「出かけませんか、薫さん」 なにやら楽しげな顔をして貴治が言う。ずいぶんと晴れやかな顔をして笑っている。薫は首をかしげて彼を見る。 この二日ばかり、水野本家から帰ってこなかった貴治だった。当然だ、と薫は理解してはいる。年明けから一人息子が熱を出していたのだから。 あの家では、貴治が留守をしている限り、なにがあっても子供が省みられることはない。貴治がいてさえ、命じなければ召使いどもはなにもしない。 それだけ、水野家であるにも関わらず、嫁いできた千尋の影響が強かった。貴治が、留守がちのせいだ。 それを思うと子供のためにだけ、薫は済まなく思う。あの屋敷で、夏樹はたった一人でいまもいるのか。母からは憎まれ、父からは見捨てられ。知りもせず彼を引き止めていた己を思う。 「貴治君」 だが、薫には彼に帰れとは言えなかった。手を伸ばし、きゅっと握る。温かい貴治の手に、込み上げてくるものがあった。 「どうしました。寂しかったですか」 済みません、言い添えて貴治は薫の手を握り返す。かすかに手の中で震える薫の手を強く握りしめ、微笑みかければようやくに薫の顔がほころんだ。 「ずっと一人にしてしまいましたね」 「そんなことは。私より、夏樹君じゃないか。もう熱は下がったの。帰らなくても――」 「薫さん」 少しばかり困った顔をして貴治が言う。その表情に、薫は胸を突かれる思いだった。握りしめた手を、なぜかついとはずしてしまう。申し訳なさでいっぱいになっていた。 「心にもないことを、言うものではありませんよ」 静かに言って貴治はにこりと笑った。やはり、手を離してしまってよかった、と薫は思う。 「私は……」 「夏樹ならば、大丈夫です。あなたに叱られてはたまらないから、ちゃんと元気になるまで見て帰ってきましたよ」 貴治は、息子のことなどなにも考えていない。ただ薫が気にかけるから、自分もそうしているだけだ。それがわかるから、薫は夏樹を放っておけない。 同じほど、貴治を自分の元にとどめたい、とも思う。息子のために帰れと言い、自分のために留まれと言う。なんとわがままな男か、と思えどもあふれる気持ちは抑えがたかった。 「だから薫さん。出かけましょう」 「なにを……」 「ひどい人だ。少しも私の話しを聞いていない」 からりと笑って貴治は薫の手を取った。知らず頬を赤らめた薫を愛しげに見やり、壊れ物でも扱うよう、くちづけをする。 「貴治君」 押し返すよう、触れた貴治の頬はわずかばかりではあったが、窶れていた。薫ははっとする。まるで、気づいていなかった。 ようやく貴治が出かけたいという理由がわかった。気晴らしを、したかったのか。本家で疲れ果てた貴治は、やっと自分がいるべき場所に帰ってきたことを実感したくてそう言うのか。 「どこに行こう、貴治君」 そっと笑みを浮かべ、薫は彼の手を取る。先ほどの自分の手のようだ、と薫は思った。震えてこそいなかったけれど。 「さぁ、どこでも」 繋いだ手を取り、貴治はするりと立ち上がる。ただ共にいたいだけなのかもしれない。そう思った薫は、笑みを浮かべて彼に従った。 他愛ないことを話すでもなく話さないでもない。近況を話せば、貴治は千尋の話題を出さざるを得ない。だから、話さなかった。 薫もまた、同じだった。貴治が留守の間、千尋が自分になにをしたかなど、一々報告したくはない。疲れきった貴治が踏みにじられた庭に気づかなかったのを幸いだとばかり思っていた。 散歩、というにはずいぶんな距離だった。くたびれるほど歩きもし、電車にも乗った。目を上げれば午後も遅い陽が射している。細い冬の陽射しだったけれど歩き詰めの体は温かい。 「ずいぶん遠くまできてしまいましたね」 照れたよう言った貴治の顔は、見るからに晴れやかだった。それだけで薫は出かけてきてよかったと思う。辺りを見回し、人目を忍んで貴治の手を取った。 「おや、嬉しいことを」 目を細めて言う貴治の声に、薫は含羞んでそっぽを向いた。何事もなかったよう、手を離せば、わずかに残念そうな貴治の気配。それを薫は笑った。 「ひどいな、薫さん」 「なんのことかな。さぁ、行こうよ」 「どちらに」 「よい匂いがするよ。そちらに」 「あぁ、本当だ。海の匂いがする」 呟くよう言い、貴治は顔を巡らせる。ほどなくにこりと笑った。まるで迷子の手でも引くよう、貴治は彼の手を取る。 「貴治君」 抗議の声など、聞こえない顔で貴治は薫を連れて歩いた。本家にいた間の疲れが、拭うよう取れていく。このままずっと薫と過ごせたならば、どんなにいいだろうか。 叶わない願いではない、と貴治は思う。いずれにせよ、互いに家からは半ば捨てられた身だ。ならば二人で生きることも。 「薫さん」 「どうしたの」 「一緒に、ずっと一緒に暮らしたいですね」 「なにを、急に……」 「いやですか?」 真摯な顔をして貴治が振り向いた。断るとは、微塵も思っていない表情だった。だから薫は堅い顔をしてみせる。それは、薫自身が意図したより、ずっと厳しい。 「貴治君。君は、忘れてはいないか。君は……」 「水野の家のことなど、どうでもよろしい」 「違う、貴治君。君には、君の庇護を必要とする人がいる」 「いませんよ、そんな者は」 「やっぱり、忘れているね。夏樹君がいるじゃないか」 案の定だった。貴治は、まるで息子のことを忘れていたのだ。目を瞬き、唖然とする。決して悪意ではない、それを薫は知っていた。 だが、夏樹にしてみれば同じことだろう、と思う。いずれにせよ、忘れられるならば。 「薫さん、私は……」 「君が、わざと言っているのでないことくらい、私にはわかっているよ」 「……悲しいのです。薫さんに、寂しかったのかと聞きましたね、私は。寂しかったのは、私です」 「わかっているよ、貴治君。私もだ」 本当に、とでも言うよう貴治は首をかしげて薫を見た。力強くうなずく薫に、ほっと息をつく。それから詫びるよう、軽く頭を下げた。 「貴治君」 彼の、そのような姿など見たくはなかった。薫の貴治は、いつも凛と自信にあふれた姿をしている。もう少し、年下らしく甘えてもよいと思うのだけれど、彼には彼の誇りがあるらしい。それがまた、微笑ましかった。 わがままだ、と薫は己を知っていた。凛としていろと言い、うなだれるなと言う。それでいて、甘えて見せろなど、無理にもほどがある。 「いつか――」 それでも貴治は自分に応えてくれる。その貴治に、自分こそ応えたいと思う。 「私に梅をくれるとは君は言ったね」 「春、花が咲いたら木を見繕うつもりですよ。楽しみにしておいでになるといい」 「梅の若木が立派になるには、どれほどの時がかかるだろう」 「あっと言う間ですよ、薫さん」 励ますよう言う貴治に、薫はにこりとした。小首をかしげ、貴治の顔を覗き込む。 「ならば貴治君。人の子が育つのも、あっと言う間に違いないね?」 驚いたよう、貴治が目を丸くした。その顔に、したりとばかり薫が笑う。 「夏樹君が、大人になった頃、私の梅も立派になるね。そのときには貴治君、一緒に、二人で私たちの梅林に暮らそうよ」 「長いですよ、薫さん」 「あっと言う間だと言ったのは、君だよ。貴治君」 声を上げて笑い、薫は足を早める。慌てて追ってくる貴治の声を心地よく聞いていた。潮の匂いが、強くなりつつあった。 「あぁ……」 不意に海が見えた。午後の陽射しにきらきらと輝いている。思わず片手で目を覆う。眩しくて、胸が痛くなりそうだった。 「よいものですね、冬の海も」 追いついてきた貴治が、極まったよう言うのに、薫は黙ってうなずいた。ついでくすりと笑う。 「これさえなければ、もっとよいのにね」 ちらりと振り返れば、うらぶれた店先で栄螺を焼いている。潮の香りに醤油の匂いが入り交じる、海岸らしいと言えなくもない。 「風情がある、と言っておきましょうか」 苦笑を交わし、二人砂浜に向き直る。どこまでも輝きが続いている、そんな気がした。 「薫さん、あちらに行ってみましょうか」 貴治が指さし、薫を引っ張り出す。貴治の顔もまた、海の照り返しに輝いていた。その晴れやかさに、薫は安堵する。 「貴治君。そんなに引っ張るものじゃないよ」 言いつつ、薫は自分から手を離そうとはしなかった。言うまでもなく、貴治もまた。このような海辺なら、きっと正月の屠蘇に浮かれた浮かれた観光客に見えるはず。 「行きましょう、ほら」 つ、と貴治が手を強く引いた。はっとして薫は止まる。急に足を止めた薫を訝しんだ貴治が振り返った。 「貴治君」 そこは、橋の手前だった。海岸から、すぐ向こうの小島に渡る橋。立ち止まる二人の側を、人が通り過ぎていく。 「江ノ島の、弁財天は嫉妬深くおわすそうだよ」 「薫さん?」 「……恋人同士をごらんになると、焼き餅を焼いて引き裂いてしまうそうだ」 繋いだ手もそのままに、貴治が満面の笑みを浮かべた。薫は、唇を引き結んだまま、江ノ島を見ている。照れているのかいないのか、陽射しに照らされた彼の顔色は窺えなかった。 「帰りましょう。薫さん。弁財天に妬かれては、たまらない」 つい、と近寄ってきた貴治が、耳元でそう言ったのは、間違いなくわざとに違いない、と薫は思う。苦笑して彼を見上げれば、海のよう輝く笑顔がそこにあった。 |