夢を見ていた。 じっとりとした汗がにじむ、嫌な夢だった。うなされて目を覚まそうとするのだけれど、夏樹は身動きすら出来ないでいる。 あの夏の日々の夢だった。 あとから知れば戦争終結も近い夏の日。蝉の鳴き声だけが響く街路、ひっそりと身をすくめた人々。 夕暮れだった。 夢の中、夏樹はどことも覚えていないその道をたどっていた。 「あぁ……」 不意にわかる。奉職していた学校への通い道だった。 戦争さえなければ子供の声があちこちで聞こえていたであろう道に、今はただ家路をたどるみすぼらしい影があるばかり。 日が暮れていく。 窓に明かりは灯らない。 爆撃の目標になるから、といったいどれほどの間、薄暗い暮らしを強いられているのだろうか。 ろくにない食べ物をめぐって言い争う声。ひもじさに泣く子供の声。叱る親の、声。 胸苦しくなるような、あの日々の記憶。見回せば辺りは暗い。誰一人いない道をどこへ向かうともなく夏樹は歩いていた。 かすかな音がする。すぐに大きな。 サイレン、爆音、光、爆発。 「空襲っ」 どこからともなく聞こえる声。怒号。たちまちあたりは走り出す人で埋め尽くされた。 「あんた、なにやってんだっ」 突き飛ばされ、手を引かれ、逃げるよう促され。 それでも夏樹は歩いていた。目標に向かって。 学校に行かなければ。生徒が。 ただその一念で歩いていた。 周りはあっという間に炎に包まれ始めている。あちらこちらで油の強い煙が立っていた。 焼夷弾、夏樹にはすでにそうと知れている。爆発するだけではなく、地上で燃焼し続ける残酷な兵器。逃げ足の遅いもの――子供、年寄り、女たちが先にやられる。炎に巻かれ、熱に閉ざされ死んでいく。彼らがなにをしたというのか。なんら罪のない非戦闘員、いや、一市民を殺していく。 あの空の上、戦闘機に乗ったかの国の兵士はそれを笑って見ているのだろうか。それとも任務だからとつらい気持ちを押し殺しているのだろうか。 いっそ笑ってくれた方がまだ楽だ。夏樹は思う。 そうすれば、憎むことが出来るから。 「先生っ」 幼い声に正気づく。生徒が駆けてきていた。火の壁を避け、走っている。 「あぶないっ」 ふらり、家の壁が彼に倒れ掛かる。彼は機敏にそれをさけて夏樹の元にたどり着こうとする、そのとき。 新たな爆発。 一瞬、夏樹と生徒の間に炎が立ち上がり、夏樹は生徒の姿を見失った。 「どこだ、無事だったら返事を……っ」 炎の向こうから弱々しい声。ついで彼は炎を抜け。 いや、抜けてはいない。彼の体に火がついていた。幼い背中に燃え盛る炎。 考えるまもなく夏樹はその火を手で叩き、彼の体を地面に転がし、火を消した。 「大丈夫か」 夢の中、夏樹が生徒に尋ねている。目覚めた自分の一部は答えを知っている。 彼は疾うに死んでいた。 焼け爛れた背中。苦悶の顔。せめて最期の一言さえ、聞いてやることが出来なかった。 「熱かったな……」 死んだ子供の体を撫でながら、夏樹は泣いていた。落ちた涙が彼の泥まみれの顔に涙の筋を作る。まるで彼が泣いているようだった。 なぜ、死ななければならない。こんな幼い子供が、なにをしたというのか。敵国の人間を一網打尽に殺さねば気が済まぬとでも言うのか。最後の一人たりとも生きることすら許さぬというのか。 上空がまた、明るくなった。再三落とされる爆弾。夏樹は逃げる気を失ってた。死んだ生徒を放ってどこへ逃げられようか。そこにあるのはただの肉体だとわかっていても、そばについていてやりたった。 衝撃音に振り向けば、通りの向こうが赤く燃えている。もう燃えるものなどたいしてないというのに火は燃え続ける。 と、吹き飛ばされた。なにがあったのか、わからなかった。壁にぶつかった衝撃で息がつまり、呼吸が回復してはじめて、飛ばされた、とわかったのみ。 辺りを見回し生徒の骸を探す。 なかった。 燃えてもいない。自分も死んではいない。不発弾だったのだ、と気づいたのはずいぶん後になってから。 生徒の体は四散し、原型を留めてはいなかった。不発弾の直撃を受けていた。頭だけがかろうじてわかる程度に残っている。 その顔はまるで 「先生は逃げてください。もう充分ですから」 そう言ってでもいるように、少し、微笑んでいた。気のせいかもしれない。自責の念を薄めたい自分の精神の作用かもしれない。だが確かにあの時、自分にはそう見えた。 彼の元ににじり寄り、血まみれになった髪を手で整える。そんことをしても無駄だ、こんな体にしてしまった、守ってやれなかった。そう思うからこそ、彼の髪を撫で続けた。 「もう、行くよ」 彼の血のついた手で自分の頬をこする。血が目に入って痛い。涙は痛みゆえ。もう、彼のために流す涙はなかった。悲しみが強すぎて。 とぼとぼと歩き出す夏樹の背に、声が聞こえる。 「早くっ」 彼の声。幻聴だ。だが、振り返りもせず夏樹は従い走る。 その後ろで爆音。 あと一歩。あと一歩遅ければ死んでいた。 振り返れば炎。生徒の骸はもう見えない。 道路際の木が燃えていた。庭の木、だったのだろうか。塀のないそこは庭なのか空き地なのかも定かではない。 ぱちぱちと音を立て、木が燃えている。 「綺麗だ……」 場違いだとは思わなかった。燃え盛る炎がまるで満開の桜のよう。火の粉が飛び散る。桜の花びらが舞う。風にあおられ、風に揺れ。炎の熱に頬が照る。 体を揺さぶられている。熱い。 「夏樹」 声。聞き慣れたそれ。 「あぁ……」 ほっとため息をついて夏樹は体を起こした。 いつもの居間の広縁に横になっていた。いつの間にかうとうととしてしまったらしい。夏の日差しに頬が熱かった。 「いくら夏でも風邪をひくよ」 「わかった」 「汗をかいたでしょう、着替えなくちゃ」 こまごまと言いつけられるのに、夏樹は黙って従い、汗にべたつく肌を濡れた手ぬぐいで拭った。 「麦茶があるよ」 また元の場所に戻ってごろりと横たわる夏樹に、冷たいコップを持った真人が正座で微笑む。 「のどが渇いたでしょう」 あいまいな返事だけをして夏樹は一息にそれを飲み干した。 「ほら。やっぱり」 笑って真人がもう一杯、注ぐ。 「ありがたい」 ようやく強ばった顔がほぐれて笑えた。 「……うなされてたね」 「あぁ」 「起こそうか、どうしようか悩んだんだけど……」 「助かった」 「怖い、夢だったの」 「夏は、な」 視線をそらして言う夏樹の胸に足をくずし頬寄せる。まるで鼓動を確かめているようだ、夏樹は思う。 不安げな真人の背中に腕を回せばすがりつく体。いつまで経っても細い体が夏の盛りに震えていた。 「夏は……いやだね」 ぽつり、つぶやく真人の声。 「あぁ、まったく……まったくだな……」 見上げた空はあの夏の日より少しだけ、曇っていた。蝉の声も聞こえる。風の音もする。あの日と違うのは、外で遊ぶ子供の、声。二度と再びあの無邪気な声の途絶えることのないよう、胸のうちに祈りを捧げ夏樹は愛しい者の体を抱き寄せた。 |