九月、である。 私のような曜日月日に関係のない仕事をしている人間でも、どうも九月というのはいらだたしくていけない。 なぜといえば同居人がばたばたするから、の一言に尽きるのだ。 いや、同居人と言っても琥珀のことではない。 実は我が家にはもう一人同居人がいる。 「同居人」というのも妙な話だが、私の甥である。 弟の子なのだが、姉娘が病気で双子の息子ふたりの面倒まではとても見られない、と嫁に泣きつかれ、弟の方が我が家にいるのだ。 姉娘の方はすっかり言いようなのだが、どうしたわけかここが気に入ってしまい、彼は依然としてうちに居続けている。 琥珀が可愛がっている、というのもひとつ理由かもしれない。 私にしても琥珀にしてもいまだ独り身で子供もいないものだから、中身が子供な琥珀は、彼が可愛くて仕方ないらしい。 なに、子供同士でじゃれているようなものだ。 そんな風にして可愛がりながらもきちんとしつけているから、普段は聞き分けもよく適度の茶目っ気もあるよい子なのだが、九月となるとそうはいかない。 正確には、九月、ではない。 それ以前の一週間が騒々しい事この上ない。 そう、小学校の宿題、というやつである。 とにかく今は夏休みの宿題の量が生半可のことではなく、それでなくとも興味のないことにはいっこう真面目にならないという、私に変な所で似た甥は、ご想像の通りこつこつ宿題を片付けていくという事をしない。 「毎日少しずつでいいからやるんだよって言ったじゃんか」 「だから作文と国語のドリルは済んでるじゃん」 「自分の得意なものばっかでしょ。済んでるのは」 なんていう琥珀の小言と甥の口答えを延々一週間も聞き続けるのは並大抵の事ではない。 大体男の子というものは十一歳にもなって親代わりの人間の言う事を素直に聞いているようじゃ、いけない。 多少の自意識が目覚めてもいい頃だ、と私は思うからあれこれ言わないでいるのだが、 「篠原さんが怒った方が言う事聞くんだから、ここぞって時はちゃんと叱ってよね」 などと私まで琥珀にしつけられている始末だ。 まったくもって手のかかる伯父甥である。 そんな喧騒もようやく今日一日になって止みほっと一息ついた。 昼過ぎには終わったはずの学校から甥が帰ってきたのは既に夕刻近く、 「もう晩御飯だからね。早く風呂はいっといで」 そう、琥珀が声をかけていた。 久しぶりに友人と遊んだのがよほど楽しかったのか、今日は随分興奮気味にしゃべっている。 それを琥珀が微笑みながら聴いている。 和やかな夜だった。 不意にざわり、風が鳴る。 庭に目をやれば曇りがちだった夜空に一条の月光。 風が雲を払い、庭の百日紅がぼうっと光るようだ。 ほうっと息を飲む音がした。 振り向けば琥珀が笑っている。 目顔でこの子だよ、という視線の先を見てみれば甥がうっとりと百日紅を眺めていた。 彼はついと立ち上がり、座敷から縁側へ。 庭下駄突っかけ百日紅の下へ行く姿はなにかに魅せられたようだ。 いや、百日紅に魅入られた、のかも知れない。 日一日と変わっていく少年らしいほっそりとした肢体はなよ竹のように繊細で、しかも強靭だ。 それが月の光に照らされている風情というのはなにか妙な美しさすらあった。 琥珀もため息をつき、手元の紙に歌を書き付けている。 あの小さかった甥がいつのまにかもう月に照らされた花の美しさを知るか、そう思えば感慨もひとしおだった。 縁側から蚊取りの煙がたなびいている。 煙も光に映し出され、一層幻想をかもし出す。 と、甥が振り返り照れ臭そうに、笑った。 煙に笑顔がかすむ。 煙、笑顔。 ふと思う。 今度草津に連れて行ってやろう。 湯畑の煙の向こうに見える笑顔はどんな風に見えるのだろう。 琥珀は甥と三人で行く旅はきっといつものふたり旅と違って明るくも騒々しいものになるはずだ。 たまにはそんな旅もいい。 「草津にでも行くか」 言えば琥珀がすべてを了承したように笑っていいね、と言った。 昭和四十三年九月一日 篠原忍記す |