眠るウルフの、赤毛を見ていた。 サイファはそっと寝台を抜け出し、カーテンと鎧戸を開ける。朝の光が鮮烈に差し込んでウルフの髪を照らし出す。 光に透き通った赤毛は、きらきらと輝いて枕に影を落とした。朝日をまぶしがるよう、ウルフが窓から顔をそむける。 かすかなうなり声にサイファは口許を緩め、再び寝台へと戻ってはウルフの横に滑り込む。眠る青年の体はとても温かかった。 うつ伏せになったままサイファはウルフを眺めていた。引き締まった口許、わずかに寄せた眉根。起きて喚いているときには感じられない、精悍な表情めいたもの。 「馬鹿か、お前は」 小声で呟いてサイファは笑った。 夜更けまで、と言うよりもむしろ朝方まで、と言ったほうが正しいだろう。ウルフはずっと剣の稽古をしていたらしい。 彼が共に塔に住み暮らすようになって、サイファは一つウルフのために部屋を増やした。魔術師の塔にあるはずのないもの。剣の練習室だった。ウルフはそれをとても喜んだ。 「寒かったり暑かったりするとさ、外で練習するのつらいんだよね」 溜息まじりに言って大袈裟に哀れな顔をして見せる彼の表情を、サイファは忘れていない。思い出すだけで、つい笑いが込み上げてきてしまう。 「それでも戦士か、情けないことを言うな。馬鹿!」 「だってさー」 「なにがだ?」 眉を上げたサイファに、今度こそウルフは本心から情けない顔をした。 「暑いんだってば、外」 「夏だからな」 「あんたはいいけどさ、俺は暑いんだって」 「戦士というものは、それほど軟弱なことを言っていいものか?」 「汗びっしょりになって戻ってくると怒るくせに」 「そのまま飛びついてきたりするからだ!」 実際、汗まみれの男に飛び掛られたりしてはたまったものではない。うっかり魔法で叩き落さないだけましと言うものだ、とサイファは今も信じて疑わない。 「風呂入ってからだって怒るじゃん……」 呟いたウルフの声をサイファは聞き流す。怒ってなどいない、とはさすがに恥ずかしくて言いかねる。そらした顔を、ウルフがにんまりと笑って見ていた。 「そっか」 「なにがだ」 「あんた、照れてるだけか。なんだ、よかった」 言った途端、ウルフが呻いた。物の見事、腹に蹴りが決まっている。サイファは傲然と顔をそびやかし、ウルフを見下ろしていた。その頬が、仄かに赤らんでいる。見上げたウルフは、だから幸せな気分だった。 「へらへらするな、馬鹿が!」 思い切り怒鳴りつけてもウルフの表情は変わらない。痛いだろうに、とも思うのだが彼は幸福そうに微笑んでいた。 「サイファ」 「なんだ」 「ありがと」 「別に」 そっぽを向いたのは、率直に言われた礼に照れたせい。今度はウルフもそれ以上なにも言わなかった。 その練習室に朝方まで篭っていた理由は、シリルだった。アレクの手紙を持って遊びに来ていたシリルと、ウルフは久しぶりに剣を交わした。 「シャルマーク以来だよね」 「そうだね」 うなずいてシリルが目の高さに剣を掲げる。それが試合の始まりだった。サイファは邪魔にならないよう、練習室の片隅で彼らを見ていた。 感嘆した。シリルはあのころから比べても、数段腕を上げたようだ。忙しい司祭としても仕事の傍ら、少しも剣の稽古を怠けてはこなかった証拠だった。 「くっ」 ウルフが、守勢に回る。そこに鋭く突き出されるシリルの剣。かわすのに精一杯のウルフは攻撃に転じられない。 「一本」 つ、とシリルの剣先がウルフの喉元に突きつけられた。悔しそうにウルフは両手を上げる。負けを認め息を入れる。 サイファが気づいたくらいだから、間違いなくウルフも気づいたはずだった。シリルは息を乱してはいなかった。ウルフの呼吸は、荒い。 決してウルフとて稽古をゆるがせにしてきたわけではない。それでも少し、鍛錬が足らないのは目に見えていた。二人の対戦が再び始まり、五本のうちウルフが勝ち得たのは、一本だけだった。 それがよほど悔しかったのだろう。ウルフは篭りきりで稽古をしていたようだ。サイファは知らない。共に相手が練習に励むときには一人きりにしておくことが暗黙のうちに決まっていた。 サイファは別に見られてもかまわないのだ。ただ、呪文室に彼を入れるとなると、ウルフのために防御呪文をかけておかないと危なかった。呪文の結果は、部屋の外に漏れることはないが、魔法が室内を荒れ狂うことは日常茶飯事だった。そのための、呪文室なのだから。 それを煩瑣な手間だ、とウルフは感じたのだろう。サイファにとってはそれほどでもないのだが、彼は呪文室に顔を出すことはなくなった。 「魔法見てたって、よくわかんないしさ」 「よく?」 「すいません、全然わかんないです」 へらへらと笑ってウルフは頭を下げた。その後頭部をサイファは撫でるよう殴りつける。わざとらしく飛び上がって痛がるウルフに鼻を鳴らし、サイファはそむけた顔の向こう側で笑ったものだった。 ウルフが稽古を見られるのを嫌がる理由はひとつだけ。 「あんたに無様なところ見られたくないでしょ」 「無様なお前など、いくらでも見飽きるほど見てきたが」 「また、そういうこと言う」 「事実だ」 嘯くサイファにウルフはにんまりと笑う。はっと思ったときには遅かった。あるいは、望んでいたのかもしれない。 「そういうこと言うサイファって、可愛いよ」 視線を向けた途端、殴られるのを警戒するようウルフが飛びのく。だからサイファは微笑んだ。ぱっと彼の顔が明るくなっては寄ってくる。そこを狙ってサイファはウルフの頬を張り飛ばした。 思い出してサイファは寝台の上、笑ってしまった。忍び笑いの声にウルフが身じろぐ。そっと赤毛を撫でれは再び眠りに戻っていく。 「馬鹿が……」 朝方になって潜り込んできたウルフに怒ってはいなかった。寝室に来るな、とは言わない。来るなら来るで、そのまま倒れこんで眠るのはどうかと思う。 「馬鹿な」 自分の思考にサイファは見る者も知る者もいないというのに頬を赤らめた。思わず両手で顔を覆ってしまう。もしもウルフの目が覚めていて、それを見たならば狂喜することは間違いのない、仕種だった。 サイファの寝台は、広い。それもウルフが共に住むようになってからのことだった。元々一人きりで暮らしていたサイファだ。自分だけが時折、身を横たえられるだけの役に立てば充分だった。 そもそも半エルフは人間ほど眠りが必要な体ではない。毎晩ベッドを使うことすら稀だった。それに、サイファにはウルフには言いたくない別の理由があった。 人の身の温もりを、知らないわけではなかった。あれから千年の年月が流れようとも、忘れることは決してない。 一人きりになってから、だからサイファは殊更に狭い寝台で眠ってきた。横に誰かがいるなど、期待する自分を嗤いたくならないように。 いまは目覚めたとき、誰かを探してしまうことはなくなった。探さなくとも、別の人間がいる。安堵して手を伸ばせば、眠りの中からも強く抱きしめてくる腕がある。 「言えば、また愚かなことを言うのだろうな」 サイファの唇が微笑を形作る。師には敵わない、死んでしまった人間の中では一番でもいい、などと言ったウルフ。そう言いながらも、焼きもちを妬くウルフ。 「違うのにな」 寄せる思いがこれほどまでにも違う。違う、とサイファは思う。ウルフがどう思っているのかは、よくわからない。同じだと思い込んでいるのかもしれない。 緩やかに射し込む光が、ウルフの目許に光の影を投げかける。ひとつ呻いてウルフは眉の上まで上掛けを持ち上げて潜り込んでしまった。 サイファはわずかに笑みを浮かべ、ベッドから抜け出すことなく魔法でカーテンを引く。抜け出すには、あまりにも温かくて心地良かった。 「ウルフ」 そっと呼びかけて上掛けを引き剥がす。寝ずに練習に励んでいたウルフに起きる気配はなかった。ほっと息をつき、サイファは赤毛を撫でた。快い手触りに、自分の頬が緩むのを感じる。 ふと思いつきにサイファは顔をほころばせた。うつ伏せたまま、両肘をついて体を起こす。ウルフの寝顔を眺め、そして魔法を紡ぎ上げる。 出現したのは、可憐この上ない白い花だった。小さな親指の先程の花が、サイファが手を閃かせるたび次々と現れる。 ウルフの体の上、こんもりと積み上がったころ、サイファの指が別の形へと動く。白い花は緩やかにまとまり始めた。次いで、ウルフの赤毛の上にちょこんと乗る。 「似合う、か……?」 笑い混じりの呟きめいた溜息にサイファはこらえ切れなくなったよう、顔を伏せた。可愛らしい花冠があまりにも似合わない。 くっと笑ってサイファは残りの花を今度はウルフの髪に編み込み始めた。赤毛が見る間に白い花で飾られていく。 次は指。小さく輪に編んだ茎が、ちょうど花を飾った指輪のようだった。様々な形に編んだ花の指輪を、サイファはウルフのすべての指に飾ってしまう。 体中に白い花を飾ったウルフは、まるで馬鹿げた祭りのようだった。サイファは今度こそこらえ切れそうになくて体を起こす。 「怒るか?」 答えないことを承知の上でそっと耳許に囁いた。ウルフは花の香りにだろうか、悪い夢でも見ているよう顔を顰めて、それでもまだ眠っていた。 サイファはベッドから抜け出す前、名残惜しそうにウルフの顔を見やる。その唇に、まるで盗むようくちづけて身をひるがえす。 寝室から飛び出したサイファの顔は、明らかに朱に染まっていた。駆け出して、照れているのではない、笑い出すのをこらえているだけだ、と言い訳をする。そして誰に言い訳をしているのか、とついには笑い出した。 駆け込んだ先は、厨房だった。サイファは機嫌よく朝食の支度を始める。ウルフが目覚めたとき、一番に来るのはここだった。 食事を求めて駆け込んでくるウルフの姿が見える気がする。白い花をいっぱいにつけたまま。彼は、怒っているだろうか。それとも。 ふと、ローブに一つだけ白い花がついているのが目に留まる。布の間にまとわりついたまま、気づかなかったのだろう。サイファは少しだけ困った顔をし、それから笑みを浮かべた。 ずいぶん経った頃だった。目覚めたウルフが見つけたのは、大好きな献立の朝食と、それを前にして茶を呑むサイファ。そして彼の耳許に差し込まれた、白い花。 |