何もかもが嫌になった。いままでだって嫌だったけれどもう耐えられない。思ったときには飛び出していた。
「ちょっと馬鹿だったかなー」
 ぼんやりと呟いているのは赤毛の男だった。まだ少年と言っていいようにしか見えない。
 けれど彼は武装していた。簡単に堅い革鎧をまとい腰には長剣を差している。ごく一般的な冒険者の姿だった。それにしてはいやに若いけれど。
 飛び出して来たとき身につけていた物をすべて売り払った。その金で調えたのがこの武装だった。多少余った金はいまも腰にある。もっともいつまで持つかはわからない。
 耐え切れなくて飛び出してきただけで、この先どうしようなどと言うあてはなかったのだから。
 シャルマークに行く。彼の心にあったのはそれだけだった。
「おい、坊主。仕事探してんのか」
 人相の悪い男が彼の肩に手を置いた。
「うん、まぁね」
 ふらふらとさまよっているうちに辿り着いたのがネシアの町だった。シャルマークの入り口。こんな所にいるべきではない、とわかっているのだけれど、いまのところ彼にはここから先に動きようがない。
 ただシャルマークに行く、それだけで行かれるものでもない。ここだとてシャルマークと言うならばそうなのだ。けれどもっと奥に行くためには仲間がいる。たった一人、それも戦士だけで行くなど自殺するようなものだった。
「けっこういい剣持ってやがんな。どうだい俺たちと一緒に魔物狩りしねェか」
 言って男は彼の隣に腰を下ろしエールを頼んだ。どうしようかな、と迷ううちに彼の分までエールが来てしまう。
 この居酒屋兼宿屋についたのはつい数時間前だ。早速こんな声がかかるあたり、入り口とは言えシャルマークと言うところかと思えば彼はどことなく嬉しい。
「魔物ってどんな?」
「なんだ坊主。そんなことも知らねェのかよ。頼りねェなぁ、おい」
「いいじゃん、教えてよ」
「しょうがねェ、ガキだな。いいかよく聞けよ――」
 得々として男が語りだす魔物の恐ろしさ。彼が怖がるとでも思ったのだろうか。男は先日ゴブリンと対峙したときの話を始めていた。
 と、そのときだった。向こうのテーブルから華やかな笑い声が起こる。
「んだァ?」
 不機嫌そうに男が見やったその先に、女がいた。うっそりと男が立ち上がる。
「姐ちゃん。何がおかしい」
「あら、笑い話じゃなかったの?」
「どこがだよ、あん?」
「だって、冒険者がゴブリンに苦戦ですって? ばっかみたい。そんなんじゃすぐに……」
「なんだよ!」
 彼女は笑った。うっすらと口許だけで。それから少しばかり顎を上げる。たったそれだけの動作。それがこんなにも傲慢で美しい。
「――死ぬわよ」
 男は何も言わなかった。否。言えなかった。かっと目を見開き腰の剣を抜き放つ。
「あ」
 声を漏らしたのは赤毛の男。驚くことばかりだ、とその目が語っている。男は剣を取り落としていた。呆然と女を見ている。
「ちょっとくらい遊ばせてくれたっていいじゃない」
 そう言って女が振り返った先には地味な男が一人苦笑していた。
 赤毛の男は見ていた。男が剣を抜き放つや否や彼がその手首を打ったのだと。強烈な一撃だったのだろう、体の大きな男がそれだけの攻撃とも言えない動作に剣を落としたのだから。
「お願いだからあんまり危ないことはしないでね」
「ちょっとだけだって言ってるじゃない」
「そのちょっとが危ないんだってば。そんなに僕を死なせたいの?」
 ずいぶんなことをさらりと言う。赤毛の男は聞くともなくそれを耳にしつつぞっとした。
 彼女にもやはり、重たい言葉だったのだろう。唇を引き結んでわずかにうつむく。それから顔を上げて赤毛の男に視線を向けた。
「坊や」
「な……なに」
 ほんの少し言いよどんだ自分が悔しくて彼は唇を噛みそうになる。そんな彼を彼女は微笑んで見ていた。
「その男の仲間?」
「違うよ、まだ」
「まだってことは仲間になるつもりだったの?」
「全然」
 実のところ赤毛の彼は男の仲間になる気などまったくなかった。ゴブリンの話が出始めたところから彼女の言うとおり笑い話ではないかと思い始めていたくらいだ。
「けっこういい度胸ね」
「そうかな? そっちの彼のほうがすごいよね」
 言った途端だった。女の連れの男が目を丸くしたのは。
「どうしたの?」
 自分は何か言ってはいけないことを言っただろうか。そう懸念する赤毛の男に向かって連れの男がふんわりと笑った。それは妙に優しい顔で、こんなシャルマークで目にするようなものではない、そう思う。
「見かけによらないって言ったら悪いけれど、よく僕の手が見えたな、と思って」
「あぁ……」
 そういうことか、と納得する。ぼんやりとした顔のせいだろう、彼は剣の腕が立つようには見えない。学問ができるようにも見えない。つまるところただの子供にしか見えない。それを自覚しているからこその返事だった。
「あら、珍しい」
「なにが?」
「アンタが人の腕を褒めるのってあんまりないじゃない?」
「だって事実だから」
 言って連れの男が微笑んだ。すごい自信だ、と赤毛の男は思う。実際、その言葉でも謙遜に過ぎるほどの腕だった。むしろこんなシャルマークの入り口ごときにいるはずもないような冒険者だと思う。
「坊や、こっちいらっしゃいよ」
 思わず考えることなくテーブルを移動してしまった彼に女が素直ね、と笑う。
「ねぇ、アンタあてはあるの」
「あてって?」
「仲間のあてよ。わかってるでしょ、それくらい」
「あったらさ、あんなのの話し聞いてると思う?」
「ま、それもそうよね」
 言って女がにんまりと笑った。その向こうで連れの男が苦笑に似た笑みを浮かべているのを見て、もしかしたら迷惑なのかもしれない、そう思う。
「いい腕をしてるね」
 そんな彼の表情を目に留めたか、男はそう言って笑ってくれた。たったそれだけのこと。それだけでぱっと心の中が明るくなる。
「ほら、やっぱり珍しい。この子が気に入った?」
「うん、まぁね」
「じゃあ、坊や。一緒に来ない?」
「どこに?」
「シャルマークによ、当然でしょ」
 あっさりと誘われた。こんな場所で、こんな形で、こんな自分が。
「いいの?」
「なにがよ」
「だって、俺のことなんかなんにも知らないでしょ」
「アンタ、アタシたちのこと知りたい?」
「別に。言いたくないなら聞きたくない」
「だったらアタシたちも一緒。アンタが話したくないならそれでいいの。それが冒険者の不文律ってもんよ」
「そっか」
「そうよ」
 妙に胸が温かい。これならば生きていかれるかもしれない。生きていていいのかもしない。この先、危険ばかりがある場所に行くというのに、生きていかれる、そう思うのがなんだかおかしくてつい、彼は笑った。
「で、どーすんのよ?」
「あ、行く! 一緒に行くよ!」
 嬉しくって、嬉しくって。やっと自分がいるべき場所があった、そんな気がする。彼の顔には満面の笑みがあった。
「うーん、物凄く坊やなんだけどなぁ」
 あまりにも明るい彼の表情に、女がわずかのあいだ不安を浮かべ、けれど連れの男が気に入ったというのならばよいとばかりひとつうなずく。
「ま、いっか。アタシはアレクサンドラ。アレクって呼んでくれればいいわ」
「僕はシリル。アレクは罠や鍵の探索が専門で、僕は剣の担当」
「あと神聖呪文とね」
 片目をつぶってアレクがシリルを差す。それで悟った。シリルは神官戦士なのだ、と。だからこそあんなに優しい顔ができるのだろう。
「二人ともよろしく。俺は……」
 そこで彼は困った。なんと名乗るべきかまったく考えてなかった。
「別にいいわよー。ちゃちゃって適当に名前なんか考えちゃえばいいのよ」
 アレクが吹き出して助言してくれる。そして言い足す。
「どうせアタシたちだって偽名だもの、ね?」
 それで気が楽になった。赤毛の男はひとしきり笑い、考えた。
「うん、ウルフがいいな。ウルフって呼んで」
「了解。ウルフね、坊や」
 ちらり、アレクが笑みを浮かべてからかうよう言えば、気恥ずかしくて頬に血が上るのを新たにウルフという名を得た男は感じる。新しい旅立ちに相応しい、そんな気がした。
「神官がいて探索者がいて、戦士が一人。悪くはないけどできれば魔術師が一人欲しい所だね」
 黙って微笑んで見ていたシリルが首を傾げてそう言った。それから望み過ぎかな、と言葉を足す。
「……魔術師なら、いるぜ」
 言ったのはあの男だった。まだ手首を押さえて呻いている。
「アンタの知り合いなんか要らないわよ」
「俺のじゃねェ。ここからちょっと行ったところに魔術師の塔があるって話だ。おっかねェところだからって誰も行ってない」
「あっそ」
「すごい魔術師だって、話だ」
「ふーん」
「本当だってば!」
 そこに至って宿屋中が笑いに包まれた。どうやら腕は悪いものの人はいい男らしい。男の話に宿屋にいた冒険者が皆してうなずいている。
「じゃあ、坊や。お使いね?」
「お使い?」
「その魔術師さんを仲間に引き摺りこんでいらっしゃい」
 ふわりとアレクが笑った。あんまりにも綺麗な笑顔過ぎて、言われていることの意味が掴めない。
「いいよ、わかった。行ってくる」
 思わずうなずいたあとでシリルの溜息が聞こえたけれどウルフはすでに立ち上がってしまった。
「気をつけてね、ウルフ」
 アレクの温かい声とシリルの励ましに見送られ、ウルフは一歩を踏み出した。振り返って手を振る。
 歩き出したとき彼の口許には笑みがあった。手を振り返してくれる仲間がいるっていいな、そんなことを思って。できれば魔術師とも仲良くなりたい、そう思う。この旅が、少しでも楽しいものになればいい。結果はひとつと決めてはいるけれど、そのあいだ少しでも楽しい旅になれば、と。
 そう思いつつ歩くウルフの目の前にシャルマークの病んだ大地が広がっていた。



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