彼女が篠原家を訪れたのは、打ち水をしたばかりの庭に陽炎が立つような、夏の午後だった。
「篠原さんは戦前、教職についていらっしゃったんですよね」
 寄稿する雑誌の若い編集者はそう言った。
「そうですが」
 怪訝な顔をして夏樹はそう答え、冷たい麦茶をひとくちすする。
 無論、真人が淹れたものだった。彼女の手にも冷えたそれはあった。
 彼女は考えるように手の中でその厚手のコップをいじり、そして顔をあげ。
「お話を伺ってこい、と編集長に言われました」
 痛ましそうな表情が浮かぶ。
 が、それにもまして夏樹の表情は暗かった。
「戦争の話を聞かせてください」
 仕事を優先させるそのきっぱりとした決意に夏樹は軽く目を閉じ、静かに考え込んでいた。



 教職についていたのはたった四年間だった。
 周囲の反対も慣例もかなぐり捨てて教鞭を取ったのは、「華族」という生きかたに対する反発だったのか、ただの母へのあてつけだったのか、いまとなってはわからない。
 そしてその年の暮れ近く、太平洋戦争が勃発した。
 当時は確か、
「大東亜戦争」
 そう、言っていたように思う。
 十二月八日。
 後に真珠湾攻撃、と呼ばれるようになったハワイ海戦の始まりだった。
 戦勝気分に湧き上がっていた人々も時間が長くなるにつれ、どこかぴりぴりとした不安を漂わせるようになっていた。
 私にとっての救いだったのか、自己憐憫だったのか、明るく晴れやかな目をした生徒たち。
 日を追うごとに彼等の目から光が消えていくのを見ているのがつらかった。

 今から考えれば戦争終結も近い昭和二十年の春。
 父と兄とをいっぺんに亡くした生徒に家に「激励」に行ったのだった。見舞い、とは口が裂けても言えなかった。
 当の生徒は田舎に疎開しており、年老いた祖母と、母親だけがひっそりと暮らしていた。
「お国の為に」
 とか
「英霊となり」
 とか、そんな言葉だけを断片的に彼女たちは口にしていたように思う。
 顔にはかすかな微笑さえ浮いていて、とても子供と夫を亡くしたようには、見えなかった。
 当然だった。
 そういう態度を取るのが銃後の婦女子の務め、と思われていたのだから。
 いたたまれなくなった私は早々に辞去し、やけに湧き出てくる苦い唾を道々何度も呑み込まなければならなかった。

「その途中、白い包みを持った軍服姿に行きあった」
 遠い目をして夏樹はつぶやく。
 語り手、としては落第の訥々とした話し方ではあっても、彼女は黙ってまま鉛筆を走らせ、ときどきあげる顔には薄く涙が浮かんでいる。
 夏樹はふと思う。
 彼女も戦争で身内を亡くしたのかもしれない、と。
 いや当然だろう。
 家族のうち、誰も死なずにすんだ人はいったいどれほどいたことか。
「遺骨、ですか」
「遺骨なんぞ、入っているものか」

 生徒の顔が浮かぶ。泣き笑いの顔。呆れたような、諦めたような。子供の浮かべる顔では、ない。
「先生、父は立派に戦って死にました」
 抑えきれずあふれた涙を隠すようにうつむいた子供の頭を黙って撫でてやることしかできず。
「白布に包まれた木の箱に、一枚紙切れが入っていました。遺骨も遺品も、なにも。父だ、と言って渡されたのはそれだけでした」
 いまも父は南の島に倒れているんです、先生。
 口にできない非難を飲み込んで、子供は笑う。
 人は哀しみが過ぎると笑うものなのか、そんな場違いな事を思っていた。

「行きあった軍人の持っていたのも、中身のないただの箱だろう」
 彼女は答えない。
 幼い頃のわずかな記憶に、そんな光景があったのかもしれない。

 白布に包まれた箱を持った軍人はちょうど少し前を歩いていて、立ち止まるのもよく見えた。
 ある家の前で立ち止まった軍人の前に家人が出てくる。
 途切れ途切れの声が聞こえる。
 けれども取り乱しも嘆きもしないしっかりとした声。まだ若い女の。
 死んだのは夫か。
 出征前にあわただしく式だけを済ませたのかもしれない。夫婦とは名ばかりのただ一夜を過ごしただけの夫婦かもしれない。
 若い女をみてそう思う。珍しい事ではなかったから。
 女は
「お役目ご苦労様でした」
 そう、深々と頭を下げて礼を言う。
 夫の死を運んできた男にそう、礼を言う。
 なにもかもが狂っている、恐ろしいまでのちぐはぐさに吐き気がする。
 軍人は黙って軽く会釈をし、立ち去っていく。
 死者とは、戦友だったのかもしれない。一瞬浮かべたなにか言いたげな目にそれを感じた。
 どちらも本音を言う事が許されない、馬鹿ばかしい時代だった。
 軍人が先の角を曲がるかどうか、私がその家の前に差し掛かるかどうか、その時に家の中から絶叫が聞こえたのだった。
 きっと軍人にもその声は届いたのだろう、わずかに足を止め、そしてそのまま歩み去った。
 家の中からは夫を失った女の狂ったような叫びが聞こえ続けていた。

 それから間もなくの事だった。
 昭和二十年五月二十九日。
 それは朝九時半から始まった。
 悲鳴と怒号が飛び交う中、あちこちで起こった火事のひどい匂いがしている。
 横浜大空襲だった。
 焼夷弾が落とされ、あっと言う間に火事が広がる。
 逃げ惑う人々は機銃掃射でばたばたと倒される。
 おもちゃみたいだった。
 人が人にできる仕業とはとても思えない。弄ばれるように武器を持たない人々が殺されていった。
 たった一時間半ほどで八千とも一万とも言われる人が死んでいった。
 薄曇の空に、焼夷弾が起こした火事から起こる突風が吹き荒れる。
 怒号、悲鳴、うめき声。
 その他にはただ、あの火事の熱さしか覚えていない。
 焼け爛れた広場に、煤で汚れ疲労で目のかすんだ人々が一塊になっていた。
 しっかりとその手に子供を抱いた人の姿もあれば、泣き叫ぶ力もなくしたように彷徨いながら子の名を呼ぶ人の姿もあった。
 その誰もが武器を持たない人々だった。



「こんな話を聞いて面白くもないでしょう」
 誰も彼もがつらかったあの時代に、自分だけが不幸であったわけなど、決してない。
「こうしたお話をきちんと伺って風化させずに次の世代に伝えるのは我々の使命、そう編集長が言っていました」
 頑固で職人気質の編集長の顔が浮かぶ。
 戦時中、軍部に利用され、統制された苦い思いを彼もまた抱えて生きているのかもしれない。
 彼なりの、これが償い方なのかもしれない。
「使命……確かに」
 夏樹の言葉は彼女にあてたものではなく、ただ自身に呟いたものだった。
 忌まわしい記憶を忌まわしいままに封じるのではなく、歴史として語り継いでいかなくては、と。
 そしていつか、次かその次かいつの日か、戦争のない世の中にできるのならばそのための教訓として。
 亡くした命の重さを語り継ぐ。
 それが生き残った自分たちに課せられた使命、かもしれない、と。
 平和など、戦争のない世の中など、決してこないとは知りつつ、声を限りに叫ぶ虚しさ。
 けれど、叫ばないよりはたぶん、ずっといいのだ。




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