ちりちりと、軒先に吊るした風鈴が鳴っていた。いつもだったら多少の涼味は与えてくれる音色も、うだるような熱気に当てられて冴えない音を響かせるだけだ。
「暑いねぇ」
 誰に言うともなく真人は呟き、そしてちらりと縁側を見やる。風は通ってはいるのだが、通る風さえ暑い有様では団扇で風を送ってもただの熱風だ。
 こんな日にはとても仕事になどならない。正午過ぎの熱気は薄れたものの、夕方になってもまだ座っているだけで汗が滴りそうだった。
 編集者か誰かが持ってきてくれたつりしのぶの下、風鈴がまた音を立てる。風情あるはずのつりしのぶも、いささかくたびれて萎れていた。
 夏樹は、と言えばとっくに夏ばてて、物も言う気力もない。日がな一日よしずを立てかけた縁側に寝そべっているばかりだった。
 時折動いたか、と思えば日陰に移動するだけ。猫と一緒になって怠惰極まりないと言ったらない。その猫が物憂げに伸びをしていかにも暑くてたまらない、と言いたげな目つきをした。
 身じろぎもしない夏樹が心配になって覗き込めばどうやら息はしている。毎年のことではあるのだけれど、やはり心配になる真人だった。
 あまり驚かせないよう静かに立ち上がっては彼の横を通り庭に降りる。それにも夏樹は目を上げることすらしない。
 真人が通れば、おそらく猫は彼の足が邪魔だったのだろうが、うっそりと寝返りを打ってお愛想まじりにゃあと鳴く。
「猫のが偉いね」
 密やかに笑って庭下駄を突っかけた。思ったとおり、外のほうがずっと暑い。開け放っているのだから大差はなさそうなものだけれど、家の中はそれでもずいぶんましだったと改めて思う。
 あっという間に噴出してきた額の汗を拭っては桶に水を汲み柄杓を手にした。それを目にした猫が今までの鈍さはなんだったのかと思う勢いで飛んで逃げる。
「逃げ足は速いんだから」
 喉の奥で笑って柄杓に水を汲んだ。真人の手から水が放たれる。よしずに当たって砕けて涼やかな音がした。
「……なにをする」
 無精たらしく夏樹が目だけを上げていた。どうやら水がかかってしまったらしい頬を拭きもしない。
「ごめん、かかっちゃったね」
「……わざとだろ」
「涼しかったでしょ」
 ちょうどよいところに、ふっと風が吹く。水に濡れたよしずを通った風が先程より涼気を帯びていたのだろう、顰め面をした夏樹は何も言わなかった。
「ほら、夏樹」
 よしず越し、手を伸ばしては重たい体を押しやる。これ以上水をかけてはまた文句を言われかねない。動くのも面倒と言わんばかりに寝返りだけを打って逃れた夏樹の背中に真人は笑う。
 何度か水を打てばよしずはすっかり濡れて庭土に水が滴る。もうだいぶ日差しは落ちている。湿気がこもってつらいこともないだろう、真人はうなずいて縁側に上がった。
「あ……」
 はたと気づいた。辺りを見回せばやはり、いる。慌てて飛んでいけばいつの間にか戻ってきた猫を蹴飛ばしこちらも飼い主同様ものぐさに鳴いて文句を言った。
「ごめん」
 おざなりに背中を撫でてやれば暑いと身をよじって逃げる。そんなところも飼い主そっくりだ、そう真人は内心で笑った。
「夏樹、ちょっとどいて」
「……やだ」
「やだじゃないでしょ。蚊に食われるよ」
 それが呻き声だったのか、返事だったのか、付き合いの長い真人にも判然としない声を上げ、夏樹は再び寝返りを打つ。
 そのすぐそばに蚊遣り豚を置いてやれば薄くたなびく煙が彼の周りに漂った。
「けむい」
「うん、だろうね」
「……わざとだろ」
「うん」
 笑って言えばじとりと睨まれた。夏が始まって以来、食欲の落ちた夏樹の頬はすっかりこけてしまっている。病窶れした美青年といえば聞こえはいいけれど、共に暮す身となってみれば心配なことこの上ない。
「なんだよ」
「うん、なにが」
「いま、笑った」
「気のせいでしょ」
 そっと笑ってはぐらかす。いまだに彼を青年、と考えてしまう自分がいることに、真人は笑ったのだった。いい加減、二人とも青年で通る年ではない。
 それをどうとったのか、夏樹は不機嫌そうにあらぬ方を見ては目を閉じる。額に浮いた汗を手を伸ばして拭ってやれば、少しだけ気分良さそうに目で笑う。
「なにか冷たい物でも食べようよ」
 言うだけ、言ってみた。どうせ返事など返ってこないのだ。以前は食べないか、と持ちかけていたのだが、そうすると要らない、と返答が返ってくる。だから真人は勝手に用意をするのだ。目の前に出されれば、夏樹は用意した真人を慮って多少なりとも箸をつけるのだから。
「夏樹」
 ことり、縁側に器を置いた。その音に夏樹が目を上げる。それから不思議そうに瞬いた。
「どうしたんだ、これ」
 ちらりと視線で器を指す、と言う器用なことをして見せ夏樹はたずねる。
「綺麗でしょ」
「あぁ」
 それは切子の器だった。涼しげな青に端正な篭目模様が刻んである。今まで真人が使ったことのない器だった。
「この前、神田に行ったじゃない」
 そう言って真人は出版社に赴いたときのことを彼に思い出させた。うなずいたから、たぶん思い出したのだろう。
「そのときお中元だっていただいたの」
「無精な」
「まぁ、そう言わずにね」
 つい、苦笑いをしてしまう。礼儀としては編集者が自宅に持ってくるのが筋だろうけれど、相手も篠原忍が自宅に来ることを好まないのを知っているのだ。水野琥珀に用があろうとも、そこに確実に篠原がいるのだから編集者としても頭の痛いことだろう、と真人は思う。
「気は利いてるがな」
「いただく方が言うのもなんだけど、素麺と冷麦はしばらく見るのもいやだよ、僕は」
「……それくらいしか食えない」
「茹でるの、暑いんだけどね」
 ちくりと言えば言葉に詰まる。彼の健康を思えば他の物も食べて欲しい。もっとも今に始まったことではないので真人としてはなんとか夏を乗り切らせて食欲が回復するのを期待するよりない。
「冷たいうちに食べようよ」
 そう、器を彼に向けて押しやった。その言葉にようやく夏樹が体を起こす。なんともつらそうな動きで見ているほうの胸が痛んだ。
「ところてんか……」
「これだったらつるつるっと入るでしょ」
「そうだな」
 一つうなずき、試すよう器を持ち上げるのだが、切子を持つ手が震えるのではないかと思うほど衰弱していて、真人は今日こそは何か力のつくものを食べさせよう、と密かに決心する。
 柱にもたれかかった夏樹が器の縁に添えたからしをきれいに溶いていた。少し多いくらいが彼の好みで酢もきつめが好きらしい。
「あぁ、食えるな」
 つるりとすすって夏樹はうなずく。それを見て真人はようやく安堵する。ほっと息をつけば夏樹が微笑ったような気がしたけれど、彼が物を口にするのを見てやっと自分の器を手に取る気になれた。
 冷たいところてんが喉を通っていくのがなんともいえず心地良かった。さっぱりした酢醤油に、これぞ夏、と言う気分がする。
「からし、やろうか」
「ううん。いい。多かったの」
「いや、お前のほう、少ないみたいだから」
「僕はあなたほど入れないの」
 笑って顔を顰めて見せた。彼の物と自分の物と、器を見比べれば明らかに色が違う。
「ほら、僕のほうが涼しげじゃない」
 わずかにからしの濁りがあるだけの真人の器だった。転じて夏樹の物は、といえばすっかり元の酢醤油の色がわからないくらいからし色になっている。
「今日は多かったんだ」
「嘘」
「いつもこんなに入れないだろ」
「そうだったかなぁ」
「お前が入れすぎたんだ」
 ぷいと言っては顔をそむけた。その口許が笑っているのが目に入る。
「ごめんね、夏樹」
 殊勝げに謝って見せれば向こうを向いたまま夏樹が笑った。ふわふわと蚊取り線香の煙が立ち上る。気づけば猫は元の位置にまた寝そべっていた。
「あそこ、お気に入りだね」
「猫か」
「そう」
 しっとりと手に冷たい切子の器が快い。あっという間に食べ終えてしまった真人は放り出してあった団扇を手にとって夏樹をあおいだ。
「あそこは涼しいんだ」
 ゆっくりと箸を運びながら夏樹が言う。まるで秘密の出来事を教えるような口調なのがおかしい。
「そうなの」
「猫がいる所は涼しいぞ。冬はあったかい」
「それは知らなかったなぁ」
「お前もやってみればいい」
 どこか得意げに言う夏樹に、真人はついに吹き出した。二人して猫と一緒に寝そべっている姿を想像したらおかしくておかしくて。
「きっと猫が嫌がるよ」
 笑いの合間に言えば、妙に納得した顔をする夏樹に真人はまたもや笑いを喚起させられ団扇で畳を叩いては笑い転げた。
「笑いすぎだ」
 むっつりと言うのも笑いを誘う。すっかり笑いすぎて息が苦しい。けれどおかげでさっぱりとした気分になった。
「ごちそうさん」
 軽い音を立てて器が置かれた。思わず真人はまじまじとそれを見てしまう。そんな真人を呆れるよう夏樹の口許は笑っていた。
「おそまつさまでした」
 珍しく、きれいに平らげてくれた。それがところてんであってもも真人は嬉しくてたまらなくなる。そっと笑って彼を見つめれば照れたようふい、と目をそらした。
「お。いい風だ」
 よしずを吹き抜けていく風が、ついでとばかり風鈴も鳴らしていく。ゆっくりと暮れていく日は翳り、冴えなかった風鈴も少しだけ涼しげな音色になった。



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