夏樹が真人と暮らしはじめてもう何年経ったのか、会社の窓から夏の夕暮れを見ていたらふと、そう思った。
 嫌になるような湿気に露貴はネクタイをはずして襟元をくつろげる。
「いや……」
 湿気だけのせいじゃ、ないな。
 自嘲が唇から漏れ。
 いまだ夏樹に恋々としている自分。自分の方があれとはずっと近かった、途中から割り込んできた若造などにあれのことがわかるものか。そう、思う自分がいまもいる。
 理性ではわかっているのだ。夏樹にとって愛しい者は真人ただ一人。自分ではない。
 愛されることは終生ない。けれど一生の友ではいられる。それで充分ではないか。
 何度そう暗い寝床の中、思っただろうか。
 それで思い切ることが出来るなら。
 真人は知るまい、こんな思いを。明るい、あの真っ直ぐな目で
「いらっしゃい、露貴さん」
 そう笑いかけられるとき、自分がどんな思いをしているのか。知るまいし、知られてはならないとも思う。
 知れば夏樹が許すまい。
 たとえ自分であろうとも、愛しい者を傷つけた者をきっと夏樹は許しはしまい。
「悩んだ挙句、許してくれるかもな」
 そうではないことをわかっていて、露貴はつぶやく。
 夏樹恋しさに気も狂わんばかりだった。
 夏の夕暮れなど、堪らない。
 あの晩のことを、思い出してしまう。
 たった一度だけ。真人などまだ幼児でしかなかった頃に一度だけ、触れた体。
 手にいれたなど思わない。
 そう言って触れた肌。いまでも手に入れられたのだとは思えない。
 いっそ、奪ってしまいたい。
 何度そう思ったことだろう。
 それで夏樹が幸せを感じられるならばそうした。心の中のもう一人の自分が言う。
「まさしく、問題はそこだな」
 もしも真人に出逢う前にそうしていたら。
「考えても仕方ないこと」
 これ以上の夢想を断ち切るように露貴は言って窓を開けた。
 部屋の中のむっとした空気が逃げていく。外はまだ暑いのに、それでも部屋の中よりだいぶいい。
 しばらく部屋に風を通し、露貴は夕暮れを見ていた。

 夕涼み、と洒落たわけではない。
 ただこのまま自宅に帰ったら酒でも過ごして暴れそうな気がした。
 少し歩いてみるのも悪くない。そう、散歩にでた。
 無意識にそこを選ばなかったか、と問われれば否、とは言えない。
 野毛山公園。夏樹が好んで散歩していると知った場所。
 もしかしたら会えるかもしれない。そう思わなかったわけがないのだ。
 会いたい、と思いはしなかったけれど。
 いま顔を見ればいったいなにを言ってしまうか自信がなかった。
 だから人気のない所を歩いた。もしも見かけたらそっと帰るつもりだった。
「露貴」
 それなのに声は後ろから。
 振り向かなくてもわかる、夢にまで見た彼の声。
「あぁ……」
 驚いた、という顔をつくろって、振り向く。
 夏樹は一人だった。夏物の一重を相変わらず肌着もつけずに着ている。袂が風をはらんで涼しげだった。
「一人とは、珍しいな」
「なに、食事の支度をするのに邪魔だ、と追い出された」
「ひどいことを言う」
 笑った。笑えただろうか。真実、露貴はなんとひどいことを、と思ったのだから。
「少し痩せたか」
「夏ばてだな、たいしたことはないよ」
「ちゃんと食べているんだろうな」
「……真人みたいなことを言う」
「誰彼に言われるほどやつれてる、と言うことさ」
「大丈夫、心配ない」
 見たかった彼の笑顔はこんなものではなかった。
 自分に案じられて真人の心配顔を思い出して笑う、そんな顔は見たくなかった。
 彼に見られないよう、さりげなく手を後ろで組んでは拳を握る。
 見上げれば空は紫色の夕暮れ。茂る木々の合間からまだ星は見えず風が葉擦れを起こしている。
「露貴」
 いぶかしげな声にふと我に返った。
「いや、暑いな。ぼうっとしてしまう」
 照れて笑った露貴の顔を夏樹はじっと覗き込み首をかしげた。黄昏の、ほのかな光に夏樹の顔が浮かび上がる。
 手を伸ばせば抱きしめられる距離。引き寄せれば、くちづけられる距離。
「悩みがあるなら言ってしまえよ」
 彼の発した言葉で正気に戻る。
「悩みなど、ないよ」
「嘘をつけ」
「お前に嘘などつくものか」
 笑い飛ばした、大嘘を。目をあわさずにどこでもないどこかを露貴は見ていた。
「嘘だ」
 露貴の袖を引き、夏樹は言う。彼の手の触れた所が痛むほど、温かい。
 ただそれだけのことで不覚にも涙が出そうだった。
「嘘をつくとき俺を見ない。わかり易すぎる」
 指先が手に触れ、彼の手が自分の手を握るのを他人事のように、感じている。
 いま、抱きすくめたらどうするのだろう、と。こんな自分の思いを知っているはずなのに、と。
 それとも夏樹は忘れたのだろうか。もう過去のことだ、とそれで済ませているのだろうか。
「出来ることなら相談に乗る」
 真摯な彼の目。どこか青みを帯びたそれもこの夕暮れではわからない。
 握られた手。両手で包まれる。
「痩せたのは、露貴の方だ」
 つぶやく夏樹の声。視線を落としてはため息をついた彼。
「なんでもないさ。少し仕事に気がかりなことがあってね。それだけ」
 有無を言わさず手を振りほどいた。そっと。
 わざと彼の目を見て、笑う。なんでもない、大丈夫、と。
「病気とかじゃ、ないんだな」
「健康体さ」
「本当だな」
「そんなことで嘘をついてどうする」
「……そうだな」
「言いたいことがあるなら、お前こそ、言ってしまえよ」
「馬鹿なことを、考えただけ」
 今度は夏樹が視線をそらして苦笑いを。
 それに露貴は昔の通り肩を小突いて笑って言う。
「言ってしまえよ、私にだけ」
 内緒話。子供の頃からそうやって話した。楽しいこと、つらいこと。夏樹はいつもいの一番に露貴に話した。いまは、違う。
「本当に、馬鹿なことさ」
「いいから聞かせろよ」
「笑うから嫌だ」
「笑わない、誓って」
 ふ、と夏樹は黙りうつむき、そして木々を見やり。
「縁起でもないことをさ、考えた」
 言葉を切り、しばし。
「先に、逝かれたらどうしようか、そう、思った」
「本当に馬鹿なことを。真人君はお前よりずっと若いじゃないか」
「違う。露貴、お前さ」
 はにかむような夏樹の笑み。露貴は何も言えなかった。ただ、彼を見ていた。
「……驚いたな」
「別に驚くようなことじゃあるまい」
「驚くさ、そりゃ」
「馬鹿なことを言った。すまない」
 顔を曇らせて目を伏せた夏樹の肩を露貴は軽くたたき
「そこまで心配かけた自分というものに驚いただけさ」
 笑って見せる。
 真実、思ったことは口にせず。
「そろそろ帰った方がいいんじゃないか」
 真人君が心配するぞ、そう露貴は笑う。
 それに夏樹は答えず、照れたような顔をしては拳で露貴の胸をじゃれるように叩いて、去った。
 彼の姿が見えなくなるまで、露貴はそこに立っていた。
 彼は最愛の者が待つ家へと帰る。自分は一人、誰もいない家へと。
 いましばらくはここにいたかった。
「心配、してくれるのか……」
 嬉しい、それは確かに、嬉しい。けれど彼には真人がいる。
 切なさに涙さえ流れない。
 八つ当たりに手近な葉をちぎって捨てた。
「つ……」
 指が切れていた。細い傷から血が盛り上がる。
 それを露貴はじっと見ていた。傷を吸うのがためらわれてどうしようもなかった。
 つい、いままで夏樹が握っていた、手。
 苦しいほど、その温もりが残っている手。
 あふれた血が流れ出し、ようやく露貴は傷に唇をつけた。
 彼その人にくちづけるよう、そっと。




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