普段から寝坊の彼にしても今朝はずいぶん遅すぎた。 なんだか不安でそっと彼の寝間を覗けば、ほんのり上気した頬が浮かんだ。 「夏樹さん……」 応えるように向けられた眼差しはしっとりと濡れて。 その意味に慌てた僕は滑稽なほど動転しながら額に手を当てる。 「風邪。心配は要らない」 そうして笑うのがとても苦しそうで、大丈夫だなんて信じられはしなかった。 「食欲は」 「あまり」 「おじやでもしましょう。少しでいいですから、食べて……今日は一日横になっていてくださいね。仕事なんて、だめですから」 「そうしよう」 僕の慌てぶりがおかしいのかくすりと笑うも、それさえ力なくて余計に僕を心配させるのだ。 のどの通りがよいように、とやわらかく炊いた葱のおじやを無理して口に運ぶのを横目で見つつ、僕はからりと雨戸を開ける。 外はまぶしいほどの快晴でそろそろ本格的な夏の到来を思わせる。 後ろに回ったついでとばかり肩に上着を着せ掛ければふわり、目だけで笑う。 ゆっくりと時間をかけてきれいに食べてくれたのが、嬉しい。 たかが風邪であっても食べられなければもっと心配になっていたに違いないから。 もしかしたらそんな僕のため、つらいのを我慢して食べてくれたのかもしれない。彼はそういう人だった。 そう思えばそれさえ嬉しく、風邪も悪くないなんて考えている僕がいる。あまりの現金さに胸のうちで一人、笑った。 「寝間着、替えましょう。汗が冷えるから」 「出してくれれば、自分で」 「背中の汗は自分じゃふけません」 「……いやだ」 いつになく強く言われた言葉に下心を見透かされた気がしてどきりとする。 笑ってごまかそうか、そう決めたとき彼は言った。 「……すまない。傷跡がある。あまり見られたくない」 「……傷」 「そう、酷い、傷だ」 そうして彼は目をそらす。それで僕は知ったのだ。彼の傷跡が今なお血を流し続けていることを。 もしもこれから先もこうして側にいることが許されるなら、すべて吐き出させてしまいたかった。 吐き出させてしまわなければいけない、そう強く感じたのだった。僕はそれで楽になったから。あるいは彼にも。 「言ったじゃないですか。軍人だったんです。傷くらいじゃ驚きません、見慣れてますから」 さりげなく問題をすりかえて襟に手をかければ彼がじろり、睨んでくる。さもいやそうに。 「……脱がされるのは趣味じゃない」 僕は思わずきょとんと彼を見、次いで大笑い。どさくさ紛れに彼の肩に頭を預けて。 とてもその手の冗談を言う人だとは思っていなかったから。 「失礼な奴だ」 半ば邪険に僕を突き放し、帯に手をかける彼の耳は決して熱の為だけではなく、赤く染まっていた。 投げやりに落とされた、寝間着。気がつかれないようにそっと、僕は息を飲む。 「戦争……ですか」 左の肩と右の脇腹。傷の大きさ物凄さ。なまじきれいな肌だけに、その引きつれのあまりの無残さ。 僕は戦争の時に出来たほど新しい傷ではない、それを知りつつそう訊いた。 それ以外にどう訊けたろう。 「違う。子供の――頃だ」 何十年経っても残る傷跡の鮮明さ。命にかかわる怪我であったに相違ない。 「死にかけた」 ぽつり、呟くその言葉が居たたまれなくて僕は、まるでまだその傷が痛みでもするかのようにそっと汗をぬぐい、寝間着を着せ掛けた。 激しい後悔に身をさいなまれながら。 僕は身のほど知らずにも彼の傷を新たに、さらに深く、えぐってしまったのかもしれない。 黙って布団に横たわった彼はしかし、ずいぶんと穏やかな目をしていた。 「聴いてくれるか」 そう言って。何かを振り切ったように目だけで笑った。だから余計にずきずきと胸が痛んで仕方ない。 「なぜ、僕に……」 「お前がいると気が休まる。その所為かもしれない」 嫌か、そう言う彼に首を振って見せれば静かに彼は話し出す。 「……母に、殺されかけた、その傷だ」 ゆっくりと自分で再びその事実を確かめでもするように彼は言う。軽く伏せられた瞼がかすかに震え、彼は痛みを耐えていた。思い出すだけでも痛む傷跡。僕はそれを暴いてしまった。 「あれの他に足に、もう一箇所。三回だ」 三回。三度にわたって母に。母に殺されかけた。この人は。淡々と、彼は話す。 「俺は母に疎まれていた。弟は愛されていた。それだけだった」 その弟の家督相続のため、自分が邪魔だったのだ、そう彼はわらった。むりに、わらった。 「それでも俺は弟が可愛い」 事実、母さえいなければすこぶる仲のいい兄弟だと言い、影に日向に彼を守ったのもまだ十になるやならずの弟だったと言う。 「次はもうない、そう分ったのが十七の時。立ち向かうには幼すぎたし、殺されてやるほど無気力じゃなかった」 ゆっくりと開かれた目は遠く、庭のかなたを見つめている。そう、自身の過去を見据えるように。 知らず、涙がひざに落ちていた。後悔と苦しさと彼を思う気持ちがないまぜになって、いったい何を考えているのかわからない。 「おい……お前が泣くこと」 慌てた彼の声音にはじめて自分の涙を自覚し、僕はうつむく。その頬に彼の指。あたかも壊れやすい大事なものを扱うかのように、涙をぬぐっていく、彼の指。そんなことをしてもらえるような僕ではないはずなのに。 「酷い……」 僕は早くに母を亡くした。記憶にかすむ母の姿さえ、もう定かではない。だからこそなお、僕にとって母という存在は甘いのだ。温かくて柔らかくていい匂いのする永遠なる母。 その母に。 母たる人がそんな非道をするなんて、彼の傷を見、彼が語ったのでなければ到底信じられはしない。 悲しみ、いや、これは怒りだった。 心密かに想うこの人を、そんなむごい目を合わせたその女を僕は彼の母とは思いたくない。思えない。 ひざの上、ぎゅっと握り締めたこぶしを見つめたままの僕は、それからずいぶん長いこと、彼に抱きしめられていることに気づかなかった。 「泣き止んだか」 耳元で、ささやくように訊ねられてようやく僕は彼の腕を知る。 慌てて謝りながら飛びのいた僕を彼は珍しいものでも見たような顔をして笑う。 「少し眠るよ」 そう、再び笑った。それは彼のほうこそが安堵したような笑みだった。 涙の名残をぬぐいかけた手を止められ、代わりに彼が同じ事をしてくれる。 ほっそりとした大きな手は僕が知るどんな人の手よりあたたかくて、やさしかった。 彼の眠りを邪魔しないようにと立ち上がればつい、と腕を引かれる。ふ、と彼を見ればいたずらでもしたような彼の、顔。 「ここにいてくれないか」 そう言いながら。 無論僕に否やはなく、たぶん僕は少し照れたような笑い顔を浮かべていたことだろう。 程なく眠りに落ちた彼を飽かず見つめ、僕は思う。 まるで剣士のようだ、と。 熱の所為でほんのりと上気した頬。いつもよりもずっと透きとおる肌。漆黒の瞳を隠した瞼はその色を映してか、蒼い。少し長めに伸ばされたままの髪はやわらかく額に乱れている。そう、外見だけならば傾国の美女だとてかないはしない。 そのくせ全身から立ち上るのは研ぎ澄まされた刀か、針か。そんな心だ。 その張り詰めた糸が僕の側でふっと緩む。その瞬間を僕はこよなく愛した。 願わくば彼とこのままあらんことを。それは子供じみた、憧れ。しかし僕はそう願わずにはいられない。 あの戦争は僕から、ずいぶん沢山の事を奪っていった。夢、希望、信頼。生きていくうえで欠かせない大切なものを僕から、僕らから戦争は奪っていった。 すべてが打ちのめされて僕はずっと独りだった。彼に会うまで。彼に会うまで僕は、独り、ということを知らなかった。 僕は彼を知り、そして自分を知った。 自分の生きてきた世界を知った。彼の生きてきた世界を垣間見た。 交わることのなかった世界が、道がはじめて交わり、そして僕は独りということを知ったのだ。 固く閉ざされていた魂があたかも春の陽に触れた木々の芽のように僕の中でほころんでいくのを感じる。 それはなんとも快い感動だった。 いつの日か互いの痛みを笑って話せる日がくればいい、僕は心からそう思う。 出来ることなら彼から感じる好意と友情が僕と同じ想いにまで育ってくれればいい。 そう思えば視線は几帳面に引き結ばれた彼の唇に泳ぎ、僕は慌てて目をそらす。 抱かれたときの彼の温もりが、鼓動が、まだ僕の体に残っていた。 そのときの僕はまだ何も分ってはいなかった。 あまりにもよく眠っているのをわざわざ起こすのは気が引けて、けれど側にいて欲しいと言った彼に背くのは余計、気が引けて。 「夏樹さん、ご飯の仕度しに行くから……」 声をかければ薄い瞼の下から濡れた瞳があらわれる。それは鮮やかで美しい景色だった。 「ん……行く」 言いつつふらり、彼は丹前引っ掛け立ち上がり、もとは茶の間だった僕の部屋へと陣取った。 そこならば、台所にいる僕の姿を見ることが出来るから、かも知れないというのはうがち過ぎか。 せめて体が温まるようにと味噌仕立てのおじやを盆にのせて彼のもとへと戻れば彼は――。 一心不乱に読んでいる。僕の書き散らした、紙片を。僕の短歌を。 「沈香……加賀沈香かッ」 僕は一瞬息を飲む。 彼が知っているわけがない、知るはずもない。僕が世に出したたった十二首の短歌を。けれど、彼は知っていた。そしてそこから推測したのだ。 あの詠み振りと、今ここにあるその短歌を比べ、僕が沈香だと言う事を彼は、知った。 「十二首だ。俺の知る限り、沈香という歌人が詠んだのは」 「……はい」 ためらいがちに答えれば彼は莞爾とした。まるで積年の想い人に会ったかのように。 「惚れてた。一度、会ってみたかった。……あの戦争で、死んでしまったとばかり、思っていた」 「よく、判りましたね」 「俺も物書きさ」 そうさらりと言った。けれど、それだけでないことは僕にだってよく分る。 どれだけ、沈香という歌人を、その歌を大事にしていてくれたのか。 僕にだって、よく分る。 「そうか……沈香だったのか」 「捨てた名です」 自分でもはっとするほどきつい語調に彼は穏やかな笑みを見せ、そして言う。 「名前なんて何でもいい。この魂がお前だった、それが嬉しい」 束ねてさえいない紙を彼は抱きしめんばかりにしてそう言うのだ。 「期待はずれですみませんね。冷めますよ」 思った以上に僕の言葉は冷ややかで。 それをどうとったかほんの少しの苦笑を上らせて、彼は箸を取った。 それは嫉妬だった。沈香、への。捨てたはずの僕の名への。僕自身への。彼にとってのただ一人になりたい、そう望んでいたけれど、こんな形では嫌だった。僕が今あるままに、僕として、彼に受け入れられたかった。 贅沢な悩みと、理不尽な、それは嫉妬だった。 |