二人は黄金に包まれていた。豪奢な光の中、ただサリエルは立ち尽くす。光と、そしてただひとりだけを見つめていた。ずっと、ずっと。

 堕天してから、サリエルは当然アーシュマの屋敷にいる。彼の屋敷には、やはり当たり前のようにパーンがいた。
「サリエル様、もうどこにも行かない? どこにも行かない?」
 パーンはパーンなりにサリエルを慕っているのだろう。しばしの「留守」がよほど心細かったものか、足にまとわりつく子犬のごとく側を離れなかった。
 以前、逗留していた間も好んでいた、庭の水辺にいたサリエルに今もパーンは駆け寄っては踊り、歌うように問いかける。
「どこにも行かないよ」
 天使でなくなったサリエルは、少しばかり正直になった。いつでも慕い歩くパーンを以前のようにただ可愛い、とは思っていない。多少は、鬱陶しいと思うこともないではない。
 とりわけ、アーシュマと二人きりでいたいときは。
 そう思った途端、サリエルの頬が赤く染まる。
「サリエル様、サリエル様、どうなさったの?」
 種族の特徴である歌うようなパーンの言葉。くるり回って首をかしげてサリエルを覗き込む。
「どうもしないよ」
 答えて微笑みサリエルもまたパーンの目を覗き込んだ。
 その拍子にさらり、髪が流れ落ちる。銀に変わった髪。ずいぶんと、伸びた。アーシュマが好むから、切らないでいる。
「綺麗、綺麗」
 歌ってパーンが髪を手に取る。その手をそっと外させた。アーシュマは、自分以外の者がサリエルに触れるのを嫌うから。
 呆れるほどに従順だ、自分でもサリエルは思う。
 かつては悪に堕ちる人の魂を追って天を翔けた天使。意志も強ければ、武器の扱いにも長けてる。その自分が。
 ただひたすらにアーシュマに嫌われることだけを、恐れている。
「サリエル様?」
 再び覗き込んできたパーンと目が合う。やはりなんでもない、言いかけて言葉が出ず、黙って首を振った。
「心配、サリエル様心配なの。どうなさったの」
 水辺に座ったサリエルの隣、ようやくにパーンも腰を下ろした。
「大丈夫、ずっとここにいるよ」
 アーシュマが、許してくれる間は。心に思うだけで口には出さない。
「ずっと? ずっとって永遠?」
 可愛らしい声をしてパーンがまた歌声で問う。サリエルは答えを失い、口をつぐんでしまった。
「永遠は、我々にとってもずいぶん長いな」
 振り返れば水面に立つ人影。男はゆったりと歩を進めこちらに向かう。足元にできた水の輪がきらりきらり光を弾き消えていく。
「アーシュマ様!」
 パーンは飛び上がり、水に駆け込み足を取られて顔から転ぶ。苦笑いをしてアーシュマは屈み、片手でパーンをつかみ上げた。
「冷たい、冷たいの」
 犬の仔のように盛大に頭を振って水気を払うパーン。思わずそれを見たサリエルが笑い声を上げる。パーンがおかしかったのではなく、襟首をつかんでいたアーシュマまでが思い切り水をかぶっていたから。
「ひどいぞ、笑うのは」
「ごめんなさい」
「ひどいー、ひどいー」
 わけもわからずパーンが唱和するのに今度はアーシュマも笑い声を立てる。
 彼の顔にかかった水をサリエルが指で拭う。髪に手を差し入れそっと梳けば、しっとりと水を含んだそれが指に絡んだ。
「永遠は……長いですか」
 言わずもがなのことをサリエルは問うていた。アーシュマの黒い目を覗き込む。自分の紫の眼がそこに映ってはいないか、と。
「お前といれば、長くはないな」
 喉の中でアーシュマが笑った。まだ手に持っていたパーンを放り出す。軽く投げられたはずなのに、空中をはるか飛び、くるり一回転してはどこかに落ちた。
「サリエル」
 銀の髪に触れる。額に、頬に。それから唇に。
 そしてようやく唇を重ねた。
 温かい、アーシュマの体。腕の中に包まれて、これほど幸福なことはない。いつもサリエルは今が一番幸せだ、その思いを新たにする。
 舌が唇を柔らかくなぞり、閉じた唇をこじ開けて這入ってくる。
「ん……」
 絡み合う舌の甘さ。きつく抱かれた背中に感じるアーシュマの腕の強さ。
「サリエル」
 くちづけひとつ。なのに、とろり蕩けて返事もできない。
 サリエルはアーシュマの胸にもたれ、頬を寄せてはその鼓動を聞いていた。いつもより少し、速い。それがなにか、嬉しい。くすり笑ったサリエルをアーシュマが咎めだてては抱きしめた。
「なにを笑った?」
「あなたの鼓動が、速かったから」
「当然だろう」
「そう?」
 サリエルは彼を見上げ。紫の目が笑み崩れていた。
「アーシュマ」
 ふいに語調を変えてサリエルは彼を呼ぶ。あらぬほうを見ては目を伏せた。
 人影が、目に映ったから。
「アーシュマ」
 影が呼ぶ。パーンのように敬称をつけるわけでもなく、かと言って黒狐のような呼び方でもない。胸がざわめく。
「サリエル様、サリエル様。アーシュマ様が酷いの、酷いー」
 笑ってパーンが駆け戻ってくる。サリエルはひとつ手を振りアーシュマに背を向けた。
「サリエル?」
 彼は答えず。ひそかな笑みを口元にのぼせて姿を消した。

 飛ぶ手間をかける気にさえなれなかった。だから、跳んだ。移動する先がどこかなど考えもしなかった。
 一度、天に戻ったときに羽は復活している。堕天してもそれは変わらない。色こそ純白ではなくなったけれど、いまのサリエルは空を舞うこともまた可能になっている。
 魔界の空は美しい。様々に色を変え、景色を変え、時には炎さえもが舞い踊る。そんな空を飛ぶのは楽しかった。
 普段であったならば。
 気晴らしにどこかを飛ぶのもいい。そうも思ったことだろうに。
「アーシュマ」
 サリエルは呟く。恐ろしかった。
 長い長い尽きることのない命の限り共にいることが出来るなど、とても思えない。尽きることのない時間、ずっとアーシュマの心を捉え続けることなど、できようもない。
 しかし、この目で新しい彼の恋人を目にすることなど、さらにできようはずもなく。
「アーシュマ」
 再び名を呼ぶ。堕天して以来、外したことのないあの指輪は今はない。背を向けたとき、そっと外して彼の衣に落としてきた。
「気づいて、いないだろうな」
 自嘲しては一人、笑った。
 あの人影を見るようになってから、どれくらいだろうか。すでに二度や三度ではない。時折アーシュマの元を訪れては、しばらくの間、人気を排しては何事かが起こっている。それが何であるのか、想像したくもない。
「アーシュマ」
 三度。
 いつしか胸元をきつくつかんでいた。まるでそこが痛みでもするかのように。
 ひとつ大きく息を吸う。あふれるような生気が体中にみなぎる。吐く。抜け殻の気分だった。
「ここは……」
 改めて辺りを見回せば、見覚えのない土地。
 魔界は広い。際限がない天界よりもなお広い。それはあるいは広く感じるだけなのかもしれない。
 なぜならば、時として行き着けない場所があるかと思えば、わずか一日の間に姿を変えてしまう土地もある。そのせいだった。
 サリエルの目に映るのは、ただひたすらの水。潮の匂いがした。
「海が……」
 知らず笑みが浮かんだ。サリエルは海を好む。悪に堕した人間の魂を追う天使であったサリエルのこと、当然人界も知っている。魂を追うのは好きな仕事ではなかったけれど、海を見るのは好きだった。
 寄せては返し、返してはは寄せ。その音と匂いとを感じていると心が休まる、そんな気がしたものだった。
「魔界にも、あるのか」
 海があるのは知っていたけれど、こんな「普通の海」が魔界にあるとは知らなかった。魔界の海と言えば、何が起こるかわかったものではないものばかり。そう思っていたのに。
 そうは言えども普通に見えて普通ではないものなど、いくらでもある。慎重にサリエルは歩を進め、指先を少し、水につけた。
 つめたい、心地良い、当たり前の水だった。飛沫を上げて水をひらめかせれば、きらり、陽の光に煌く。午後も遅い太陽は、赤く赤く、どこまでも赤く燃え立つように輝く。飛沫もまた、色を映して炎の欠片のように。
 一歩、足を進めた。サリエルの踝を冷たい海水が洗う。それは人界の海のように寄せては返して彼の足をなぶっていった。ふと、心づく。
「このまま……」
 あの水の中、歩いて行ってしまったらどうなるのだろうか、と。死すべき定めの人の子が、時折そうして自らの命を絶つと言う。死ぬべき定めの下にないこの身がそうしたならばどうなるのだろう、ひとりサリエルは笑った。明るくはない、それは嗤いだった。
 また一歩、足を進めた。水はもう膝を洗っている。サリエルの、堕天してもなお好んで身につける白い衣がふわり、海水にたなびいた。
「行って、しまおうか」
 どこまでも遥に続く水の彼方に目を移す。冷たい水に体が震えた。
 もしもあれがアーシュマの恋人ならば。いや、そうでないにしろ、もう自分だけのものでないならば。いつかそうなってしまうのならば。
 恐ろしさに身がすくむ。想像することすら苦痛。ならば、いっそ。
 さらに一歩を進めた。
 ――と。
「行くな」
 温かい両腕が、サリエルの体を背後から包んでいた。
 見間違うことなどありはしないその手。愛しい悪魔の手が頬にかかった銀の髪の一筋を払い、そしてそっとサリエルの手に触れた。
 言葉など、なかった。それでよかった。サリエルの手には再びあの指輪があった。アーシュマの手ではめられた指輪に反対の指先で触れる。
 痛かった。
 それはサリエル自身の抱く痛みではなく、あるいはそれ以上とも思えるばかりの、痛み。驚きに振り向けば、引き結んだ彼の唇に、漆黒の目に同じものが宿っている。
 アーシュマの唇が動いた。けれど声にはならず。ただその動きだけで愛しい者の名を呼んだ。その両手がサリエルの頬を包みそして胸の中、かき抱く。
「アーシュマ」
 掠れ声で呼ぶのはそればかり。悪魔は答えず。ただうなずく気配だけがわずかに伝わるだけだった。
 一歩。悪魔は堕天使を腕にしたまま海から下がる。また一歩、と。
 少しずつ少しずつ彼らは水から出、そうしてようやく砂浜へと戻った。アーシュマがほっと息をつくのがサリエルの頭上で聞こえた。
「ここは危険だ」
 かすかな笑いを含んだ声。
「え……」
 アーシュマの声は、それを知りながら自ら罠にはまってしまったのを嗤うようで。
「この海が、なんと呼ばれているか知らなかっただろう?」
「ええ、気づいたらここにいたので」
 そっと摺り寄せられるサリエルの銀糸の髪をアーシュマは梳き、その感触を味わうかに何度も指に絡めた。
「ここは幽愁の海と言う、この果てに」
 そう言って彼は指差す、海の彼方を。きらきらと輝く、それは海だった。どこにも悲しみの欠片もない、ただただひたすらに耀う海だった。
 彼は語った。
 海のどこかに城がある、と。そこへ辿り着く道を知る者だけが、あるいは城に住む者が呼び寄せるときだけ辿り着くことが出来る場所。
「水が冷たいだろう。ある時ふいに水が凍る。凍った道がどこまでも続く」
 ゆらり揺らめく波の中、一筋凍った道がある。波が氷を洗うも決して解けはしない。金に銀に輝く海に続いて行く蒼い氷がまっすぐ伸びる。
「そして突然現れるんだ。――氷の城」
「それは」
「美しきルシファーの居城だ」
「……この海が」
「ルシファーの憂愁は深い。すべての魔界の族が持ち得る悲しみのそのすべてをあわせてもまだ、彼一人の苦しさにはかなわない」
 その憂いがこの海辺にまで伝わるのだ、アーシュマは語った。
「ここの海は危険だ。彼の憂いに囚われてしまう」
 そう言ってようやくアーシュマは笑った。いや、微笑んだと言った方が良いだろうか。それほど静かな笑みだった。
「なぜ、指輪を置いて行った? 俺がわからないとでも?」
 アーシュマの腕に抱かれたままサリエルは身をひねり、海の方に体を向ける。正視できなかった。
「アーシュマ。私は……黒狐のようになりたくはない」
「誰がそんな目に……」
「あなたに新しい恋人が出来るのを静観などできない」
 唇を噛みしめた。体ごと彼からそらしているというのになお、サリエルは視線を落とす。
「サリエル、誤解だ」
「なにがです」
「あれは、ルシファーの使者だ」
「魔王の……」
 遠く、見えはしないはずの氷の居城にサリエルは目を向けた。やはりそれは、見えることなく。
「サリエル」
 わずかに笑う声。
 アーシュマはそっと愛しい者の体をこちらに向かせその頬をまた包み込む。彼の顔には満足があった。
「仮に……私の誤解だと、しましょう」
 少しばかり苦々しげなサリエルの声。まだ紫の瞳は伏せられたままだった。
「でも、いつかはそうなるでしょう。あなたはいつか、私ではない誰かを見ることになる、私は……」
「それはない」
「そんなことは断言など」
「できる。我らの恋は激しい。興味が失せたら殺すまで。もっとも、そうはならないだろうがな」
 言葉とは裏腹なまでの明るい笑い声が響いた。幽愁の海の果てまで届けと言わんばかりに。
「どうして、です」
「殺してなくすにはあまりに惜しい。それより共に尽きることない時間を過ごす方がずっと面白そうだ」
「長い……」
「永遠は我らにとっても長い」
「でしょう、だから」
「長いが、お前とならばそれさえも束の間」
「調子のいいことを」
 ほっと息をつき、ようやくサリエルの声も弛んだ。少なくとも、今はまだ。
 そうして今になって自分の誤解を理解した。突然、羞恥に頬が赤らむのを感じる。天使であった時間の方が、魔界に来てよりはるかに長い。だからサリエルは知らなかった。知るはずなどなかった。観念としては理解していたが、実感したことは一度もなかったのだ。
 ――嫉妬と言うものを。
「サリエル」
 呼び声に答えて見上げれば、うっすらと微笑んだ悪魔の唇が寄せられる。重なるそれのその甘さ。
 体中から憂鬱が抜け出ていく。代わりに満ちるのは、アーシュマ。アーシュマが満ち満ちていく。
「これも……」
 唇が離れたとき、サリエルの膝はくず折れた。アーシュマはひそかな満足の笑みを浮かべ、その体を抱きとめる。
 長い銀の髪を指に絡めては流れ落として、夕暮れの陽に輝かせた。
「なんです?」
 そのあまりの美しさに言葉を止めたのも忘れ見惚れたアーシュマにサリエルが続きを促した。
「感じなかったか? くちづけ一つの間に流れる時間もまた、永遠」
 流した銀糸が風に揺らいで光る。
「気障なことを」
 サリエルは笑った。海に入ったときの悲しみはもうない。サリエルはルシファーの憂愁を知らない。が、わずかなりとも感じた。だからこそ、囚われてしまったのだといまならばわかる。ルシファーの悲しみが何に兆しているものかは知らない。知らないけれど、それは例えようもないものであることだけはわかるのだ。それが悲しい、とも思う。
「ずいぶん伸びたな」
「え?」
「髪だ」
「あぁ……あなたが、好むようだから……」
「気にしていたのか?」
 頭上で笑った声がした。肩から力が抜ける思いがする。馬鹿なことを気にしたものだ、と。
「お前はお前のままで良いものを」
 案の定、アーシュマはそう言って再び笑った。
「少しばかり、邪魔でした」
 答えてサリエルも笑い、華奢な短剣を手に取った。細い刃に華麗な模様のあるそれを片手に、もう一方には髪の束を。
 ぷつり。音を立てて銀糸が切れた。長く長く伸びた髪はあのころのままに、始めてアーシュマと出逢ったころのままに。
「さっぱりしました」
 髪も、それ以上に気持ちも。
 アーシュマはその双方を理解したように、目元を和らげてサリエルを見る。しかしなにを言うこともなく。
 サリエルも言葉はなく、切り取った髪を放り投げては風が海に運ぶに任せるだけだった。
「サリエル」
 銀の髪が風に舞い、夕陽を浴びた海に漂うのを見つめていた。振り返れば、アーシュマもまた夕陽色。
「永遠を見せてやろう」
「時の流れが見えるとでも?」
「さて、それはどうかな」
 からかいの口調で悪魔は言い、そして彼方の海を指差した。
「見つけた」
「なにを、です」
「永遠を。それは――」
 アーシュマの指差す向こう。夕陽が海に沈んでいく。
 そしてその空より、頭を下に手を差し伸べる人影、あれは空。否、太陽。太陽は姿を変え、肩のあたりで断ち切られた金の髪をした天使になる。抜き身の金の剣を持つ者、それは。
「あれは、ミカエル様……!」
 海より伸び上がる影、海そのものが人の姿を形作り、凍えた海色の剣を掲げて黄金に向かっていく。それは金の巻き毛に白い六枚の翼を持っていた。
「幻だ」
 二人の剣の切先が触れ合い、かと見る間に大気に解け、消え。
「なんて、悲しい」
「が、美しい」
 振り向いたサリエルの目にあるのは、真実を読み取った悲しみだろうか。天使であったサリエルが、知るはずのない古い話の真実を。
「永遠と言うのはああいうもの」
 尽きることのない長い命を闘争や苦悩に費やすのもひとつの道。他の道を選ぶのもまた、自由。
「お前は、なにを選ぶ?」
 アーシュマが言う。サリエルは答える。もちろん、ただ一言を。
 が。それはくちづけにまぎれて聞こえない。
 悪魔と堕天使は黄金に包まれていた。豪奢な光の中、ただサリエルは立ち尽くす。光と、そしてただひとりだけを見つめていた。ずっと、ずっと。
 再び重なった唇とともに二人の姿はかき消えた。あとに残るのはひたすらに美しい黄金の、海。




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