「今度はどこに行こうか……」
 そんな独り言を聞き取ったかのように琥珀が笑いながら言う。
「そろそろ若狭のお水送りじゃない」
 以前、私が奈良のお水取りは有名だけれど、若狭のお水送りはさほどじゃないから見てみたいものだ、と言ったのを覚えていたらしい。
「そう、神宮寺、というんだ。その側に流れてる川の上流は地下をくぐって二月堂まで続くんだそうだ。どうだ、信じるか?」
「そうだね、本当だったらすごく浪漫的だけど」
 叔父が以前旅行した時にそれを見物してきた時のことだ。
 早春の気の早い太陽が小浜湾に落ち、辺りが夜の帳に包まれた頃、神宮寺からその川の上流、鵜ノ瀬へと行列が厳かに進みだす。
 静々と松明をかかげて、行列は進んでいく。
 古風、とは決して言えない叔父でさえ、その神威に打たれた、そう言っていた。
「あのお水取りに関わりがあるとは思えない、美しい祭りだそうだよ」
「奈良のあれも僕は好きだよ」
 苦笑混じりに琥珀は言う。
 私自身は人ごみが苦手で、出来ることなら一生家に閉じこもっていたい人間であるのだけれど、琥珀は違う。
 いや、琥珀だって大勢がこう……熱気に包まれて一斉に同じ方を見て、というのは苦手らしいが、祭り、というものにはなにか日本人としての敬虔さ、というものを持っているようだ。
 私はどちらかというと人気のない神社にそれを感じる方だけれど。
 最近、神社や神道というものは日本人を戦争に駆り立てたものなのだ。だから無くさなければいけない。
 そんなたわごとをきく。
 馬鹿なことを言ってはいけない。
 日本人というものは本来あまり宗教的ではない人種なのだ。
 あれはあのときの国の政策であって民が神社を訪れる気持ちとはまったく違うもの。
 事実、他国のいわゆる神様というものは拝めば来世、もしくは現世での幸福を約束するではないか。
 日本の神々というのは拝み祭らねば祟るのだ。
 精神の根幹が日本人と他国人は違う。
 いや……おそらく私が今、他国、とくくったのさえ間違いなのだろう。民族それぞれ、いや、人それぞれ皆違うのが当たり前なのだ。
 信じるものが多種多様であっても、信じない人間がいてもそれでも皆が和気藹々と暮らせることの出来る世界はいったいいつになったら来るのだろうか。
 私自身、神社や神道を信じているのか、そう問われれば否、と答えるだろう。
 だけれども、鳥居をくぐれば自然頭を垂れ、寺の仏の前では我が身を悔いる。
 人として今の自分をさらけ出せるのはそう言った存在なのではないだろうか。実在や否やは問わない。今まで千年の古きに及んで人々が敬ってきたものをその子孫として大切にする。誤解を恐れずに言えば民族の精神、と言うものかも知れない。
「若狭に行くなら、少し早めに出てさ。近江も周ろうよ」
 楽しげな琥珀の声にふっと我に帰り、苦笑がもれた。
 どうにも先の大戦というのは妙な方に思考が行くらしい。
 琥珀がああして戦争というものに非常な傷を受けている所為、かも知れない。
「どこに行く?」
「三井寺でしょう。延暦寺でしょう。石山寺も行って見たいなぁ」
「石山寺……紫式部が源氏物語の構想を練っていたところっていう、あれか……」
「そう!」
 ぱちりと手を打ち合わせ琥珀は言う。
 歌人として、一人であれだけの和歌を読み別けた彼女に敬意を表しているのだそうだ。
「……悪くないな」
「行こう、ね?」
「行こう」
 そういう事になった。
  昭和四十三年二月十四日   篠原忍 記す




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