夢のあとさき

 デニスは小さく笑い、ニトロを羨んだ気持ちを晴らして行く。自分は自分、彼は彼。何度となく内心に呟きながら。
 はじめて出会ったときからわかっていた。ニトロの膨大とも言える魔力。それ以上の魔法にかける情熱。自分とは違う魔道を歩むことは間違いのないニトロ。
 だが、とデニスは思う。彼のおかげで、ニトロに出会ったからこそ、いまの自分がある。青年時代のふわふわとした頼りなさを思い出し、デニスは苦笑していた。
 ――デニスさん?
 そこに忍び込んでくるキアランの思考の声音。静かで、こんなことを言ったら気分を害するだろうかと思いつつ、デニスは感じる。山の神秘的な獣のよう、と。
 ――僕は狼ですよ?
 ちらりと笑った「声」にデニスは頬を赤らめていた。それに咳払いをするものだから娘たちが不思議そうな顔をしている。どうやらキアランの声は彼女たちには聞こえなかったらしい。精神の声に指向性を持たせるなど、ずいぶん長けてきたものだ、と感嘆していた。
「えっと、服のことだったっけ! ニトロ、勝手に開けるよ!」
 ひらひらと向こうで手を振っていた。好きにしろ、ということらしい。デニスは笑ってニトロの荷袋を漁る。すぐさまキアランの服を見つけ出し、彼に了承を取ってから膝の上に広げた。
「ほら、ここ」
「あ……留め具?」
「そうそう」
 アリソンの闊達な眼差しにデニスはどぎまぎとしてしまう。あまり女性と接する機会が多くはない――と言うほどでもないけれど女性魔術師と愛を語る気にはなれないデニスだ――彼にとって、娘たちは緊張の種らしい。外見的には彼女たちの父親、と言っても通じるだろうに。学院の少女たちとはそれなりにうまくやっているから、これは単に接触が少なくてどうしたものか戸惑っている、のかもしれない。
「書類挟みを留めたり、箱を留めたりするのに使ってた留め具をさ、あいつは改良して服につけられるようにして」
「あ、布に穴、開けるんだ。ちょっともったいないかも」
「その気持ちはわかる」
 布は手間も暇もかかった貴重なもの。魔術師ならば自分で糸紡ぎからはじめるものも多いから、あまり気にしていないのだろうとデニスは思う。実際キアランの服はニトロが糸から紡いで織って縫って仕上げている。自分の分を作るついでだ、と言って。もっともキアランも魔法寄りの生き物だ、その方が危険を排する、という意味では正しい。
「こうやってさ、釦にしておけば毎回紐を結ばなくっていいからね」
 脱ぎ着の都度に結んでほどいてをしていては手間で仕方ない。とはいえ、そんなことを考えつくニトロはやはりすごいな、とデニスは思う。自分とて、留め具は見ていたはずだ。こんなものは昔からある。それなのに、服につけようと思ったことはない。
「これ、磨いた貝殻とかで作ったら、とても綺麗だと思いませんか?」
 アデリーンの言葉にアリソンがきらきらとした眼差し。さすが女の子だ、とデニスは感嘆する。そしてにやりとして見せた。
「もう、イーサウの商人が何人も考えてるみたいだよ。色々。木彫りで柄を彫ったり、磨いた石をつけたり。商店に並ぶのはもう少しあとかな」
「すごい! 見てみたい!」
「今度お母さんに話してみようね?」
 それほど年齢が違うようには見えない姉妹だったが、アデリーンは妹が可愛くてならないのかもしれない。子供扱いしすぎている気がするけれど、アリソンはアリソンでそれを楽しんでいるらしい。
 そんな姉妹を狼はじっと見ていた。狼に変わっていてよかった、そう思う。彼女たちに息子の姿が重なって、どうしようもない。
 あの日を思い出す。イーサウ名物の温泉に遊びに行って、姉妹に遊んでもらっていたシアン。走り回る三人の高い声。耳に蘇る、などというものではなかった。いつも聞こえているような気がするほどに。
「よし、移動するぜ」
 ひょい、とニトロが結界を解除して入ってくる。そのまま何も言わずにキアランの頭を撫でた。あ、と狼が息を飲む。そのまま固まり、けれど姿勢は変わらない。心の奥でだけ、笑みを浮かべる。感謝と知れる。ニトロは口許で小さく微笑んだだけだった。
「次は泉?」
「おう。また転移点作って移動だな」
「ニトロ。悪かったね。娘たちが一緒だから、よけいに手間をかけさせた」
「ん? 別に。嫌だったら嫌って言うしな。気にしなくていいぜ」
 軽く手を上げ踏み出すニトロ。半ば薄れかけている、と思ったときにはキアラン共々消えていた。
「ほんっとに、鮮やかだよな……!」
 憤りのような感動。デニスの言葉面だけを取ったのだろうアリソンがくすくすと笑う。
「デニス――」
「あぁ、ニトロのことだったら、本人が言ったとおりですよ。お気になさらず。あいつはある程度気を許した相手には思ったことしか言いませんから」
「まぁ……難しい男だとは思ってはいるがね」
「そうでもないですよ。面倒くさい男だってだけです」
 からりと笑えば、さっさと作りあげてしまった転移点の完成を知らせてくるニトロ。早すぎるだろう、手際がいいにもほどがある、叫ぶように笑い、デニスもまた詠唱に入った。
「わぁ!」
 アリソンが歓声を上げた。気持ちはわかるデニスだった。ドルシアも、また。アデリーン共々息すらこらえて泉を見つめる。
「なんてことだ……」
「うん?」
「いや……なんて言ったらいいんだろうね」
 ほう、と長い溜息をドルシアはつく。もうここまでくれば危険は少ない、ということなのだろうか。キアランはいまだ狼のままではあったけれど緊張はしていない。白い水際の砂に漆黒の狼が座っていた。満々とたたえられた水。その面に映る木々の緑。風がそよげば緑も揺れる。
「あんまりにも、美しい――」
 この世の外のように。それでいて紛れもない現実がここにある、その違和感。呪師はそれを感じる。静謐で、猥雑で。神殿の中で酒盛りでもしている気分だ。
「あんたはそれを感じないかい?」
 ニトロに感想を言えば彼は静謐さだけは、感じると首をかしげた。呪師と魔術師と、感覚にはずいぶんと差があるらしい。
「あぁ、しまった。ダモン連れてこようと思ってて忘れてた」
 ――ダモンを?
「神官連れてくればなんかわかるかと思ってたんだよ。まぁ、いっか。ドルシアはなんか感じたみたいだしな。どうよ、潜ってみるか?」
「あたしは素潜りは苦手だよ」
 顔を顰めるドルシアにニトロがにんまりとした。物音が聞こえ、姉妹はキアランを見やる。どうやら狼のまま笑ったらしい。
「行けるぜ。魔法で。どうする?」
「行く!」
 あんな母ははじめて見た、と姉妹が目を丸くしていた。少女のような好奇心もあらわなドルシア。普段は呪術の師として謹厳な母であるというのに。娘たちの眼差しに気づいたのだろう彼女がばつの悪そうな笑みを浮かべた。
「んじゃ、また留守番よろしく。キアラン、上見ててくれ」
 ――わかった。
 すらりと狼が立ち上がる。その間にデニスが焚火の用意から何から支度をはじめた。ニトロ一人であるのならば服など脱いで行ってしまうけれど、ドルシア連れではそうもいかないだろう。まして岸では若い娘が見ている。
 そしてニトロはドルシアの手を取り、泉に。その後ろに狼がついて行く。娘たちは食い入るように彼らを見ていた。泉の中央に三人が立つ。それがまず異常。水面に立っているのだから、当たり前の顔をして。
「行ってくるな」
 優しげに狼の頭に手を置いてニトロが微笑む。見てはならないものでも見た気がしてデニスは視線をそらす。そのときにはニトロとドルシアは沈んだ後だった。
「波紋一つ残さず消えるって、無駄な技術力だよな」
「そうなんですか?」
「うん。こう……すっと、波を立てないで水に入り込むんだよ。わざわざそんなことしなくてもいいはずなのにね」
「でも、とても綺麗」
 泉の上、風が立てる漣だけ。キアランはじっとその場に佇み水面を見つめていた。漆黒の体が水に映り、そこにも自分がいるかのよう。
 それを見つめるアデリーンの言葉だった。キアランのその形が、あまりにも美しいと。魔法より、その佇まいが。わかる気がする、とデニスは無言でうなずいていた。
 水の中を覗き込むキアランは遠くなっていくニトロを見ていたと言ってもいい。時折振り仰いでこちらに手を振る。まだ見えている、と確かめるようであり、心配するなと言っているようでもあり。口許の笑みだけがひどく鮮明に見えた。
 ――頼りない気分になるな。
 溜息をつけばそれだけで水面が乱れる。乱れれば、ニトロが見えなくなる。キアランは息を殺して見つめ続ける。ついに光が届かなくなって見えなくなるまで。
 ――あなたは、どうやって見ているのだろう。
 こちらからは少しも見えないというのに。ゆっくりと足を折り、その場に座る。こんなことができるようになったのもニトロのおかげ。伯父に水の走り方を教えてもらったら、止まれないと不便だろうとニトロが教えてくれた。
 ――あ。
 蛍でもいるのかとも思った。すぐさま否定する。そんなはずはない、見えているのは水中だ。キアランの目が和む。水の中を漂う蛍はきっとニトロの魔法灯火。あちらに行き、こちらに止まり。彼らの姿は見えなかったけれど、あそこにいると確信が持てるだけで安堵する。ぐっと伸びをして、本格的にくつろいで座るキアランだった。
「妙なところで妙な心遣いをする男だね」
 一方、水中ではドルシアが呆れていた。ニトロの魔法によって呼吸のみならず視覚も確保されている。光の届きにくい水中にあってもドルシアは何不自由なく見えていた。まるで空気の塊の中に入ってでもいるかのよう。服も濡れなければ会話もできる。鍵語魔法は面白い、ドルシアが感じる瞬間だった。
「なんか言ったか?」
 ふん、と鼻を鳴らしたニトロをドルシアは大いに笑った。必要のない魔法灯火は、キアランのため。ここにいる、と見えない彼に知らせてやっているのだろう、ニトロは。
「意外と言ったらなんだがね」
「だったら言うな!」
「あんたみたいな男が熱愛ってのが信じられないんだよ、あたしは」
「信じなくとも一向にかまわん。ほっといてくださって結構!」
 気分でも害したかとニトロを見やれば平静の顔つき。なるほど、ドルシアは得心する。彼は照れているらしいと。横目で睨まれ、何食わぬ顔を作ったドルシアは仕事を再開した。




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