些細な諍いだった。他愛ないと言ってしまってもいい。それでもアーシュマと言い争ったあとはやはり、気分が悪かった。 いつもならば目覚めたとき、そこには彼がいる。いまは冷たい敷布があるだけ。手を伸ばしても温もりの欠片すらなかった。 「サリエル様、サリエル様。お寝坊。お寝坊なの?」 鬱々と楽しまないでいたサリエルの耳に飛び込んできた明るい声。パーンがくるりと踊りながら寝台を覗き込んでいた。 「寝坊だね」 少しだけ唇を緩めて体を起こす。素肌の胸に銀の髪が流れ落ちた。 「綺麗、綺麗。とっても綺麗なの」 「ありがとう」 「サリエル様、お目覚め?」 「あぁ、起きたよ」 言えばひょこりとパーンの獣の耳が動く。楽しげに躍りまわったかと思えば姿を消し、すぐさま戻ってきた彼の手には雫のついた硝子のグラス。 「サリエル様のお好みはこれ、ね? きっとお気に召すでしょう? ご機嫌直して、サリエル様」 「機嫌?」 「アーシュマ様もご機嫌斜め。みんな大変。大事な僕らの主さまが沈んでらっしゃるの。サリエル様は、おわかり?」 「原因は、私だろうね」 「違うのー。サリエル様は悪くないの、悪くないもの、ね?」 必死になって言い募る魔界の生き物が愛おしい。サリエルは手を伸ばして彼の髪を撫でた。途端に上がる甘い嬌声。喜びにあふれたパーンに笑みを見せ、サリエルはグラスを口に運んだ。 見たときから、わかっている。魔界でアーシュマに拾われてからはじめて口にしたあの飲み物。酸味も苦味もサリエルの好みだった。 「これは、君が?」 「違うの、違うの。僕じゃないの。アーシュマ様でもないの。違うってば!なの」 ぷるぷると首を振れば、一緒になって尻尾も動く。だが彼の尾はうなだれていた。おかげでパーンが口にするより事実は明らかだった。 「困ったね、それではいったい誰なんだろうね?」 くすりと笑ってサリエルが言えば、パーンは顔を輝かせた。嬉々としてサリエルの目覚めの仕度を手伝う。 柔らかな衣はかつて天使と呼ばれたころに好んだよう、白い。今もこれを身につけるのはサリエル自身の好みと言うよりはアーシュマの趣味だった。 「サリエル様、サリエル様。どちらに?」 「さぁ、どうしようか」 「お散歩? それとも水浴び? ご本に見物。お供は僕」 「わかってるよ、一緒に行こう。そうだね……泉に行こうか」 「行くの、行くの!」 駆け出しては、立ち止まりサリエルを待つ。そしてまた駆け出す。その歩調があたかも踊るよう。 半ば苦笑しながらサリエルはパーンを追った。これではどちらが供だかわかったものではない。そう思いつつも、少しだけ気が晴れてきた。 「変わらないね、パーンは」 アーシュマと諍いを起こそうが、一途に自分を慕ってくれる。出会ったときからそうだった。主人であるアーシュマに一番に仕えるはずの身が、いまはこうして自分の側に仕える不思議。 「言われてきたな……」 サリエルは呟いてまた、苦笑した。パーンの耳がぴくりと動く。が、彼は振り返らなかった。踊りながら駆ける足がどことなくぎこちない。 泉につくなりパーンは飛び込んだ。それすらも舞踏のよう。潜り、顔を出し息を継ぐ。にこりと笑ってまた潜る。それが一連の動きとなって目に楽しい。 「サリエル様、サリエル様。ご一緒にいかが?」 水飛沫を上げてパーンが誘う。言われるまでもなくそうするつもりだったサリエルは、着たばかりの衣を水辺へと落とした。 朝陽に、輝かんばかりの肢体だった。滝にも似た銀の髪が水面に散る。ほう、とパーンが溜息を漏らせば、真実の光。 「綺麗、綺麗。ほんとに綺麗。サリエル様、素敵」 手を打ち鳴らしてパーンが喜んでいた。サリエルのその背に純白の翼。天使であったころとは違う白。今は輝きに淫靡を帯びる。 「あ――」 まだ言葉を続けようとしていたパーンが息を飲む。きゅっとサリエルにすがりついた。 「パーン?」 言いつつ振り返ったサリエルの目に映るもの。 「アーシュマ」 黒衣の悪魔がそこにいた。髪も目も衣すらも黒い中、一点の赤。耳飾りが陽射しに鈍い光を放つ。すっとサリエルの目が細められた。 「そう怖い顔をするものじゃない」 たしなめられた言葉にサリエルは答えない。 「サリエル」 呼ばれた声にも、答えない。パーンが腕の中で己の主人たる悪魔を睨んでいた。 「ほう……」 それに気づいたよう、悪魔がパーンを見やる。サリエルにすがりつく小さな手にいっそうの力が入った。 「舐められたものだな」 あたかも切り込むようなサリエルの声。悪魔がわずかに目を剥いた。 「アーシュマに化けるのならば、もっと巧くやるがいい。私の目を欺けると思うな、その程度で」 嘲笑も露な声に、眼前の悪魔は答えなかった。サリエルの手には、どこからともなく剣が出現する。 「貴様がアーシュマを騙るとは、不遜も甚だしい」 「よく似せたと思ったんだがな」 「どこがだ。幻魔ごときが、アーシュマの美貌を映せると本気で思ったか。さっさと戻るがいい、黒狐」 「本気でばれていたか。残念――」 黒狐と呼ばれた男の姿が変化する。その名のとおり、夜色の髪をした男の姿に。黒狐の名のように豊かな狐尾が生えていた。 その男が唐突に振り返る。息を飲んだ瞬間、飛び退る。ぴしりと泉に血が飛び散った。 「サリエルに、手出しは無用。そう、言いつけたはずだが」 すらりとした人影だった。緩やかに歩いているだけなのにその圧倒的な存在感。 「アーシュマ」 にこりとしてサリエルが呼んだ。一見、黒狐が化けたのと同じ姿。だが違う。明らかに違う。美しいとは、なんと貧弱な言葉か。彼を表すにそのような言葉では足らない。 目元の涼やかさ、言葉の力。髪の色。何よりましてその存在。サリエルの目はひたすらにアーシュマを見ていた。 諍いなど、解けていく。彼がそうしてここにいる、それだけで消えていく。ゆるりと彼が手を上げた。黒狐は威に打たれて動けない。 その彼を襲うもの。サリエルは魔力の波に撃たれた黒狐に嫉妬すら覚える。いまこの瞬間、滅びたとしてもかまわない。アーシュマの手に、かかりたい。 「機嫌は直ったか」 問いかけられたとき、黒狐の姿はどこにもなかった。呆然とアーシュマに見惚れていたらしい。それを思えば頬に血が上る。 「……あなたこそ」 「こい」 だが、呼んだのはパーンだった。真の主人に呼びつけられ、嬉々としてパーンはサリエルから離れていく。 その手をとって泉から引き上げたアーシュマは、なぜかサリエルを見てにやりとした。それほど、物欲しげな顔をしていたか、気づいてサリエルは目を伏せる。 と、悲鳴が聞こえた。咄嗟に目で追えば遠く消え行くもの。アーシュマに投げられたパーンの甘い悲鳴だった。 「サリエル。もう一度聞く。機嫌は直ったか」 邪魔者がいなくなった泉に悪魔と堕天使が相対する。かたや水辺に、かたや泉の中に。眼差しを交わすだけで、時など流れつくしてしまうかの。 「えぇ。直りました」 サリエルが溜息と共に呟いたのは、どれほど時が経ったあとのことだったのだろうか。一瞬であり、永遠であった。 「ならば、こい」 莞爾として差し出された手に、サリエルもまた手を伸ばす。一足、踏み出せば泉の水が盛り上がる。 「あ……」 水に形作られた花がゆっくりと開いていく。続々と数を増やし、ついには泉中を覆う。 「サリエル」 言葉とともに。香り立つ花々。サリエルの目が丸くなるのをアーシュマはこの上なく楽しんだ。 「これは――」 さらに踏み出した足が、止まる。空まで届けとばかり高く伸び上がった花が頭上を覆っていた。朝陽が、あたかも水中から透かし見たよう煌いている。 その花から届いたのは楽の音。触れ合う花弁に水が鳴る。 「なんて涼やかで美しい――。まるで原始の至福」 いまだ争いも諍いもなかったころ。天界も魔界も存在すらしなかった遥かなる過去、あるいはいつか訪れるはずの遠い未来。 サリエルは片手をアーシュマに預けたまま花を見上げていた。その顔に柔らかな光が射す。 「原始の至福、か」 「アーシュマ?」 「悪魔の描く至福の地の天使はいない。天使の描く至福の地に、悪魔はいない」 「私は堕ちた。あなたの元へ」 アーシュマの元こそが。口にはしなかった。それで充分だった。アーシュマの目許もまた、和らいでいた。サリエルの衣を拾わず、アーシュマは自分の衣の中に包み込む。 さらさらと、水の花弁が散り掛かる。涼しく響いて花と散る。雫が珠と煌いた。その水の欠片がサリエルの髪に留まり、そして滑り落ち。いくつかは、水晶となっては彼の髪を飾った。降り注ぐ花の霞にいつしか辺りは雨となる。雨音だけを残し、そして瞬きの間に無人の泉。 |