突然の出張が決まったのは、午後一番のことだった。それから秘書室の副室長、新庄があちらこちらと電話をかけ、ネットで検索し、探し回っているのだがホテルが取れない。 「室長、間が悪すぎます」 情けない顔をしてやってきたのは午後も遅くなってからのこと。憔悴した顔色が努力のほどを語っている。 「全然取れない?」 「まず無理です」 「それは……困ったな」 「一軒だけ、何とか一部屋押さえられましたけど……」 「あぁ、そうなんだ。ご苦労様」 それに何の問題が、そう目で促せばちらりと社長室を窺った。なんとなく、問題が察せられてしまってカイルも目を泳がせる。 黙って社長室をノックした。それでだめだと言うならば、対策を考えなくてはならない。そもそもそうは言わせないのがカイルの部下に対する責任と言うもの。 「なんだ」 不機嫌に口許を強張らせて、それでもいままでの秘書室の努力を知っているのだろう、夏樹は社長室から姿を現す。 「ホテルが取れたそうです」 その程度のことで呼び出すな。一見して顔に書いてある。が、夏樹はカイルが呼んだのだから何事かが起きているのだろうとも無言の内に言っている。 「申し訳ありません!」 向こうで新庄が叫ぶように謝った。 「まだなにも聞いていないが」 少しばかり皮肉に言って夏樹は新庄を見る。それで彼は新庄の気を楽にさせようとしているのだろうが、新庄のほうはどうだか知れない。 「ホテルなんですが、一軒しか取れなくて」 「取れればどこでもかまわない」 「それが、その」 「取れたんだろ」 「はい、取れました」 「問題は」 言葉をかわすたびに小さくなっていく新庄が哀れになってしまう。けれどカイルも問題を知らないのだから対応ができなかった。 「プランがあるんです」 「なにがだ」 「ホテルが、プランをやってるんです。この時期の……」 言って新庄は今度こそ本当に体を縮めた。ぴくり、夏樹の眉が跳ね上がる。 「時期が悪いんです。札幌、雪祭りじゃないですか。ホテルが空いてなくって。ですから、こんな所しか」 「見せろ」 夏樹の手に渡ったのは、新庄がプリントアウトしたらしいホテルのプラン詳細。煌びやかな文字が躍っていた。 「気のせいか、新庄」 眩暈を抑えるよう、夏樹は額に手を当てる。 「バレンタインプランしか空いてないんです!」 きっぱりと現実だ、と新庄が叫んだ。どうやら彼も卒倒しかけているらしい。 「なにが楽しくて男二人でこんな所に泊まらなきゃならん」 地を這う低音に新庄は今にも消えそうだ。まだ何かを言い募ろうとする夏樹の前にそっと手を出しカイルは介入を図った。 「カイザー」 「黙れ」 「黙りません。これは仕事です。楽しみではありません。新庄の努力に免じて我慢してください」 「……お前は楽しそうだな」 「気のせいです」 「そうだったらどれだけ楽か!」 小声で罵るのがなんとも可愛い、一瞬カイルは職場だということを忘れて微笑みそうになる。それを破ったのは女性社員の声だった。 「わぁ、いいな。バレンタインプラン特別ディナーだって」 「ほんとだ。ケーキついてるよ、ケーキ!」 「特典にお二人の愛を深める風水オリジナルストラップだって」 思わず腰が砕けそうになってしまう。よりによって、そんなところしか空いていないとはどういうことだと出張先の北海道そのものを罵りたくなってくる。 「カイル……」 「カイザー。お気を確かに」 「確かにできたらいいんだがな」 知らず知らずのうちにあふれ出してくるのは溜息。また、歓声が上がる。 「やだー! 室長、ダブルベッドですよー」 これぞ変人集団の本領発揮、と言うところか。青い顔をして怒りをこらえている夏樹にかまうことなく女性社員は嬉々としていた。 「それは困ったね」 「大丈夫ですよ、カイザーもほっそりしてらっしゃるから」 「そう言う問題かな? 見せて」 軽くあしらうカイルを見ていると、夏樹はいつもかなわないと思う。同時に湧くのは淡い嫉妬。カイルと同じよう、わずかに職場を忘れかけた。 「あぁ、それは君の読み違いだね」 「え。ほんとですか」 「嘘ついても、ね」 苦笑してカイルは彼女が覗き込んでいたのと同じ紙を手にして震えている夏樹の元にと戻ってくる。 「ご心配は要りません。セミダブルサイズのベッドを使用したツインルームです」 「心の底からほっとした」 なんだか、その程度のことだったら我慢できるような気になってしまう。前提がおかしいのだから、仕方あるまい。 「いいなぁ、室長。俺が行きたかったです」 事態が打開したと思ったのか新庄が迂闊なことを口にした。単に夏樹はいまのところ誤魔化されているだけだと知っていたカイルはかすかに眉根を寄せる。案の定、夏樹は新庄をじろりと睨む。 「そうか、カイルと行きたいか。いいぞ、行け。そうだな、なんだったら俺が特別室でも何でも取ってやる。バレンタインプランでも何でもやってこい」 珍しく一息に言って夏樹は再び新庄を睨みつけた。カイルは黙って天を仰ぐ。 「そうか、その手がありましたね」 縮こまった新庄が、あまりにも哀れでカイルは朗らかに口を挟んだ。 「なにがだ」 「私費でホテルを取りましょうか。ある程度以上かければまだ空いているかと思いますが」 「……謹んで遠慮する」 にっこり笑ったカイルに社員一同不思議そうな顔をした。いま何が起こったのか、正確に理解したのは当事者二人だけ。 夏樹はカイルの言葉の裏を読んでしまった。あの男が私費で取るというならば、このホテルの恥ずかしいバレンタインプランなどより遥かに上を行く、想像を絶する恥ずかしさを味わう羽目になる、と。 無論、カイルはそのつもりで言ったのだ。仕事とは言え、就業時間を離れればプライベートだ。例年、忙しいこの時期に今年は運がいいのか悪いのか出張である。ホテルで二人、バレンタインを過ごすのも悪くはない。 「では、そういうことでよろしいですね」 「全然よろしくはないが、致し方ない。新庄、覚えておけよ」 「はい、すみません……」 「カイザー、新庄の責任ではありません」 「もう少しまともな所がなかったのか、それにしたって」 「ですから、ないんです。雪祭りにバレンタインじゃ時期が、あまりにも」 夏樹は黙って新庄の釈明を聞いている。もっとも、彼のせいではないことくらいは理解している。怒る相手ならば札幌工場の責任者だろう。よりによってこの時期に、これほど差し迫ってから呼ばれては取れるホテルも取れない、と言うもの。 「カイザー。あの、ケーキがおいしいらしいです。せめて楽しんできてください」 口を滑らせたのか、それとも意識していないのか、言った新庄の言葉に夏樹が一歩を踏み出した。 「カイザー、やめてください」 「黙れ、カイル」 「あなたが手を上げたら労使問題です。退社後、個人的にいくらでも八つ当たりは甘受しましょう。新庄にはやめてください」 「いくらでも?」 「はい。どうぞ、いくらでも」 「やめた」 「かまいませんよ、私は」 「お前いびっても子供の喧嘩と大差ない。やめた」 「それは重畳です」 何事もなかったかのよう、ふわりと破顔したカイルに夏樹は毒気を抜かれ、もういいとばかり新庄に手を振った。 「土産は期待するなよ」 そんな言葉を行きかけた新庄の背中に投げつける。 「カイザー、ひどいです。楽しみにしてるのに!」 けれど返ってきたのは女性社員の非難ばかり。これには夏樹もかなわないと背を向けて社長室へと退散した。 出張からカイザーと室長が帰ってくる。秘書室はいつになく緊張していてた。が、案に反してカイザーは不機嫌ではなかった。無論、普段に比べて、と言う程度だから他課の社員には相変わらず不機嫌、と映ったことだろう。 なぜ夏樹の機嫌がいいのか社員は決して知ることはない。カイルがきちんとチョコレートを用意していたことも、コンビニで買った板チョコを投げつけるように夏樹が渡したことも、二人以外は誰も知らない。 |