お前が好きだ。 せめてそう言えたらいい、いつも思う。こんな雨の晩には。 七月初め。まだ梅雨は明けない。昼間の咲き残りの朝顔が雨にしぼんで濡れていた。 朝顔が咲く時期になると露貴はいつも堪らなくなる。 あの晩。あの時のことを思い出しては。 「もうどれくらいになるのか……」 呟いて年月を数え、己のことながら驚いた。こんなに長い間隠し続けてきたなど。 真人はいまも知らない。 無論のことだ。知れば夏樹が許すまい。だから露貴は隠し通している。 あの晩のことも。今なおただ一人、夏樹を思い続けていることも。 あるいは夏樹もすでに忘れているのかもしれない。 そう思って暗澹とすることもある。 あの日、夏樹に誓った。桜が愛しい、と。 嘘ではない。が、真実でもない。 事実、桜を愛しく思ってはいる。けれど夏樹は違う。愛しい、などという言葉で表せるような生易しい思いでは、ない。 彼しかいない。 自分の世界には、夏樹しかいない。 そしてそれを口にすることは叶わない。 煙草に火をつけ深く吸う。吐き出した煙、立ち上る紫煙。まるで思いのように。 いつから煙草を呑むようになったのか、もうよくは覚えていない。ただ、やはり夏樹がらみであったことは確かだな、そう思い出す。 耐え難い思いに身を焼いて手を伸ばした煙草。 辛さが少しでも楽になったわけではない。まして消えるわけでも。それでも手を伸ばさずにはいられなかった。 多少なりとも気がまぎれるか、と。 はじめて夏樹に煙草を呑む姿を見られたとき、彼は少し眉をひそめて 「体に悪い」 と、それだけを言ったものだった。 見るともなく見れば煙の向こうに浮かぶ、彼の笑顔。 そばにいられるだけで幸せだ、あるいは消息を聞くことが出来るそれだけで。 そう思っていた。 違う。 思い、込んでいた。 真人が現れ、彼を失い、ようやくそれを理解した。 失ったのだ。 元々自分のものではなかった夏樹。けれど、今は決して手の届かない所に行ってしまった夏樹。二度と触れることもない夏樹。 自分だけが呼んでいた彼の愛称。 今は、違う 「馬鹿だな」 床に座った自分の膝の間、顔を埋める。薄暗い明かりの中に小さく煙草の火が燃えていた。 想いを隠すことは造作もない。信用されているのだから。彼にとってたった一人「親族」と呼べるのは自分だけで、年の近い、ある意味ではただ一人の友である自分。彼の弟ですら、自分達の間には入りこめなかった。 それを苦い思いで噛み締める。 親族、友。こんな言葉がなんになるというのか。欲しいのはそんなものではない。彼が欲しい。 愛しくて、気が違いそうになる。 雨の庭に出て露貴はしぼんだ朝顔を手に取った。 あの朝も、朝顔が咲いていた。 あの時の夏樹の緊張した顔を今もなお忘れてはいない。だから隠しているのだ。 夏樹が友である自分を「ただ一人の近しい友人」としての自分を失いたくない、というならばそうしよう。 あの朝、そう決めたのだから。 けれど、彼に隠すことは出来る、それでも自分に隠すことは出来ようもない。 想いはあふれてあふれて、止まらない。 いま、どうしているのだろうか。どこにいるのだろうか。 自分以外の、誰かと共に。 誰か、ではない。誰かはわかっている。その誰、を具体的に思い出したくない。 思い出すだけでぎりぎりと胸が痛む。いっそ物理的なほどのその痛み。 夏樹が彼に見せる笑顔、言葉の甘さ、仕種の一つ一つ。 唇を噛み締めれば血の味がする。 嫉妬がこんなに強いものだとは知らなかった。 知りたくなかった。知らなければ良かった。 彼に会うことがなければ知ることもなかった。 「それでも」 彼に出会ったことを後悔はしていない。 小さな体をした幼いころ。二親から虐げられて、それでも誇りを失うまい、と毅然と立っていた夏樹。守ろうと決めた。愛しいと思った。 堕ちていく彼を最後に止めたのは、あるいは自分かもしれない。いや、堕ちるのを救われたのは自分だったかもしれない。 どちらでもいい、いまとなっては。 あのころは、ただお互いしかいなかったものを。 噛み締めた唇から滲み出す血の味が濃くなった。夜と雨の匂いの中に、濃密な生命の匂いが立ち混じる。 「わかっているさ……」 決して報われない、と知ってはいても、それでもかまわない。そんなことはもう、疾うにわかっている。 愛しているのだから。 それを二度と告げることさえない、とわかっていても、でも。 愛しているから。 いつの間にか燃え尽きてしまった煙草の灰がかすかな音を立てて土に落ちる。 惨めな気分でそれを足で払って庭土にまぎらわせた。 こんな風に自分の思いも片付けてしまえたならばどんなに楽だろう。 知らず浮かぶ笑み。自嘲。 片付ける気などさらさらない、と自分で知っているから。 そう、片付ける機会ならば、何度でもあった。 桜と愛し合ったとき。真人が現れたとき。他にも、何度も。 けれどそうはしなかった。 この想いを抱えて、生きて行くと決めた。他ならぬ自分が決めた。 どれほど惨めで辛く、血を流してのた打ち回る茨の道であろうとも、彼を、ただ一人彼を愛し続けると決めたのは、自分。 「決めなくても、忘れられやしない」 空を見上げれば目尻に当たった雨が一筋、頬に流れる。 また一筋。今度は雨ではなかった。 「無様だな……」 嗤う。 彼に対してはいつでも頼れる男でありたい、と思っている。何事にも動じず、世間のことに詳しくて洒脱な人物。夏樹のできないこと知らないことを何でも軽々とこなしてしまう、そんな男でありたい。 そんな自分を事実、ある程度は頼ってくれている。信用してくれてもいる。 「俺にはとても。さすが露貴」 そう、尊敬に近い眼差しで見られることすらもある。 けれど彼は知らない。 こんな無様な自分を。 恋情に苦しんでのた打ち回る気力もなく立ちすくんでいる自分のことなど、知りもしない。 いや、知られたくなどない。決して。 想いを打ち明けてすべてを失うくらいなら、いっそ今のままでいい。 たとえ「ただの友人」であっても彼を失うより、ずっといい。 消極的でなんて情けない。 自分を嘲笑っても、けれどそれが真実の思いなのだからどうしようもない。 友人、この言葉がこれほど苦いなんて幼いころは思いもしなかったものを。 木々を叩く雨音。一人きりの暗い庭。 「お前が好きだ」 彼には告げない言葉を一人呟く。 こんな雨の晩に一人。 いつの間にか握りつぶした朝顔の花から滲んだ汁が指先を青く染めている。 思うのはいつもこれだけ。せめて、好きだと言えたなら。 |