯を出て子供は目を見開く。先ほどの自分の服は片付けられ、真新しい衣服が用意されていた。着ていいものか一瞬迷ったものの、覚悟を決めて袖を通す。
「すげ――」
 こんな柔らかなものを身につけたことはなかった。思わず頬ずりしたくなるのを必死でこらえる。精一杯に胸を張って先ほどの居間へと子供は戻った。
「驚くべきものだな」
 テーブルに、サイファが皿を置いて振り返る。その目が丸くなっている。半エルフも驚くときは同じなのだ、と子供は少しおかしい。
「なにがだよ」
「とても同じ子供とは思えん」
「そうか?」
「後で鏡でも見るがいい」
「自分の顔見て喜ぶ趣味はねぇもん。それより」
 鼻をひくつかせている子供に、サイファは苦笑めいたものを見せ、手振りで座れと伝える。飛び上がるようにして子供は腰を下ろした。
「食っていいの!」
「誰も取りはしない」
「すげぇ! こんなご馳走見たことねぇ!」
「だから! 落ち着いて食え。ゆっくり食べないと喉に詰まるぞ」
 言っているそばから子供はむせた。言わんことではない、とばかりサイファは呆れ顔で子供の背を叩く。手ずからコップに水を満たし渡してやる。
 そんな自分が少し、おかしかった。人間の子と半エルフの子。差はあるのは確かだ。だが遥か以前、自分がリィにしてもらったことをしている、そんな気がした。
「人間の子」
「なんだよ、半エルフ」
「口の減らん子供だな」
「あったり前だろ! 口が減ったらなくなっちまうじゃねぇかよ、口は一つってのが物の道理だぜ」
「その皿、没収しようか?」
 にこやかに言う半エルフに、わずかに子供は怯んだ。慌てて皿を囲い込む。
「とらねぇって言ったじゃん」
「ならば質問にくらい答えろ」
「なんだよ」
 聞いてやってもいい、とあからさまに胸をそらして言う子供と話しているのが、存外に楽しかった。こんな気分になったのは、いったいいつが最後だっただろうか。そこまで考えてサイファはかすかに首を振る。あのときが最後と知っていた。
「なんと呼べばいい。いつまでも人間の子、では面倒だ」
「なんだよ、食ったら出てけって言うのかと思ってた」
「出て行きたかったら出て行ってもいいが、しばらく雨は続くぞ」
「なんでそんなことわかんだよ?」
「魔術師は空を見るからな」
「そんなもんか? 別にいてやってもいいぜ。ジーニアスって呼べよ。天才のジーニアス様だぜ!」
 胸をそらした途端、皿に指先が引っかかる。料理をこぼすまい、とジーニアスは慌てて皿を押さえた。

 ゆるゆると数日がすぎていく。不思議なものだった。他者がこの塔にいる、それがサイファには訝しくてならない。自分で招き入れたにしても、数世紀振りに身近に接する人の気配がどことなくいたたまれない。
「雨、やまねぇよなぁ」
 ジーニアスがぼんやりと外を眺めていた。出て行きたいのか、と思えばそれも当然だという気がする。それでもジーニアスは小降りになったときですら出て行こうとはしなかった。
 それもまた当然か、とサイファは思う。この塔にいれば暖かく、食べ物に不自由もしない。数日の間に聞いていた。彼は物乞いをして暮らしていたのだ、と。王都ではそのような子供も多いのだと。
「人間は不思議なものだな」
「なにがだよ?」
 窓辺から振り返ってジーニアスは言う。すっかりと肉がついた。頬の辺りなどふっくらと子供らしさを取り戻している。たった数日。この変化の激しさがサイファには物悲しさを呼び起こす。
「人間は不思議だ、と思う。なぜお前のような子供がいる?」
「いちゃ悪いかよ」
「そうではない。なぜ、子供がつらい暮らしをする」
「あんたらはどーなんだよ、半エルフさんはよ」
「いまの世に幼い半エルフはいない」
 神人はこの世界を去った。ならば幼き者が生まれる道理がない。サイファの伏せた目をどう思ったのかジーニアスは唇を尖らせた。
「遥か昔は、そうだな……。ごく幼いうちは母の手で育てられていたのだ、と思うが」
「思うってなんだよ?」
 ジーニアスの問いにサイファは半エルフの成長過程を淡々と話す。人間とは違う生まれ育ち。口にしてもあまりいやな気持ちにはならなかった。それはジーニアスがそれほど半エルフを恐れていないせいかもしれない。
「母親がいなかったら? つーか、俺様は親の顔なんか知らねーけど」
「そうか……」
 自分たちならば、他の年長の同族が育てる。そうサイファは聞いている。人間は、それすらできないのだろうか。
 ふと思う。昔は違った、と。師が存命であったころは人もまだ互いに慈しみあうことを知っていた。今は魔族の横行の激しさに、それを忘れてしまった。
 人間は、善き世の中であれば善き存在でいられるのだろうか。それもサイファには信じがたかった。人の変わり方をずっと見てきたこの目には。
「まぁ、いいや。別に親のことなんか恨んでねぇし。俺は俺でけっこう楽しくやってたし」
「雨でもか」
「それだけは別」
 言ってにやりとジーニアスが笑った。不敵で逞しい人間の子。輝かんばかりの生命の光を見た思いでサイファはそっと微笑んだ。
 ジーニアスが窓辺を離れる。いつまでも雨を見ていてもきりがない。しとしとと降り続く雨をこんな風に見ていたことはなかった。悪くない気分だ、と楽しくなってくる。
 いつも積んだままになっているテーブルの果実に手を伸ばして齧れば、信じられないほどに甘くてたっぷりの汁気が口にあふれる。
「旨いよなぁ」
 こんな食べ物がこの世にあるのだとは知らなかった。街の屋台から掠める食べ物は、これほど旨くなかったし、ごみを漁ればかびたパン。それがジーニアスの普通だった。
 齧りかけの果実を放っておいて別の一つにも手を伸ばす。柔らかい酸味が口の中を拭っていった。満足そうに笑ってジーニアスは二つともを放り出し、また窓辺に戻ろうとした。
「ジーニアス」
 その背中に声がかかる。厳しい声音に口を尖らせて彼は振り返った。
「なんだよ、リィ・サイファ」
「食うならすべて食え。食べ残すな」
「けちけちすんなよ、こんなにあるんだからさ」
「そうではない」
 どう言えば伝わるのだろうか、そう考えた末にサイファは立ち上がる。そっとジーニアスの肩に手をかければ、わずかに怯んだ気配。サイファは唇を引き結んで言葉を続けた。
「これは一つの生命」
 齧っただけで放置された果実をサイファは手に取る。
「お前は他の生命をもらって生きている」
「うるせぇな、関係ないだろ、あんたにゃ」
「関係はないな、確かに。が、関係がないというならば、私は生命を弄ぶものを保護したくない。即刻出て行け」
「半エルフに命のなにがわかるって言うんだよ!」
 肩に置かれた片手をジーニアスは叩き落す。その拍子に反対の手から果実が飛んだ。サイファは黙々とそれを拾い上げた。
「我々は殺されない限り死なない。それは確かだ。だが他者の生命をもらって生きている、と言う意味において半エルフと人間は同じだ」
 人間の子が齧った果実を、サイファは無言で食べた。その手の中に残るのは大きな種。
「もしも我々が食べなかったならば、この種は芽吹いただろう。大きく育って花を咲かせ実をつけただろう。我々は、この種の命をもらった」
「そんなこと――」
「人間には関係ない、か? それでもお前の肉体にこの果実の生命が宿っていることは事実だ。果実だけではない。昨夜のお前は鶏肉を残したな。朝は卵を残した。いずれも、お前の体になるべくして奪われた生命だ。なぜ、それを無造作に扱える。この体と命は――」
 言葉を切り、サイファはジーニアスの肩を撫でる。細い、折れてしまいそうな肩だった。
「他の生命に贖われている。なぜ人間は忘れてしまったのだろう、簡単なことなのに。他の命からいただいたこの命。だからこそ、奪った命は最後の一片まで感謝して我が身とする。我が身となったからには、他の命の分まで生きる。明日を生きるはずだった、命のために。明日の空を見ることのなかった他の命のために」
 わかるか、と覗き込めば目をそらされた。そのようなことをジーニアスは考えたこともなかったのだろう。考えては、生きてこられなかったのだろう。それはわかる。わかるからこそ、この機会に理解して欲しかった。
「死なないくせに、よく他の命のことなんか言えるよな」
 ぽつりとジーニアスが言った。サイファはなぜか胸が詰まって仕方ない。それほど子供にしては重たい声をしていた。
「死なないからこそ、かもしれない。他の生命からいただいた命ばかりがこの身に重たい。負債ばかりがたまって、死のうにも死ねないな」
「はっ。なに言ってやがる、死なないくせに!」
「死にたいと、思ったことならばあるがな」
 悪態をつきかけていたジーニアスが口を閉ざした。まじまじとサイファを見やる。本気か、とは尋ねられなかった。サイファのそらされた目は、真実だと語っている。
「死にたいって……」
「実は、死のうともしたんだがな。塔から飛び降りようが海に身投げしようが死ねなくてな。どうやら我々は自殺もできないらしい」
 ジーニアスにはそれが冗談のように聞こえた。半エルフの声音は、死ねる人間が羨ましい、そう言っているようにしか聞こえなかった。
「……なんで?」
「なにがだ」
「どうして、死にたいなんて。あんた、凄い魔法使いなんだろ。なんでもできるんだろ。こんなすげぇ旨いもんとかさ、あったかい居場所とかさ、俺様が欲しいもんが全部あるじゃんか。なんで死にたいなんて思うんだよ」
「……すべてが満たされても、いない人が一人いた」
 小さな声。ジーニアスは踏み込めなかった。それ以上は決して尋ねられなかった。視線をそらしたサイファは、いまは遠い過去を見ていた。
「なにか、やってみたいことはないのか」
 思いを振り切るよう、サイファは首を振ってジーニアスに目を向ける。その表情は平静で、ジーニアスは唇を噛む。
「やってみたいことなんて言われたってさ、俺は生きてくのに精一杯だったんだぜ。んなこと言われたって……」
「ジーニアス?」
「……言ってもいいかな」
 上目遣いに言うそのときだけ、妙に子供じみた顔をしていた。サイファはできるだけゆったりとうなずく。
「勉強。……やっぱさ、がらじゃねぇよな! うん、なんでもない。忘れてくれよ、な?」
「そうか、勉強か」
「だから!」
「魔法のか、それとも学問か」
「あんた……。いいよ、答えてやるよ! 俺様がやりたいのはな、普通の勉強だ! 街の子供らが行ってるだろ、ああいうさ、なんか集まってさ、勉強とかってさ、なんか、いいじゃんか」
 しどろもどろに言うのは、照れたせいだろうか。サイファはジーニアスに思わず微笑んでいた。
「ならば、近くにサール神殿がある。神殿で働きながら学問をする、と言うのはどうだ」
「そんなことできんのかよ」
「口添えくらいはしてやってもいい」
「ほんとに!」
「もっとも、その言葉遣いと立ち居振る舞いをなんとかしてからだがな。もう少しまともになることができるのならば、連れて行ってやる」
「そんなことどーでもいいだろ!」
「冗談ではない。私の評判に関わる」
 くっと笑ってサイファはジーニアスに背を向けた。その背を追うように、手が伸びてきた。テーブルの上に置いたままになっていた齧りかけの果実。ジーニアスは無造作にそれをとっては黙々と食らった。
「旨かった。ご馳走様」
 サイファにではなく、果実に言うようジーニアスは手の中に視線を落とす。それを微笑んでサイファは見ていた。

「――そのようなことがありましてな」
 ウルフは目を丸くして聞いていた。この神官長がとんでもない子供だったらしいことはよくわかったが、サイファの教育があったとは言え、よくぞここまで変わったものだと思う。
「リィ・サイファに言われたことは身に染みましたよ。肉も魚も果実も野菜も、命だと言うことをいつしか人間は忘れてしまっていたのでしょうな」
 言ってゆっくりと神官長は煮込みを匙ですくった。皿の中は哀しいほどに少ない。食べきれないのならば、とらない。そう微笑って言った意味がようやくウルフにも飲み込める。
「神官長様」
「なんですかな?」
「こんなこと、俺が言うと偉そうだけど、でも。ありがとう」
「おや?」
「サイファのこと、嫌わないでくれてありがとう。サイファが言ったこと、覚えていてくれてありがとう。きっとね、サイファ、絶対口にしないと思うけど、凄い嬉しかったと思う」
 そう言って、自分の言葉に照れたのだろうか。ウルフはせっせと煮込みをかき込んだ。最後のひとすくいに至るまで、綺麗に。
「待たせたな」
 ようやく戻ってきたサイファが見たのは、拭われたように綺麗なウルフの皿。口許をほころばせたサイファに、ジーニアスが片目をつぶった。




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