昼間の疲れもあって、戦士たちは深い寝息を立てていた。それが珍しくサイファとアレクが夜番をしている理由だった。
 もっとも、サイファ一人で用は足りる。言ってしまえばサイファ自身も眠っていてもかまわない。それなのに起きているのはひとえにアレクに付き合ったから、としか言いようがなかった。
 なにがあったというわけでもないのだろう。けれどどこかぼんやりとアレクは遠くを見ている。捨て置くには忍びない、そう思う程度には仲間だと思ってしまった。そんなことを内心で呟いてはやはり心の奥で苦笑する。
「ねぇ」
 不意にアレクの視点があい、サイファはぎょっとする。もしや苦笑いしたのが知れたか、と。
「アンタさ、誰も好きになったことなかったって、言ったわよね」
 どうやら杞憂だったらしい。そのことにほっとするものの、サイファは今度こそ顔に出して苦笑する。
「ない、と言っているだろう」
「少しも?」
 じっと見つめてくる紫の目。小さくした焚き火の炎が暗く光っている。だから会話を続ける気になったのかもしれない。
「質問の意図が不明確だな」
 普段ならばウルフに言う言葉。それを聞いてはアレクの口許が仄かに緩む。
「アンタが、なんで坊主を拒み続けるのかわかんないだけさ」
 視線をそらすアレクの声は男の物。不思議と頭痛は起きなかった。冗談に紛らわせるにはあまりにも悲痛な声だったからかもしれない。
「拒むもなにも」
「アンタは坊主を拒んでる。怖がってるって、言ってただろ」
「言ったな、そういえば」
 決しておざなりに言ったつもりはない。非難の視線にサイファは目顔で詫びる。ただ、あまり突き詰めて考えたくない話題であることは確かだ。
「どうしてそんなに怖いのかと思ってな」
「それでか、あの質問は」
「まぁね」
 そっとアレクが微笑った。少しうつむいたまま、まるで炎の照り返しを避けるように。
「好きになった人を失ったならわかるかもしれない、と思って」
 淡々とした口調。好きになった誰か。アレクのそれは一人を指している。だからサイファは問い返せない。その一人が誰か知っているからこそ、何も言えなくなってしまう。
「……愛した人は、いた」
 はっとしてアレクが顔を上げる。嘘をついたのかと問いかける視線にサイファは黙って首を振った。
「自分の生まれを呪うほど、愛していたよ。たぶん、彼も同じだっただろうと今は思う。それでも色恋ではなかった」
 目を閉じてしか、言えなかった。アレクだから、言えた。彼ならば、間違った理解の仕方などしないだろう、そう思ってしまう何か。
「アンタのお師匠さんか?」
「……なぜそう思う」
「生まれを呪う。つまり相手は人間。それに彼って言っただろ」
「迂闊だったな」
 思わず苦笑がもれた。誰かまでは言う気はなかったというのに。
「アタシ相手に隠し事をしようってんのが間違ってんのよー?」
 息を呑んで夜空を仰いだサイファにアレクは忍び笑いをもらし、慌てて眠る戦士たちを見やる。よく眠っていた。
「よせ」
「答えてくれたらね」
「聞くだけは聞いてやる」
「……その人を失くしたから、もう人間は嫌なの?」
 人間。その言葉の裏に隠された言葉はウルフ。サイファは静かに視線を移す、彼に。眠るウルフはそれでも剣の柄から手を離してはいなかった。
「人間に関わりたくない、と言う気持ちはある」
「その人のせいで?」
 アレクが選んでくれた言葉にサイファはほのぼのと胸の内が温かくなる。アレクは師とは言わなかった。あからさまに言いたくないことを悟ってくれた。サイファは目許に笑みを湛えて彼を見る。素直に言う気になったのは、たぶんそのせい。
「さぁ、違うかもしれないな」
「じゃあ、なんでだよ」
「人間に殺されかけたことがある」
 あっさりと言ったサイファにアレクが目を見開いた。このサイファが、易々と人の手にかかりかけるとは思えない。あるいは多大な死傷者を出したのかもしれないけれど、それでもサイファが。疑問が口から出かけ、そのままつぐんだ。
「寸前で、彼が助けてくれた。自分も傷を負ってな」
 決して忘れることはない。あのとき滴ってきた彼の血の熱さも何もかも。
「あのとき彼は同族を手にかけそうになった。そのあとも同族を殺したかったらしい」
 サイファの唇が緩んだ。どれほどの残虐であったとしても、自分のためにそれをしてくれそうになった人がいる。懐かしいぬくもりだった。
「私は彼に同族殺しをさせたくはなかった。だから止めた。本当は私のほうがやりたかったくらいだったが」
「よく聞いてくれたな」
「彼は私の手を血に染めたくはなかったらしい。お互い相手のことを考えたら人間絶滅計画は白紙に戻さざるをえんさ」
 とんでもないことを笑って言うサイファにアレクは苦笑を返すだけ。サイファならば、そしてその師が共にいるのならば、人間など三度滅亡しても釣りが来る。何しろこのサイファを育てた男なのだから、彼の師は。
「大事にされてたんだな、アンタ」
「本当に」
 うなずいて物思いに耽るような表情を浮かべたサイファをアレクは見つめる。視線に気づいたのだろうか、閉じていた目をサイファが開けてはぶつかりあったそれに互いにばつが悪くなる。
「愛してた?」
「とても」
「どれくらい?」
「こう言えばわかるか? 全身を預けて、なんの不安もなかった」
「……よくわかる」
 アレクの視線がそれて、シリルへと。アレクにとってシリルは、自分の生命を預けて微塵の不安も起きない相手だった。そのくせにアレクはふっと笑って言った。
「親子みたいなもんってわけでもないんだろうにな」
「なぜそう思う」
「あんたは半エルフだろ。親子って概念がわかるのか?」
「まったく意外なことを言う男だな」
 知らず口許が笑ってしまう。ひねくれてとんでもない女をやってはいるが、アレクはもしかしたら一行の内でもっとも賢いのかもしれない。
「どこがだよ」
「半エルフに親子の感情がわからないなど、どこで聞いた?」
 からかうよう言えば、しまったと言う顔つきをする。それはウルフのようにわざとらしかった。
「シリルさ」
「なるほどな」
 言った当人も、聞いたサイファも、信用などさせる気もなくしてもいない台詞。互いににやりと笑ってはぐらかす。
「でも本当なんだな」
「あぁ。自己の意識が明確になる頃にはたいてい母親は死んでいる。父親はそもそも誰か知らない」
「みんな?」
「私の知る限り、半エルフとはそういうものらしいな」
「だったら、その人も父親のように慕っていたったわけでもないんだな、やっぱり」
「違うな」
 言葉にするとそれも違う気がしないでもない。ならばどういう慕い方だったのか、そう尋ねられれば答える言葉を持たないサイファだった。
「もうひとつ」
 幸いアレクは深く問い詰める気はないらしい。ほっと息をついたサイファに向かって人の悪い笑みを浮かべたから、後は自分で何事かを考えろ、そういうことかもしれないと気づいては溜息をつく。
「記憶が薄れないって聞いた。どれくらい?」
「例えば人間が昨日のことを思い出すくらいに」
「千年前でも?」
「そう、千年前でも」
「つらいな」
 ぽつりと言われた言葉にサイファの心は細波が立っただけだった。怒りはない。あるのはわずかばかりの哀しさだった。
「だからアンタは坊主を拒むんだな」
「どうしてそうなる」
「それほど大切にした人を失ったら、もう二度と嫌だろうと思ってな」
「あえてわかるのか、とは問わない」
「怒るなよ。いつかシリルがいなくなったときのことを考える。いつも考えてるって言っていいな。どんな女がシリルを攫っていくのか、あるいは俺を守って先に死ぬのか。考えない日はないさ」
「すまない」
「謝るな、気色悪い」
「どういう意味だ、それは」
「あーら、殊勝なサイファってらしくないわよって言ってるだけじゃない」
「……よせ」
「すまん」
「同じことを言おうか?」
 まるで共犯者の気分だった。そんな気分にさせてくれたアレクが得難い男だと思ってしまう。
「サイファ」
「なんだ」
「つらいだろ、哀しいだろ」
「なにがだ」
「昨日のように思い出せる記憶が」
 遠まわしな言葉。アレクが知っているはずもないけれど、その声に喚起させられたものは彼の死。冷たくなっていく彼の大きな手の感触。
「俺はつらいよ、サイファ。シリルがいなくなったときのことを考えるだけで、つらい。だから今から慣らしておこうと思って考えちゃいるけど、たぶんそんな生易しいもんじゃないんだろうな」
「そうだな」
 思わず手を握り締めた。握った手を片手で覆う。彼がくれた指輪に触れてびくりとしかけた。
「サイファ。時々、泣きたくなるんだ」
 馬鹿だな、そう言ってアレクは軽く目を閉じる。焚き火の炎が眩しいのだとでも言いたげな顔をして。熾火は消えかけていた。
「だからアンタも泣けよ」
 次に進むために。アレクは言い添え目を開ける。じっと見つめてくる紫の目。その睫に残った雫にサイファは気づかないふりをして喉の奥で小さな笑い声を立てた。
「怒るなって」
 違う、そんな意味をこめて手を振ればアレクが鼻で笑った。どうやら信用はしてもらえなかったらしい。
 けれどサイファは真実を言う気にはなれなかった。泣き尽くしてもう涙も出ないなどとは。たとえアレクにであったとしても、言いたくなかった。



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