隣の部屋から咳き込む音が聞こえている。夏樹が寝込んでいた。一昨日まであった高熱は下がったものの、真人は油断できない、とばかりまだ彼に起き上がることを許さなかった。
「気分はどう」
 襖を少し開けて中を覗いた。途端に真人の口許が引き締まる。
「起きちゃだめだって、言ってるじゃない」
「そうは言ってもな」
「なに」
「……寝るよ」
 言葉の険に気づいて夏樹は溜息をつく。それほど深刻になることはないだろう、と思っているのだが、心配されるのが嬉しくもあり言い出せない。
 真人が思っているほど、病弱ではないと自分では思う。多少、人より軟弱ではあるけれど風を引くたび死に掛けたりはしないのだ。
「心配しすぎだよ」
 閉まった襖の向こうに向け夏樹は呟く。密やかな笑みが浮かんでいた。
 それでも熱のあった体は休息を求めていたのだろう、いつの間にやら眠ってしまったらしい。目か覚めたのは薄い光を感じたせいだ。
「ごめん、起こしちゃったね」
「いや」
 首を振って体を起こしかけ、はたと止まる。それから真人の目を窺えば苦笑の気配。
「起きられるんだったら、ご飯にしようか」
「そうだな、腹が減った」
「よかった」
 あからさまにほっとして真人が笑みを浮かべた。それほど心配しなくても、言いかけてやはりやめてしまった。
 彼にもわかっているはずだ。ただの風邪であって、それほどのことではないくらいは。それでも彼は自分を気遣うのをやめられない。ならばしたいようにさせてやればいい、そう思う。
 程なく真人が持ってきたのは葱入りの味噌おじや。厚手の陶器に入ったそれはまだ持つだけでも火傷しそうだ。
「熱いからね」
 言いつつ真人が匙を手に取った。
「真人……」
「なに」
「いや、何してるんだ」
「冷ましてあげてるの」
「自分でできるッ」
 ほんのり目許を染めて夏樹が言う。昨日までであったならば、また熱が上がったかと心配するところだけれど、いまのは完全に照れて喚いているだけだとわかる真人は気にした風もなくおじやを吹き冷ましていた。
「はい、夏樹」
 にっこり笑って言うものだから、ぐうの音も出ない。諦めて口を開けばちょうど良く冷めたおじやが旨かった。
「食べられる」
 首をかしげて聞いてくるのに黙って夏樹はうなずくだけ。さすがに素直に返答をする気にはなれない。
「じゃ、あとは自分でして。僕、まだ原稿が済んでないんだ」
 言うだけ言って、真人は席を立った。ほっとして夏樹は匙を手に取る。
 風邪を引いたのは、どう考えても自分の責任だった。真人がさり気なく咎めているのはよくわかっている。けれど、雨風の中であったとしても露貴が手を貸せと言うならばいつでも助けたい、そう思う。
 結局それで風邪を引いたのだから真人としては文句も言いたいだろう、そうわかってはいた。万事に控えめに彼は直接、露貴に苦情を言うことなど決してない。だから夏樹に自重を求める。
「わかっちゃ、いるんだがなぁ」
 呟いて匙を口に運べば葱の甘い香りがした。
 いつも甘えてしまう。真人が後ろにいるから大丈夫だと思ってしまう。男に対して使うのは間違った表現ではないかと思いはするものの、真人は奥床しい。
 だから皆、騙される。あれで内面は剛毅だし、夏樹が背後を預けるに足る男なのだ、彼は。
 本当だったら、自分に対しても文句を言いたいだろうと思う。けれど真人はそれをしない。潔しとしないのだ、彼は。おじやを吹き冷ますなど、だから彼には最大限に表現した嫌がらせだと夏樹は理解していた。
「夏樹、もう食べ終わったかな」
 どれほど経った頃だろう、真人がまた襖の隙間から顔を出す。夏樹はおとなしく布団をかぶって横になっていた。それを目にとめては真人が思わず笑う。
「なんだよ」
「別になんでもない」
「ほう、そうか」
 そっぽを向いたけれど、真人にはそれが謝罪と映った。夏樹は受け入れられたのを知った。互いだけを見つめてすごしてきた時間は短いものではない。だから、それだけで充分だった。
「夏樹。ちょっとお願いがあるんだけどいいかな」
「かまわんよ、なんだ」
「原稿。見てくれない」
「さっきも言ってたな、何やってるんだ」
「ほら、百人一首の。文章書くの苦手なんだよね、僕」
 顔を顰めて彼が言うのを夏樹は笑い出しそうになって見てしまう。苦手苦手と言いつつ、何とか百首分やろうとしているのだから大したものだと思う。真人はなぜだと問えば一度引き受けたのだから、とあっさり言うだろうけれど本業ではないのだからさぞかし苦労は尽きないだろう、夏樹はそう思う。この辺りも真人の内面を知らないものには決してわかり得ない彼の強さだった。
「いいよ、持ってきな」
 明らかに喜んだ顔をして一度真人は下がり、それから手に原稿用紙を持って戻った。夏樹はまずぱらぱらとめくる。
 相変わらずの字だった。自分の字と比べたくなってしまう。几帳面に書き込まれた原稿用紙の使い方も好ましかった。
「お前なぁ」
 最後まで読んで呆れて笑えてしまった。ぎょっとしたよう真人が腰を浮かす。見ればきちんと正座して言葉を待っていた。
「なにか、変ってこと」
「そうじゃなくてな……」
 顔を曇らせた真人を見てはわざとではないらしい、と見当をつけた。
 以前、まだ夏樹が旅行記の連載をしていたころのことだ。不用意に真人の話を書いたといって彼は怒ったものだった。いや、怒ったと言うよりは恐怖したと言ったほうが正しかった、そう夏樹は思いなおす。
 自分たちの秘めた関係が暴露されてしまうのではないか、そうなれば共に生きることはできないのではないか、そう言って真人は夏樹に詰め寄ったのだ。
 それなのに真人はいま、自分の作品内で同じことをしている。
 本来、真人は文章を書くのを得手とはしていない。対して夏樹は小説家だった。事実を歪めて書くのもぼかして書くのもお手の物。事実でありそうでいて、虚構だと思わせ、それさえもが文章上の罠かもしれない、そう読者に思わせるのは夏樹にとって容易い。
 けれど真人は違う。素直にのびのびと書いていた。それが彼の文章の良いところだと夏樹は思う。良いと言って偉そうならば、自分にとって好きな文章、と言うことだ。
 作品内で多少虚構をまじえられた自分たちの姿。生き生きとしていて好ましい。当然だと思う。ほとんど虚構ではなく事実なのだから。自宅で夏樹は彼を琥珀とは呼ばないし逆もまた然り。ただその点だけが嘘だった。
「だめ、かな……」
 真人は本職の作家に添削されてうなだれた。夏樹から見れば粗などいくらでもあるだろうし、いっそ自分が書き直したいとも思うかもしれない。そう思えば恥ずかしくて穴に入りたい心持だ。
「お前がどう思っているかは知らないけどな。俺はお前の書くもんが結構好きだよ」
「夏樹」
「素直で、悪くない」
「それって作文みたいってこと」
「……おかしなもんだな」
「なにが」
「文章はのびのびしてるのに、お前はどうして俺の言葉をひねくって取るかな」
「夏樹ッ」
 戯れに肩を打つふりをする。真人は決して夏樹の肩を打ったりしない。そこの古傷がすでにほとんど痛まないと知っていてもなお。
「一箇所、誤字があった。それだけ直せよ」
 夏樹は笑って原稿を差し出した。真人に意識などさせないほうがいい。あまりにも真実の自分たちの姿に近すぎる、そんなことを言おうものなら真人はきっと何も書けなくなってしまうだろう。それは好みの文筆家を一人失うのと同義だった。



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