曇りがちだった空が、夕暮れにはついに黒い雲に覆われるまでになってしまった。真人は残念そうに空を見上げ溜息をつく。
「どうした」
 振り返れば、暑さにすでにばてた夏樹が力なく横になっている。本格的な夏が来るより先、彼はいつも夏ばてをしてしまう。もっとも、夏が来ればもっと酷くなるのも毎年のことだった。
「大丈夫なの」
「なにがだ」
「体調」
 言えば頼りなく笑う。おかげで今日はだいぶ酷いのだと真人は知る。思わずそばに寄って額に手を当てれば、うるさそうに首を振られた。
「熱はない」
 掌の温度すら、いまの彼には鬱陶しい熱なのだろう。わかっていても少し、切ない。
「今日は、湿気が強いからな。少しきつい。それだけだ。気にするな」
「そう言っても……」
「気にするのはわかってるけどな」
 そう夏樹は笑い、体を起こす。その拍子にぐらりとかしいだ体に真人は手を貸しはしなかった。必死になって隠そうとしている夏樹の心を汲んで。貸してしまったほうがずっと楽だと言うのに。
「それ、どうするんだ」
 話を変えてしまいたいのだろう、夏樹が真人の手を指差した。
「うん、これ。あなた気がつかないのかな」
 暦と言うものに関わりの少ない生活をしていると、今日が何日なのかも忘れてしまうらしい。お互い様なのだが、そんな夏樹が真人は楽しい。
「あぁ……」
 言われてはじめて気がついたのだろう、夏樹が空を見上げて苦笑した。
「残念だな」
「そうだね。新暦ですると、こうなるよね」
「いっそ旧でやるか」
「それもねぇ」
 肩をすくめて真人は手に持った笹に目を落とす。
 七夕だった。旧暦ですれば、今日は月の入りも早くて天の川がよく見えるはずなのに、と思えば残念で仕方ない。
 それ以前に生憎の天気だった。もう一度縁側から空を見上げる。今にも降りだしそうだった。諦めて笹を花入れに放り込めば乾いた音。
「いい音だな」
「笹の音、涼しげだね」
「風が出たのも、丁度いい」
 花入れの中、笹が風に揺られてそよいでいた。真人は縁側のよく風のあたる場所へと花入れを移す。水も入れない花入れの中、くるくると笹は回って涼しげな音を立てた。
「ねぇ」
 呼びかければ、目を閉じて聞いていたのだろう、夏樹がゆっくりと目を開く。夕暮れの中、彼の日差しを受ければかすかに青めくはずの目は、仄かに暗かった。
「短冊飾り、しようよ」
「芋の葉でか」
「なに、それ」
「芋の葉の雫にたまった露で習字をすると字が巧くなるってお前、知らないか」
「あぁ、なんだか……聞いたことがあるような気がするけど……」
 だが、したことはなかった。真人が知っている七夕祭りはもっとずっと素朴と言うか、あまり儀式めいたことなど知らない。
 こんなとき少しだけ、夏樹の生まれた家のことを思ってしまう。いったい彼が知っている七夕の行事とは、どんなものなのだろうか、と。
 そして真人は夏樹が生まれた家を好いていないことも当然、知っている。尋ねるなどとても、できなかった。だから代わりににやりと笑う。
「習字の練習をしたほうがいいのは、僕じゃないと思うよ」
「言うな」
「あなたの字、僕は好きだけれどね。夏樹。あんまり上手とは言いがたいんじゃない」
「俺の字をけなすのはお前ぐらいな者だぞ」
「そんなことないでしょ」
 言い捨てて真人は座を立つ。本当は知っていた。篠原忍の悪名に似合わない、繊細な字だと誰からも褒められていることを。
 忍び笑いに肩を震わせて真人が台所にいくのを夏樹は苦笑して見ていた。それからほっと息をつく。
「悪いな……」
 せっかくだから付き合ってやりたい、と思いはするものの、年々夏が耐えがたくなっている。湿気の強い今時期など、問題外だと思うほどにつらい。
 額を指で拭っても、汗などなかった。乾いているくせに、体だけが熱を持つ。
「たまらんな……」
 呟きに、かぶさるように笹の葉の音。夏樹は耳を澄ませて音を聞く。それだけで少し、体が楽になる気がする。笹の葉ずれに誘われ、いつの間にか夏樹の呼吸は深くなる。
「夏樹」
 控えめな声に驚いた。目を開けるまで、閉じていたのも気づかなかった。
「悪い」
「よく寝てたから、起こすのよそうかと思ったんだけど。でも食べないとね」
「寝てた、か……」
 寝苦しい夜に、輾転反側していたのが嘘のようだった。思わず視線が縁側に。笹はいまだ風にくるくると回っていた。
「少し、ずるいね」
「なにがだ」
「笹」
 言って悪戯でもするよう、真人は笑う。それからわずかに顎を上げて夏樹を見下ろした。
「夏場は僕がそばにいるのも暑いって言うくせに。ちょっと妬けたよ」
「お前な」
「ほら、夏樹。伸びちゃうよ」
 自分が言ったことなど忘れた顔をして真人は食卓へと夏樹の手を引いた。何かを言い返そうと思ったはずだった。が、食卓を見てしまっては言えなくなる。
「七夕だしね。素麺にしたよ」
 いかにも涼しげな素麺が、ガラスの器にしとやかに盛られていた。汁の器にも、大降りの氷が浮かんでいる。いまの夏樹にとって何よりの贅沢だった。
「七夕だと素麺なのか」
「うん。織姫の機の糸に見立てるんだって、聞いたよ」
「俺は天の川だって聞いたがな」
「なんだ、知ってるんじゃない。損した」
 ぷいとそっぽを向いて、けれど真人は笑っていた。不意に二人の耳に音が届く。
「あ――」
「降り出したな」
「晴れて欲しかったのに……。牽牛と織女も残念だね、せっかく年の一度の逢瀬なのに」
 いかにも悲しい、といわんばかりの素振りのくせに、真人はつるりと素麺をすする。その差に夏樹は笑い出し、自分もまた箸を取った。
「まぁ、また今度ってことだろ」
「そんなこと言って。年に一度しか会えないんだよ」
「どうかな、それは」
 もの言いたげな夏樹の真人は目を吸い寄せられた。いっそ雨が降り出してしまったせいだろうか、湿気はより強くなったはずなのに、昼間よりはずっと顔色がよかった。
「人間にとって一年は長い。だが、星にとってはどうかな」
「あぁ、そうか」
「星の長い寿命を思えば、毎日顔を合わせているようなものかもしれんよ」
「それでも今日は会えなかったね」
「たまにはいいんじゃないか」
「あなたもそうなの」
「え――」
 思わず箸が止まって真人をまじまじと見やってしまう。そして己の失言を知った。ばつが悪そうに夏樹はそっぽを向き、態度で違うことを語る。
「ふうん、そうなんだ」
「おい、誤解は――」
「してないよ、夏樹。でもね」
 言いつつ真人は箸で汁の器をくるりと回した。からからと氷があたる音。行儀が悪いが、快い音だった。
「俺は一人でのんびり羽根を伸ばしてみたいとか、思っていないからな」
 どこかを見たまま夏樹が言う。その言い方ではまるで思ってでもいるようだ、と真人は思ったけれど吹き出してしまう方が先だった。
「わかってるよ、夏樹。さぁ、食べちゃおうよ」
 伸びてしまう、そんなことを言いつつ真人は箸を動かす。ほっとしたよう夏樹もまた食べ始めた。
「食べ終わったら、短冊。書かないか」
 ちらり、目だけを上げて言った夏樹に、真人は黙って微笑むだけだった。




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